「銀行家、白金あづね(後編)」

(1)


『8月27日。銀行家、白金あづねについて記す。』


…日記には、始めそう書かれていた。


『私は今、自室のアパートについたところだ。

 そこはいつものように家具がおかれ、

 いつものようにエアコンが機能する。


 しかし違う、違うのだ。

 私の中ですでに常識は崩れてつつある。


 彼女が、白金あづねが蒸発した。

 だが違う、私も「ほっかむり」も見た。

 彼女は死んだ、死んだのだ…!』


 これは、罪の告白に近いのかもしれない。

 別荘のこと、彼女のこと、集落のこと、

 そしてあの忌々しい「すなあく」について

 私はここに記さねばならない。


 これを読む人間はいないはずだ。

 息子にもかたく誓わせてある。

 だからここに書き記す事にしよう。

 あの日のことを、あの悪夢のような一日の事を…。


 …その日は、とても暑い日だった。


 私と「ほっかむり」は以前、お互いの商売の利益になる

 大きな融資の話をまとめて以来、「銀行家」の白金と

 仲良くなっていた。


 彼女は父親の跡を継ぐ金持ちだった。

 質素なブランド服を着こなし、

 自身を有数の銀行家であると自負し、

 金に関し、びた一文まけられないという態度を崩さない

 どこか気の強い女性であった。


 …しかしながら彼女の銀行家としての腕は一流だった。


 我々のときもそうだったが、

 彼女は間違った投資は今まで一度も行った事が無く、

 それが彼女の自慢の種でもあった。


 …その日、私達は休日にかこつけ趣味のビリヤードに

 興じていた。当時は、お互い好景気で余裕もあったし、

 銀行家の彼女なら我々が使い込むことなく切り上げる

 すべ・・を心得ていたからからだ。


 彼女は良い女だった。別れた妻とは似ていなかったが、

 妻よりも快活で、また明るかった。


 そんなおり、彼女が言ったのだ。


「ねえ、今度の休日、あたしの父の別荘に行かない?

 独身の加賀さんはともかくとして、菜飯さんも今度

 坊やが親戚の家に遊びに行くから暇なのでしょう?」


 …と。


 私は、小さくうなずいた。

 私が55の時にできた可愛い一人息子は月に一度、

 元妻のいる家に行くことになっている。


 それが私と彼女との離婚条件。不倫先の弁護士を味方に

 付けた元妻に大量の慰謝料を払わなくて済む条件だった。


 …おそらく、白金はわかっていたのだろう。

 私がいつも月に一度、この時期に苦しんでいる事を。

 妻の元へ行く息子を止められない自分に苦しんでいる事を。

 

 …おおよそ、「ほっかむり」からでも聞いてもいたのだろう。


 そして、彼女は元気づけたいと考えた。

 経営に必死で、一生懸命働く私に何かをしてあげたいと

 思っていた。


 私はその気持ちだけで十分であったのに…。

 

