1-津々浦々

津々浦々-1

 曰く。自分が自殺で死んだことで、男は今日の予定をメチャクチャに狂わされたのだそうだ。

 今日の予定。定時で仕事を終わらせて、家に帰って、久しぶりに酒を飲んで、あとはのんびり過ごす。だけ。それだけのことをしたいだけだったのだ、と。

 涙ながらに、時折言語さえあやふやになりながら、怒りと悲しみを込めた口ぶりでまくしたてられたのは、つまりそういう意味合いのことだった。

 一通り男の意見を全て聞き届けて、彼が今度こそ口を閉ざしたところで、彰良は自分の疑問を全て包括する言葉を口にした。


「あの、何が何だか、何も分からないんですけど」


 何も分からない。これに尽きる。

 何故、自分が死んで尚こうして存在していられるのか。何故、男がそれに対してこうも怒り狂っているのか。そして何故、自分が死ぬことが彼曰く“残業”に繋がるのか。

 あらゆる疑問に通ずる言葉を投げられた男は、額の汗を拭いながら目を瞬かせた。

 騒ぐだけ騒ぎ切って、些か冷静さを取り戻したらしい。男は、そうか、そうだよな、そっか、とぶつぶつと繰り返しながら、頻りに頷いている。


「何か、俺が迷惑かけちゃってるらしいことは分かるんですけど、それ以外がちょっとよく分からな」

「そうだ、そうだよな、そうだ。分からないよな、そりゃそうだ……」


 再び彰良を遮って、男は気まずそうに笑う。


「いきなり怒鳴ってごめんね」

「はあ、まあ……いいんですけど」

「何も分からないのは当たり前だよね、初めてここに来たんだ――いや、ニンゲンはここに来るのは大体最初で最後なんだけど」


 もう、彼は随分と落ち着いていた。やけに饒舌なのが生来のものなのか、それともついさっきの興奮の名残なのかはさておいて。

 先程までの恐慌などなかったかのように穏やかに語りかけてくる男に、彰良は取り敢えず曖昧に頷く。


「どこから、話したらいい?」

「……じゃあ、名前から」

「ああ、そうだ! 自己紹介からだね」


 今度は恥ずかしそうに笑った男が、おもむろに自らの黒スーツとシャツの襟を正した。


「俺は“輪廻転生管理会社”のツツウラ。今はそっちの世界で言う、えっと……ニホン? の担当をしている……何て言おうかな。まあ、自分達の人智の及ばないなんかだと、思ってくれたらいいよ」


 輪廻転生管理会社。人智の及ばないなんか。

 耳慣れない、あまりにも現実離れした言葉の羅列に、彰良の思考が停止する。

 よろしく、と差し出された手を、彰良は握ることができなかった。

 呆然と、ツツウラと名乗った男を見る。

 顔立ちは整っているがまあ普通、背格好も普通の若い男だ。そんな彼が“人智の及ばないなんか”だなんて、容易には信じられない。

 もしかしたら、自分は実は死に損なっていて、意識不明の重体か何かで病院に搬送されているのではないか。今のこの状況は、そんな自分が見ている一種の夢か、臨死体験めいたものなのではないか。

 だとすれば、少し自分の体に刺激を与えたら、この夢から覚めるのではないか。

 怪訝そうにこちらを見遣るツツウラは、未だこちらに手を差し伸べていた。

 彰良は恐る恐る手を伸ばして、そして彼の手を無視して、自身の頬を抓ってみた。全力で。


「え、何し……あー痛いよ多分、そんなことしたら!」


 その言葉通り、痛い。夢だとしても死後だとしても、痛覚があるというのは奇妙なものだった。ただ、痛みを感じるということは、これは自分が体験している“現実”だということになる。

