有為転変-5
「とにかく、思い出しているのは本当みたいだね。昨日までは、ここまではっきり出るくらいには思い出せなかったでしょ」
床に当たって弾けた黒い輪郭がじんわりと滲んでいくのを見送りながら、彰良は大人しく頷く。
死ぬ瞬間を思い出そうなんて考えもしなかった、という状態では肯定していいのかどうか疑問ではあったが、そもそもが“思い出そうとも思わないくらい忘却していた”のだとすればウイの言葉通りだ。
「……ツツウラさんの時間感覚が合っていれば午前零時くらいに、彰良君、倒れてたんだって」
相変わらず穏やかな声で語られた内容に、「一言余計だよ、合ってるし」と隣でツツウラが毒づいた。
聞こえているだろうに、ツツウラを一瞥もせずウイは続ける。
「多分、その時にフラッシュバックしたんだろうね。だから」
「今は思い出せるようになってる、ってことですか」
「そう」
成る程、椅子の上に寝かされていたのはそういうことか。寝ている間に自死の記憶を取り戻して、それで倒れたらしい体をわざわざ運んでくれたらしい。
「自殺で来た魂がずっと居るから、何事と思って来たときは驚いたよ。ツツウラさんはずっと彰良君に声かけてたし」
「……すいません、全く覚えてないです」
「いいよ。もう大丈夫?」
彰良からすれば、ただ眠ってただ目覚めただけだ。その間に我が身に訪れていた恐慌の記憶はないし、曰く、ずっと声をかけ続けてくれていたというツツウラの声の覚えも全くない。
ここまで綺麗に覚えていないとなると、戸惑いどころか薄気味悪かった。罪悪感がない交ぜになった居心地の悪さに、ぼそりと謝罪する。
いいよと軽く流された後の大丈夫かという問いに、彰良は数秒悩んで、すぐに思い当たった。未だ体に回されたままの腕のことだ。はい、と慌てて座り直す。
背もたれの冷たい硬さをシャツ越しに感じて、少し気分が楽になる気がした。
「これで、昨日彰良君に何があったのかの説明はおしまい。というわけで、ちょっと訊きたいんだけど、いい?」
言葉だけなら相手への問いかけだ。しかしウイの穏やかだがどことなく強い声音には、制止も拒絶も受け入れはしないという意思が見え隠れしていた。
ツツウラは、何の異論もないらしい。特に慌てる素振りもなく、自分が腰を下ろしている椅子に深く座り直す。そしてそれは彰良も同じだった。
彰良の無言の肯定を感じ取ったウイが、僅かに首を傾げた。
「彰良君、今すぐ転生してって言ったら出来る?」
「…………はい?」
思いもよらない要求に、たっぷり数十秒ほどの間をおいて彰良は聞き返した。
「いや、言葉通りの意味なんだけどね、今すぐ転生してって言ったら出来る?」
同じ台詞を繰り返すウイの声音は全く変わっていない。その筈なのに、やけに淡々とした調子で聞こえるのは気のせいだろうか。
彼女の言い分は何となく理解できる。自分は本来ここにいない、もう次の人生に向かっている筈の人間の魂と意識だ。いくらツツウラが許したと言えども、私用で魂を留める権限など一介の社員にはないだろう。
どういうことか、と彰良は隣のツツウラに目線で訴えてみるが、彼は彰良のほうを見てすらいなかった。項垂れて膝の上で握り締めた両手を見つめるツツウラの横顔には、一連の話を聞き始めた頃に見せたしおらしさなどどこにもない。何かに耐えるように、ただ口を引き結んでいた。
「……“死した人間の魂を、適切且つ特別な理由なく二十四時間以上放置してはならない。此れには例外は認められず、総ての魂は原則として二十四時間以内に転生の処理を行わなければならない”」
ウイが、唐突に諳んじる。そういえば意識が明瞭になる直前、同じ言葉を二人が叫んでいるのを聞いていた。