「宿泊は一泊二日。山から別荘までここから二時間ほど

 だけれど、その先の道中がハイキングには最適なのよ。

 涼しいし、この暑い夏を乗り切るには十分ね。」


 そしてどこか夢見る少女のような顔をして彼女は話す。

 そのときの彼女はとても30半ばにさしかかろうとする

 女性の顔には見えない。


 そんな彼女の様子に私と「ほっかむり」はいつものように

 心底ほれこんでいた…。


 …しかし、今の私だったら気づいていただろう。

 彼女が何を求めていたか。

 彼女が何故そこに行きたがっていたか。


 知っていたなら止めただろう。

 行こうとするのを止めただろう。


 だが無理だ。

 我々が当時に帰れないことも

 また確かなことなのだから…。


 そして、我々は行った。

 あの忌々しい山へと上った。


 車は「ほっかむり」が用意してくれたワゴン車。

 そこに彼女が用意した何やら高そうな肉やらワインが

 クーラーボックスに詰め込まれ、早朝に車は出発した。


 車内では、みんなが浮き足立っていた。

 他愛無い近況を話し、皆で笑い合った。


 過ぎ行く木々は匂い立つような深緑であり、

 空気がいくぶんか湿っていたことを覚えている。


「ね、いいでしょ?この別荘。」


 そうして彼女が指し示したのはスキー場などの

 道中にあるようなひどく立派な別荘だった。


「この別荘は、昔この近くの集落に住んでいた父が

 建てたものでね。たまに様子がなつかしくて近くに

 訪れては決まったように泊まる場所なのよ。」


 そして彼女はカギを開けると

 ちゃめっけたっぷりにこう続ける。


「…でもね、本当はここに来るのは始めてなの。

 父の話では、ここに来ない方が良いって。」


 そんな彼女の言葉に、私と「ほっかむり」は

 顔を見合わせる。


「幼い頃に連れて行ってもらった時もあるけれど、

 そのときには車でちょっとのぼってそれでおしまい。

 別荘も外観だけで中は見せてくれなかったわ。」


「…だからね、あたし、この年になっても知れない

 ことが嫌になっちゃって…それで、別荘のカギを

 ほんの少しのあいだだけ借りて来ちゃったの。

 …これ、内緒よ?」


 そして彼女はくすくすと笑う。


 私は正直困惑していた。

 あの高潔で用心深い彼女からそんな内緒話を

 聞かされるとは思わなかったからだ。

 そして、それは「ほっかむり」も同じだったようだ。


「…俺はダメだと思うなあ、

 そう言う場合何かあるものだとおもうが…」


 道中、「ほっかむり」は俺に対し確かにそう言った。


 彼は動きやすいジーンズにポロシャツ。

 頭にはトレードマークであるバンダナを巻いていた。


 しかしこの会話をしたときには私達はすでに

 奥の山道を進んでおり、引き返すには遅すぎた。


 何しろ、目の前の彼女の足の速い事。

 歩きながらもどんどん進み、我々との距離を

 随分と引き離していた。


「父は、この村の事をあまり話したがらないの。

 この村出身だっていう人の話も聞かないし、

 あたしにとって、まるで別の世界…。

 だからこそ夢が膨らむの。」


 彼女に言わせると、父の集落をちゃんとこの目で

 確かめたいという彼女たっての希望だった。


 そしてトレッキングシューズで山を登る

 彼女の顔はとてもきらきらと輝き、その様子は

 とても止められるようなものではなかった。


 そうして、別荘から一時間ほど歩いた頃だろうか…。


「あ!あれじゃないかしら。きっとあそこの集落よ!」


 そんな彼女が指さす先には

 いくつもの藁葺き屋根の家があった。

 そして彼女ははしゃぎつつも、前へと走りだす。


「間違いない。昔の記憶が確かなら

 父はこの辺りに車を停めて、ほら、あった…!」


 そして彼女は茂みの間に埋もれた鎖を手にとると、

 あいだに結ばれたリボンを取り外す。


「これ、子供の頃に頭に着けていたリボン。

 ここに来たときに結んでいた一つを

 結わえ付けたのよ。よかったわ、あって…。」


 しかし、そのとき私と「ほっかむり」は見た。

 鎖の近くに落ちた看板。


 すでに地面に落ちた鎖の下に

 『この先、危険、立ち入り禁止』

 と書かれた看板を見つけていた。


 そしてあらためて気づく。

 村に人の気配がないことに。

 晴れた日にも関わらず、

 村の外を人っ子一人出歩いていない事に。


「…なあ、もういいだろう白金さん。

 親の故郷を見たんだから。

 このあたりで帰ろうじゃないか。」


 そう助言する「ほっかむり」に対し、

 彼女は首を縦に振らない。


「いえ、もう少しだけ見て行きましょうよ。

 あたし、父がどこに住んでいたか知りたいの

 …それに、運が良ければこの村の人と話が

 できるかもしれない。」


 そして、きらきらとした目で

 彼女は我々を見た。


「…あたし、ここを降りてみるわ。」


 そこには、あの判断力に優れた

 女性の面影は無い。


 夢見る少女の表情。

 危機感も、注意力も無縁の世界。


 すっかりその世界の虜となった

 彼女の言葉に唯一正気であった我々は

 なす術もなく従うしか無かった。


 …鎖をまたぎ、そのまま村へと降りて行く。

 雑草の茂る細い道を。

 もう何年も舗装されていないような廃れた道を。

 