 ならば、自分が真っ先に感じた“自分は死んだのだ”という認識も、また現実なのだろう。

 彰良は手を離し、狼狽えている自称“人智の及ばないなんか”を見た。

 とにかく、普通の人間ではないことは確かだ。今説明してくれる人物は、彼しかいない。

 視線で、説明してくれという訴えが伝わったらしい。ツツウラが、頭を掻いて話を続けた。


「……君は、米田彰良君だよね。グレゴリオ暦……西暦千九百九十六年六月八日生まれの、二十一歳、性別は男性で、没年月日が二千十七年十一月二十三日、死亡時刻が日本時間で午前十時四十三分、享年は二十一歳、死因は自殺――ええっと多分、多分だけど、高所からの飛び降り自殺かな」


 穏やかに、眼前の死者である彰良の個人情報を諳んじるツツウラが、そこで一度区切る。

 どうして自分の名や死因を知っているのだと問うのは、恐らく愚問だ。答えは、“そういう存在だから”だ。それ以外にない。

 彰良は、自分でも驚くほどすんなりと、その事実を受け入れていた。


「自分でも気付いていると思うけど、彰良君は確かに死んだんだよ」

「……ですよね」


 そうだろう。首肯する。少し前まで抱いていた夢なのではないかという疑惑は、頬を抓った痛みと、ツツウラの台詞で消えてしまった。

 彰良は確かめるように、そこだけじんわりと熱を持ったままの頬に手を当てる。

 抓れば痛くて、そこが熱を持って、声を出せて、声を出す為には息を吸って吐かなければいけない。生きているのと何ら変わらないような感覚。

 自分でいられて、尚且つこんな感覚が残っているということは、ここはまだ天国でも地獄でもないのだろうか。思いながら周囲を見て、彰良は初めてツツウラ以外のもの――彼の背景となっている、この世界の風景を注視した。

 第一印象は、地方都市。ツツウラの存在同様、やはり見たこともない、しかしどこにでもありそうな市街地。自分と彼が立っているのは、そんな街中の車道のど真ん中だった。

 天国でも地獄でもないような場所で、人の形をした何らかの存在と対話する。状況的に、自分が結局どちら行きなのか、今から選定されるように思えた。

 ……だとしたら。


「……っていうことは、俺、これから地獄か賽の河原かに振り分けられるんですか」

「ええ?」


 何を言っているのか、とばかりに、ツツウラが疑問符を剥き出しにした。


「何言ってるの? どういうこと?」

「え、いや……自殺した人の魂は天国に行けないとか、楽にはなれないとか、よく言うから」


 そう、これから魂の行き先が決まるというのなら、きっと自分の向かう先は地獄だ。彰良は戸惑うツツウラに説明して、俯く。

 自殺してはいけない。それは、人の世で、常に流布される“常識”だ。

 自殺してはいけない。死んでも楽にはなれないし、永遠に苦しむことになるし、その魂は天国には行けない。自ら命を絶つというのはそれだけ間違った行いで、罪である。

 ならばそれだけの“罪”を犯した自分の魂が、天国に案内して貰えるわけがない。

 死んだことを後悔しているわけではない。宗教的に倫理的に罪とされるそれを選ぶだけの苦痛が、自分の中における最大限苦痛が自分にはあった。だから、天国とやらに行けないことを嘆くことはない。ただ、これから地獄行きかと思うと、まるで仕事に赴くかのように気が沈むだけだ。

 ツツウラはしばらく、俯く彰良を見つめて沈黙していた。それから上を向いて、数秒ほどしてから、ようやく「ああ」と声を上げた。


「“下界”……あ、君達の生きている世界で、よく言われてる話だね」

「はい」

「それなら心配いらないよ。どっちもないから」


 今度は、彰良が戸惑う番だった。え、と短く間の抜けた声を上げた彰良に、ツツウラは穏やかに微笑む。


「そういうのは宗教上の話だよ。現実には、どっちもない」

「天国も地獄も、そういう区分け自体が?」

「そう。あるのは、ただ次の生に向かう輪と、その為の世界だけだ。……ここには罪とか罰とか、そういう概念自体ないしね」


 彰良自身は、何か特定の宗教を信仰しているわけではない。無神論者ではないが、かといってどれか一つの宗教に入れ込んでいるわけでもない。

 それでも、宗教という垣根を越えて浸透している死後の概念自体を覆されるのは、戸惑うには十分すぎた。


「つまり、ここが君達にとっての死後の世界で、また輪廻の輪に戻る為の場所でもあって、俺達はその魂を管理するのが仕事なんだけど――自殺の場合、ちょっとね、大変なんだ……」


