米田彰良-3
“それ”は、人間よりも遥かに上の存在でも見逃しかねない程ささやかで静かな変化だった。
「…………!」
生物で言う心臓など存在しない胸が強く脈打つような錯覚に、ツツウラは弾かれるように顔を上げた。
言葉で称するなら、これこそを嫌な予感とか胸騒ぎと言うのだろうか。
的確に断言は出来ないが、それでも漠然とした何かへの悪寒に似た何か。ここで動かなければ何か悪いことが起こるという、理屈ではない思考。
今まで――人間の暦と歴史からすれば途方もなく長い時間生きてきて初めての感覚に、椅子を蹴るように立ち上がる。手に持ってキャッチコピーやら原材料名を見ていた発泡酒の空き缶は、行き先も見ずに投げ捨てた。
初めて味わうそれは、先程まで晩酌を楽しんでいた雰囲気も気分も全てを塗り潰す酷く嫌なものだった。しかしそれでも、変化を感じ取れた時点でツツウラが取るべき行動は決まっていた。
今この空間で、こんな言いようのないものを生み出し得るのは、自分が引き留めた彼しかいない。
「彰良君!!」
人を模した体を這い回る予感に突き動かされるまま、ツツウラは部屋の隅に取り付けられている扉へと走り寄る。
握り締めた拳で数回扉を強く叩いてみるが、案の定応答はない。寝ているだけにしても妙だ、と歯噛みして、前置きもなく扉の取っ手を掴んで捻る。
扉を乱暴に開け放った先、暗い室内の様子を視認してツツウラは目を瞠った。
日付が変わる真夜中、小型の照明も何もなく隣の部屋からの光だけが差し込んでいる室内は酷く薄暗い。ただでさえ物が雑多に置かれているのを特に整理もしなかった物置だ。棚や箱やその他の影が、暗がりの中更に黒く浮かんでいる。
その薄暗い物置の、まだ少し埃を被ったままの床に彰良が倒れ伏していた。
ツツウラが開けた扉の形に切り取られて差す光の下、白いシャツの袖口から伸びる痩せた手が床に投げ出されていた。指先が僅かに白くなっているのを見て、床を掻くように力が込められているらしいと知る。
ツツウラは瞬き程度の一瞬だけ呆然として、すぐさま我に帰る。
「っ、彰良君!」
再度彼の名を叫んで、変わらず反応のない彰良の元へと駆け寄り膝を折る。
「彰良君、しっかりして、何があったのか俺も分からないけど何かあったなら何とかするから、彰良く――」
片手で細い腕を掴んで、片手で体を支えて彰良の体を抱き起こしたところで、ツツウラはまくし立てていた言葉を途切れさせた。
平均的な人間の視覚に近い目がようやく闇に慣れたおかげで、彰良の顔がはっきりと見えた。
「あ、きら、君、」
ツツウラの声にも、触れた手にも反応しないまま、彰良は乱れた髪が被さるその向こうで目を見開いて、顔を歪めて、僅かに開いた唇の奥で歯を震わせていた。度を超えた恐怖、そう称するのが限りなく近いその様子に、ツツウラは狼狽する。
こういう場合の対処法を、ツツウラは知らない。きっと自分以外の存在も、それこそ“会社”の上司も知らない。本来であれば彰良はもうこの場に留まっている筈のない死者だからだ。存在し得ないものの、想定し得ないものへの対応があるわけもなかった。
規則を破るとは、そして正規の流れから外れるとはこういうことだ。何か起きるかもしれないとは思ったが、それがあまりにも早すぎたことにツツウラは今更に悔やむ。
それでも、今すべきことは後悔することより彰良の状態を落ち着かせるのが先だ。すぐさま感情を切り替えて、ツツウラは彰良の体を支える腕の位置を変える。
自分達の中に対処法がないのなら、ニンゲンの考え方で対応すればいい。
ツツウラはその場に腰を下ろして、彰良の体と頭を自分の胸に凭れさせる。そのまま背に回した腕に力を込めて目を閉じる。
間近で引き攣れた呼吸音が微かに聞こえて、少しだけ安心した。
同性の、しかも生きているものの温度もない体だ、効果があるかどうかは分からない。それでも、ヒトは友人同士仲間同士で抱き締め合い泣き合い精神の均衡を保つ生き物だ。もう具体的な対応策が分からない以上、ツツウラにできることはこれくらいしかなかった。
あとは、そういえば、背中とか頭に触れてやると安心しやすいとか何とか言ったか。子供に対してだっただろうか? いや、何でもいい。
よし、と内心意気込んで、彰良の後頭部に片手を回して、掌に感じた異質な感触に反射的に手を引いた。
触れたばかりの掌を見て、ツツウラは「ああ」と納得したような声で呟いた。
「……成る程、思い出しちゃったのか……」
彰良の頭部に触れた指の先から掌の中程までが、黒く染まっていた。そしてそのべったりと手を汚しながらもどんな質感にも該当しない黒さは、自殺者が纏っている色と酷似していた。
恐らくは、死ぬ瞬間の記憶を思い出したことで錯乱したのだろう。ツツウラは推測する。
引き金は今日の早朝に出会った自殺未遂者の少女か。成る程、彼が酷く疲弊した様子だったのも、そう考えれば納得がいく。
あの後余りにも疲れているようだったからとここに戻ってきたのは、案外正解だったのかもしれない。幸い、今回はあの少女以外に誰も来なかったとはいえ、運悪く他の自殺者と接触していたら、これくらいの異常では留まらなかった可能性もある。
彼の死因は投身自殺だ。高所から身を投げて“しっかりと”死ぬ為には、足や体の横からではなく頭部から落ちる必要がある。自殺した瞬間の記憶を思い出して――それがフラッシュバックして、致命傷となる傷を受けたであろう頭部が染まること自体は想像に難くない。
視線をずらして彰良の頭部を見る。確かに、本来なら茶の頭髪が垂れている筈の頭部も同様に変色していた。
彰良の様子を確認してから、ツツウラは改めて自分の手を見る。丁度、手に付着した自死の残滓はその色を薄め始めていた。泡が流水で流されていくように、するすると剥がれ落ちて消えていく。
「あ、早い早い、これなら大丈夫だ」
まるで自分自身に言い聞かせるような言葉が、無意識の内に漏れていた。
まだ彰良本人の色が薄れる気配はないが、それでも大分早い方だ。初めて会ったあの瞬間、輪郭でしか成人男性であると判別できずこの部屋に招いた辺りでようやく色を取り戻しつつあった時に比べたら余程いい。
自らの手から最後の一片が消えていくのを見送って、ツツウラはまたその手を彰良の背に置いた。
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