 …そして20分は歩いただろうか。

 我々は村に着き、絶句した。


 …村は、完全に荒廃しきっていた。

 藁葺きの屋根には大量の苔と雑草が生え、

 地面には道という道はなく、ただ伸びきった無精髭の

 ようにあらゆる植物が生え散らかっている。

 

 その周囲をうっそうとした森がかこい、

 憂鬱なほどの鳥の鳴き声が辺りを暗く満たしていた。


 …そこに、人が住んでいるようには見えなかった。

 もしいたとしても、どのような人が住んでいるか、

 まるで想像すらできなかった。


「…白金さん、ここは帰りましょうや。」

 思わず「ほっかむり」が声をかける。


 …彼女は、呆然としているようだった。


 無理もない。自身の父が育った村がこんなにも

 荒廃した姿を見せてしまっているのだ。

 私ですら愕然とするだろう。


 おそらく彼女の父親は、そんな荒廃した村に

 耐えられずにここに寄り着かなくなったのだろう。

 可哀相に…。


 私達はそう考え、

 あらためて彼女に帰ることを促そうと口を開ける。


 …そのときだった。

 目の前の林から、一人の男が姿を現したのは。

 

「…まあ!」


 彼女はそう叫んだかもしれない。

 とにかく、その男は薄汚れたぼろぼろの作業着に紐を

 ベルトがわりにしおざなりにゆるいズボンを締めていた。


 そして、男は我々を見ると驚いたような顔をし、

 引っぱっていた猫車から手を離すと、

 大きく手を振ってこちらに近づいて来た。


「お…ほ…おめえら、おめえらどこのもんだ?」


 男は気管支でも弱いのか、

 ぜいぜいと声を荒げながら私達に聞く。


 私は自分が何者か告げようと口を開き、

 そのとき気がついた。


 男の目が、異様なほどに青いことを。

 男の体から、なぜか不快ではない、

 ひどく良い匂いがすることを。


 そうして何か言おうとすると、

 その横からさえぎるように彼女が言葉を続けた。


「あの…あたしの父がこの集落の出身なんですけど、

 あたし、白金と言いますが…

 なにか、こころあたりはありませんか…」


 その言葉に、男はじっと彼女の目を見る。


 そして一分ほど見つめた後、

 男は大きくうなずき、こう言った。


「この村の出だと…そんなら、あぎとの娘か!

 確かに目元が似ている!この村の目の色だ!」


 それを聞き、私はぎょっとして彼女を見た。


 …確かに、彼女の瞳は角度を変えると

 少しだけ青みがかって見える。

 しかし、それがこの村の人間の特徴だったとは…。


 そして男は困惑と喜びの混じった様子で

 視線を動かすとこう言った。


「こりゃ驚いた…とにかくここで話でもなんだ。

 中はいって、も少し詳しく聞かせてくれ。」


 私は内心望んでいた。

 彼女が断るのを。

 この怪しい男の話を聞く事を。


 …しかし、私の期待は裏切られた。


「はい、よろこんで。」


 そして彼女は先導する男の後をついて行く。

 こうなれば、あとは我々もついて行く他ない。


 我々はひどく気がめいるのを感じながら

 それについていく。


 そうして、ふとなにげなしに横を見ると、

 男の押していた猫車が目に入る。


 …それは、大量の菜っ葉に似た植物をのせた

 一台の猫車だった。

 

 葉は溢れんほどに台車に積まれ、

 その葉は青々として瑞々しかった。


 思えばあの日、私はその葉の出所をついぞ知らずに終わった。


 だが、わからなくても良い事はこの世の中にたくさんある。

 あれの出所がわからなかっただけでも良しとしたい。

 