「私達の、輪廻転生管理会社の就業規則の一つだけど……二十四時間以上放置された自殺者の霊の前例は、彰良君が初めてなんだよ」
ツツウラが何か言うこともなく、そして彰良が何かを言えるわけもなく、淀みない説明だけが部屋に満ちる。
「絶対とは言えないけど、彰良君のフラッシュバックはこれが原因だと思う。普通は、それが起きる前に対処するから」
彰良は、自分の掌を見る。もうあのひどい震えは止まっていて、背景にした床の黒い染みもとっくに失せていた。
ウイが短く静かに嘆息する、呼吸の音がした。
「……もし出来るならすぐにしたほうがいいよ。私が案内するから」
でなければ、また遅かれ早かれ自死にまつわる何かを思い出すことになる。それはまた今回のような事態に陥るということでもあり、無駄に苦しむだけということだ。
死ぬ間際の記憶よりももっと以前の、例えるなら自殺を決める為の苦痛の貯金を思い出したらどうなるか。ツツウラもウイも結末を語らないのはきっと、彼らでも見通せないからなのだろう。
だからそうなる前に正規の手順で対処する。正しい行いであり正論だ。
だがそれは理屈としては正しいというだけだ。いざ今から消えてくれと言われて――実際そこまで辛辣な言葉ではないにしろ自分を終わらせてくれと言われて、すぐ頷けるほど冷静に事実を受け止められるわけではない。
「そんな、……いきなり言われても、心の準備が」
「いつなら出来る?」
「……それは」
やっとのことで捻出した躊躇いを言い終わるが早いかすぐさま確認されて、思わず言い淀む。
自殺という選択をした以上、自分という存在が消えてなくなるのは許容済みどころか求めていたものだ。失くならないとしても、天国行きか地獄行きかはさておき世界から逃げたくて行ったことだ。
その筈なのに、いざ消滅を真っ向から突きつけられて、彰良は自分自身驚くくらいには動揺していた。
それは、という言葉の後に続けるものが何も思い浮かばなくて、出まかせさえ紡げない口を手で覆う。
腹の奥が重く沈み込むような不安感に、彰良は何となく、教えられたばかりの就業規則の意味を悟った。
二十四時間以上放置してはならない、すなわち二十四時間以内に対処すること。それは恐らく、死者が生を懐かしんで、未練たらしく無為に嘆き悲しまない為の制限時間だ。
今は無理だと、ゆっくり考えさせてくれと猶予を貰って、今日を無事に終わらせるのは可能だろう。明日も明後日も時間を貰って、そのまた次の日もはぐらかし続けて、そうすれば少しくらいは決断を延ばせるだろう。
だがそれは、問題を先延ばしにしているだけだ。いずれは必ず自分が対応しなければいけなくなり、そして嫌なものというのは往々にして、延ばせば延ばすほど行動に移すのが難しくなる。
今すぐ腹を括るのが最良だとしても、せめて明日くらいまでは。意を決して、ウイにそれを告げるべく彰良は手を下ろした。
「……ごめん」
三文字だけを必死に吐き出したようなその謝罪は彰良よりも早かった。隣から聞こえたそれに、導かれるように横を向く。
彰良が最後に見た姿から変わらないまま、ツツウラが僅かばかり唇を開いていた。
「俺が甘く考えすぎてた。少し手伝って貰う分には大丈夫だろうって思ったせいで、彰良君にも、無駄に色々苦しい思いさせちゃったし、今もさせてるし」
彼特有の少し冗長な言葉を零しながらも、さながら罪を告白する疲弊した罪人のように垂れた頭が持ち上がることはない。
短く切られた黒い髪が頬や額に薄く影を落として、表情を隠していた。泣きそうなのか、苦しげなのか、それとも疲れ切っているのか、動く口元だけでは判断しづらかった。
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