 そこで一度、ツツウラの声が途切れた。尻すぼみになって消えていった言葉の先を予測できず、彰良は眉を顰める。

 彰良の表情の変化を知ってか知らずか、ツツウラは自らが浮かべていた微笑を困ったような表情に変えた。


「いやごめん、どうにも、こういうのは説明臭くなっちゃって苦手なんだ。ウイ君ならもっと上手くやれるんだろうけど……」

「まあ、説明なのは本当ですし……自殺の場合は大変って、どういうことですか。何かさっき、残業とか何とかって言ってましたけど」

「ああ、それ……それ、」


 困り顔を一息に落胆に変えて、ツツウラが肩を落とした。

 よくもまあ、こんなにころころと表情が変わるものだ。彰良は何となく感心する。どちらかというと、死んだ側である自分がすべき反応な気がするが。


「自殺……自分で命を絶つっていうのは、世界の予定にも輪廻の予定にもない仕事でね、それって俺達にとっても全く予定にない業務なんだよ」

「……つまり、本来やるはずじゃなかった業務を無理矢理挟むことになるから、仕事の時間が伸びる……」

「そう!!」


 今まで与えられた情報のみで導き出した彰良なりの解答に、ツツウラが吠えた。


「そう! それ! その通り! 本当なら今ここに来る筈じゃない魂を輪廻の輪に乗せるのって大変なんだよ! ただでさえニンゲンは毎日たくさん死んでたくさん生まれているのにそこに自殺した人の魂を割り込みで入れて更に輪廻を保つのがどれだけ大変かってね――」


 彼の言葉の後半は、彰良には聞き取れなかった。早口で叫ばれているから、とかいう理由ではなく、文字通り聞き取れなかった。

 言動は到底、“人智の及ばない存在”とは思えないくらい人間的だ。しかし本物ではあるようだし、恐らく後半の台詞が聞けなかったのは、彼の感情があまりに高ぶったせいで“人間という生命には観測できないもの”になってしまったのだろう。彰良はオカルトに対する造詣はないが、何となく予想はついた。

 思えば、最初捲し立てられた台詞が断片的に分からなかったのも、このせいかもしれない。

 具体的にどう大変かは一切明かされなかった――彰良には言葉として処理できなかったが、謂わば人間よりも高次元の存在がここまで取り乱すくらいには大変らしかった。


「……ごめん」

「いや……何か俺の方こそすいません、死んで」


 再び一通り騒ぎ倒してから、ツツウラが息を弾ませて軽く頭を下げた。次いで、彰良も頭を下げる。

 苦しくて苦しくて死んだのに、何故死んですみませんと謝っているのか、彰良は自分でもよく分からなかった。もしかしたら、彼の仕事への嘆きを、自分が死を選んだ時と重ねているのかもしれなかった。

 誰だって、通常とは異なる業務を増やされたらうんざりして当たり前だ。ましてやそれが毎日続いたり、明日こそは明日こそはという僅かな希望さえ摘み取られたら、八つ当たりの一つもしたくなるだろう。人によっては精神を病んでしまうだろうし、果てに死んでしまうかもしれない。――自分のように。


「……とにかく、俺はこれから彰良君をどうにか何とかしなきゃいけないんだけど……ああー、嫌だな、サビ残か……どうにかならないかな……ここに来てここまで明確に意識を持っている時点でもう帰せないし飛び降りじゃあ逆に帰した方が危険だし……」


 額に手を当てて、本当に辛そうにぼやくツツウラを、彰良は見ていられなかった。

 自分が死んだ理由も知らないくせに――そんな怒りも湧いてこない。湧いていても、それ以上の罪悪感が、自分の私情に蓋をしている。


「いっそ、彰良君を乗せずに済めば……あ、これだ」


 だから彰良は、ツツウラが明瞭に発した言葉に反応するのが、一瞬遅れた。

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