 そして私は歩き出した。

 彼女と「ほっかむり」の後を着いて行くようにして、

 あの家へ…苔むす悪魔の家の中へと足を踏み入れた…。


(2)


『人が住まない家は荒れる』


 その言葉は確かなようだ。

 少なくとも、その家は外観よりもこぎれいには見えた。

 奥へと続く廊下、上がりかまち、トイレ、茶の間…


「こいつは『板田ばんだ砂地すなち』といってな。

 うちの爺さんが作ったここ原産の特性地酒だ…。」

 

 そして居間に通された我々は昼間にもかかわらず

 男に一杯の酒を薦められた。


「ちょいと青っぽいかもしれんが、これから出すつまみと

 合わせるとばつぐんにうまいんだ、ちょっと待ってろ…。」


 そう言って、男は台所へと続く襖をばたんと閉めた。


 見れば、居間は質素なものでテレビのような娯楽品はなく

 ただガラス棚には戦時中に贈られたと思われる勲章や軍服、

 猟銃にヘルメット、防空壕と思しき穴の前にたたずむ

 数人の白衣を着た男性の写真などが置かれていた。


 私は、部屋の中を見渡し、

 ついで、おそるおそるお猪口に入れられた酒を見る。


 …それは、ひどく透き通った色をしており、

 強い草の香りがした。


 なんとなくその香りから私はあの台車に積まれた

 無数の植物を連想し、どこか飲むのをためらう。 

 見れば「ほっかむり」もやや気後れしてるようで、

 私はそれを見て飲む気を完全に失った。


 そして手に持った酒をどうしようかと

 考えあぐねていると、ふいに彼女が声を出した。


「ああ…すごい草の香り、辛みのあるお酒って素敵。」


 見れば、彼女が顔をほんのり赤らめて

 一口、また一口と酒を飲んでいる。


 そのとき、がらりと音がして、襖の向うから

 芳醇な食欲をそそる香りがあふれ出した。


「さあ、『すなあく』ができたぞお!」


 気づけば男が台所から姿を現し、

 どんぶり一杯の揚げ物を我々の前に置く。

 

 その揚げ物を見た瞬間、私の中に変化が起こった。

 ザクザクとした食感、口に含んだ瞬間にジュワリと

 広がる肉の味…それがなぜか想像できるのだ。


 私はごくりと生唾を飲み込み、目の前に置かれた

 箸に手を付けようとし…

 

 ふいに放たれた彼女の声に、その手を止めた。


「まあ!これが『すなあく』?

 父がよく話していたのを耳にしていたわ。

 これがそうなの?」


 すると男はガハハと笑い、

 揚げ物をひょいとつまんで口に放り込む。


「ああ、正真正銘『すなあく』だ。

 喰ってみろ。うめえぞ。」


 見れば、彼女の顔は今やはちきれんばかりに

 好奇心と空腹感に打ち震え、勢い良く箸を

 突き刺すと、二つ、三つと揚げ物を口の中に

 ほうりこんでいく。


「ああ、すごい、こんなに美味しいものなのね。

 これが父のいったとおり、食べたい、食べたいと

 ずっとつぶやいていた父の思い出の味なのね…!」


 我々はそれを見てあっけにとられた。

 揚げ物も確かに美味しそうに見えるのだが、

 それ以上に、貪るようにして食べる彼女の

 異常な様子に気後れしていた。


 すると、その様子を見ていた見ていた男が、

 こちらを向いてこう言った。


「あんたらも、この集落の出身か?」


 私は、そのとき迷った。

 我々はこの村の出身ではない。


 しかし、なぜかそれを言ってはいけない気がした。

 それを言った場合、この人物の態度が変わる。


 …それを、本能的に感じ取っていた。


「なあ、あんたは…。」


 そうして男が再び言葉を続けようとした時だ。

 ふいにどさりという音がして、

 彼女が畳の上に倒れているのが目に入った。


「あ…?まだあんた『指ぬき』になって無いのか?」


 そして彼女に触れようとした男を押しのけると、

 「ほっかむり」が彼女に駆け寄り、叫んだ。


「おい、救急車!白金さん、痙攣してる。

 早く、早く病院に連れて行かないと…!」


 そこまで言ったとき、我々は気づいた。


 男の顔色が瞬時に変わるのを。

 どす黒い、憤怒の色に染まるのを。


「…お前ら、まさか『せっけん』か?

 『せっけん』だったのか?」


 そうして男は素早く棚に駆け寄ると、

 猟銃をだし、我々に向けた。


「だましたな!集落の人間偽って

 ここに来るとはおめえら何者だ!

 軍か!政府のものか!?言え!」


 銃口をこちらに向け、男は口角泡を飛ばし、叫ぶ。


 …軍?政府?未だに何の事かわからない。


 とにかくわかるのは、そのときの我々に、

 命の危険がさしせまっているということだけだった。


「…こいつをぶっぱなしちまえば味は落ちる落ちるが

 もちろん『せっけん』はできる。安心しろ。

 あんたらの命は狙わんよ…もちろん今のところはな。」


 男は我々を殺さず、たんたんと話をする。


 …そのとき、とっさに「ほっかむり」がとった

 行動はまさに勇敢というほかなかった。


「せいぜい足や腕を撃って動けなくするぐらいだ。

 そしたら、たらふく『ぶうじゃむ』と『すなあく』

 を喰わせてやっ…!」


 それ以上、男の言葉は続かなかった。

 男の顔を、一本のバンダナが直撃したからだ。

 それは「ほっかむり」が投擲したものであり、

 結果、バンダナは男の目を覆う形となった。


「なんだあ!」


 男はそう言うと、引き金を引く。

 しかし、それはあらぬ方向を向き、

 散弾銃でも入っていたのか台所の襖を粉々にした。


「ひいっ」


 そのとき、小さな声が襖の向うからした。

 そして、私は確かに見た。 


 襖の奥、その先の台所にいるひとりの子供の姿を。

 柱の奥に隠れる、青い瞳を持つ子供の姿を。


 だが、それも一瞬のこと。

 私は「ほっかむり」の言葉に一喝された。


「逃げるぞ、今のうちだ!」


 気づけば「ほっかむり」は彼女を背にかつぎ、

 玄関の方へと向かおうとしていた。

 私も慌てて彼らの方についていく。


「待て!」


 そのとき、男は覆いを取り、我々のほうを向いた。

 片腕は先ほどの壊れた襖の破片で切ったのか、

 血が滴っている。


 だが、一歩進んだところでふいに男は足を止め、

 その顔が見る見る蒼くなる。


「あ…あ…嘘だ。嘘だ。こんな、こんなとこに

 『すなあく』がいやがる。『すなあく』が、

 なんでこんなときに…。」


 そのとき私は見た。

 男の腕から滴る血、その血がなぜか床に落ちず

 空中で、男の腰のあたりで、ぱたっぱたっと、

 とどまっている事に…。


「あ…あ…坊、逃げろ!変わる、奴が変わる!

 今すぐ逃げ…!」


 しかし、次の瞬間、男の足が唐突に消えた。

 いや、消えただけではない。

 その断面からはだくだくと血が溢れ、

 またたくまに床の上をぬらしていく。


「くそ、『すなあく』め、どこにでも入って…!」


 だが、それ以上の言葉を聞く事無く

 私はその場から逃げ出した。


 理由として、一つは男が持っていた銃を再び撃ち始めたため。

 もう一つは、彼女と「ほっかむり」がすでに外に出ていたため。


 そして私は彼らの後を追うようにして、

 未だ銃声の聴こえる苔むした家から脱出した。


(3)


「…『革屋』大丈夫か?」


 気がつけば、私はなんとか「ほっかむり」と

 彼女の近くまで来る事ができていた。


「まずいな…彼女の意識が戻らないんだ。

 体も、どんどん重くなっている。」


 見れば、確かに彼女の顔は蒼く、

 呼吸の回数も少ないように見える。


「…ここまで来て20分、山を下って一時間。

 くそ、公衆電話もないよな、こんな場所。」


 彼女の持つポケベルもここでは役に立たず

 無線だって持っていない。


 深い山の中で連絡手段がないことに

 我々はひどく焦っていた。

 目の前にはあの茂み、鎖と埋もれた看板もあった。

 しかしこの先、助けを呼ぶとなると

 その方法は絶望的にも思われた。

 

 「…だい…じょうぶよ…。」


 そのとき私は気がついた。『ほっかむり』の背中で、

 彼女が薄く目を開けていることに。


 「…ちょっと、酔っていただけ、もう歩けるから。」


 そうして、彼女は身をよじるようにして「ほっかむり」の

 背中から降りると何とか地面の上に立ち上がろうとする。


 「いや、白金さん…ここは無理をしないでくれ。」

 「ほっかむり」はその様子を見て焦ったような声を出す。


 そのとおりだ、遠くに離れたとはいえ、

 あの男がいつここに来るかなんてわからない。


 それに私は見ていた。

 あの足のちぎれた瞬間。

 男の叫ぶ『すなあく』という言葉。

 私はあの男よりも、あの現象の方が気になっていた。


 「大丈夫、大丈夫だから…。」


 そうして、汗をかきながら、ふらふらと立つ彼女は、

 集落の方へと目を向け、そしてこう言った。


 「え?あれ、なにかし―」


 次の瞬間、我々は信じられないものを見た。


 彼女の、彼女の体が、腰から上、

 その上が、すっぱり消えた。


 そして、崩れ落ちる。

 崩れ落ちながら、消えて行く。


 足が、つま先が、太ももが、次から次へと、

 彼女の体がまるでえぐれるようにして消えていく。


 血は出なかった。

 しかし、我々は確かに見た。


 消える、消える彼女の姿を。

 信じられないような速度で消滅して行く彼女の姿を。

 

 それを見て、我々は叫んだ。

 弾けるように、声の出る限り叫びつづけた。

 そして、振り向き、走りながら傾斜を上り…。


 …その後のことはよくわからない。

 気がつくと、私と「ほっかむり」はワゴン車に乗って、

 奴の店である紺屋の前にいた。


 ただ、どちらも歯の根があわないほど震え、

 お互いの顔は蒼白になっていた。


 あの信じられない光景を見て。

 あのどうしようもない恐怖を目の当たりにして…。


 …あれから、一週間が経つ。

 私はいつものように仕事を終え、アパートに帰って来た。

 白金あづねは未だ帰らず、捜索願が出されたままだ。


 しかし、この一週間のあいだ私は悪夢に悩まされる。

 白金の姿、あの苔むした家、そして「すなあく」…。


 匂い、あの揚げ物の香りが消えない。

 そして食べたいと思う、口に入れたいと考える。

 熱烈なほどに、狂気的なほどに…


 私は、恐ろしい。あの食べ物の誘惑は未だに続いている。

 大分ましになったとはいえ、一時は白金のことよりも、

 あの食べ物のことばかり考えていた。


 そんなことあってはならないのに、

 こんな不道徳なことがあっていいはずはないのに。

 私の体はいつしか、あの食べ物を求めていた。

 あの酒の匂いとともに、あの味を求めていた。

 そして、こんな恐ろしい事は今まで無かった…!


 …幸い、今はずいぶんと落ち着いている。

 このまま進めばあの食べ物のことも酒のことも

 忘れられるかもしれない。


 …だが、思うのだ。あの食べ物はなんだったのか。

「すなあく」や彼女の体が消えた事となんの関係が

 あるのか…。


 …いや考えまい。これは、私と「ほっかむり」の

 中にしまっておくべき出来事。これは口外しない

 近寄ることもしたくない。


 そうするしかできない。

 そうでなければ、私は正気でいられなくなってしまう。


 …今はどこか、そんな予感さえ私にはするのだ…。』

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