素人が陰陽師やったらこうなった
金暮 銀
第1話 第一章 陰陽師って美味しいの(一)
一人の男がゴツゴツした岩肌にしがみつき、ただひたすら、上を目指していた。
男の名は郷田克行。二十三歳。身長は百七十六センチ、体重は七十七キロ。大学でアマチュア・レスリングをしていたので、体は引き締まっている。
郷田が登っているのは、全長二十メートルの岩肌。プロのロック・クライミングの人間に言わせれば、難易度は低く、初心者でも可能と判断するだろう。
されど、登っている人間が命綱をしておらず、初クライミング。しかも、風速五メートルほどの風が吹いている、となれば、絶対に止めただろう。
郷田は汗を気合いで止めて、慎重に岩肌を登ってゆく。
登っている郷田とて、無謀な行為は理解していた。命だって惜しい。だが、やらねばならない。それがプロの格闘技団体に入れてもらう条件だった。
足場にしている岩が崩れた。郷田は体勢を崩したが、両手の力だけで体重を支える。
両手の力だけで体を支える行為は問題ない。ただ、郷田が体を支えられていても、掴んでいる岩が郷田の体重に耐えられるかは、別問題。足場が崩れた事態から推測して、見かけより岩肌は脆い。
付近には誰もいないので、助けは来ない。急いで、足場を確保しなければ危ない。かといって、焦って手が離れれば、十五メートル下に落下する。
いくら体を鍛えていて、受け身が取れるとはいっても、十五メートル下の地面に落ちれば、ほぼ確実に死ぬ。
下がよく見えない状態で、どうにか足の掛かりそうな場所を探した。足が宙を彷徨う。中々、見つからない。
「もうちょい、足を上げて、左を探れ」
誰かが囁いた気がした。声に従った。足が掛かりそうな場所があったので、どうにか窮地を脱した。
窮地を脱したが、声の主はわからなかった。なにせ、岩登りは一人でやっている。
上を見上げれば、あと五メートル。郷田は慎重に手と足を進めて、岩肌を登りきった。岩肌を登りきると、緊張が切れたせいか、強い疲労を感じた。気合いで停めていた汗も、大量に噴き出してきた。
誰かがやってくる光景が見えた。格闘技団体の選手だ。今からは、選手ではなく、先輩だ。
郷田は正座の格好で先輩に告げた。
「やりました。いわれた通り、稽古場の裏手の崖を一人で登りましたよ。これで、入門を認めてくれるのですよね」
先輩がどこか気まずそうに話を切り出した。
「郷田君、そのことだけど、御免な」
なぜ、先輩が後輩になる郷田を君づけで呼び、御免と口にしたのか、すぐに理解できなかった。
「なんですか。まだ、試練が足りないんですか。いいですよ。ここまで来たら、どこまででも付き合いますよ」
先輩が試合では絶対に見せないような気まずそうな顔で、馬鹿に丁寧な口調で発言した。
「試練とか、そういうんじゃないんだよ。さっき、社長が弁護士を連れてきて、裁判所に破産申請が受理された、って報告した」
入りたかった団体が、入る前に潰れた。格闘技ブームが下火になってきた昨今、中くらいの格闘技団体でも潰れるなんて事態は、珍しくなかった。
でも、まさか、郷田が入ろうとした団体が潰れるとは夢にも思わなかった。
「ちょっと待ってくださいよ。俺は、ここに入りたくて、やったのは崖登りだけではないですよね。富士山頂までの三往復とか、北海道一周とか、やらされましたよね。団体が潰れそうなら、なんで、もっと前に教えてくれないんですか」
先輩が視線を合わさずに、いいわけじみた言葉を続けた。
「本当に悪かったと思うよ。社長もできると思わなかったから、試練とかいって無理を口にしたんだよ。それに、ほら、債権者の目があるから、破産の話は完全にタブーだったんだ」
郷田は諦め切れずに喰い付いた。
「先輩はどこかの団体に移るんですよね。だった、移籍先に俺を紹介してくださいよ。俺、新しい場所でも認められるように努力しますから」
先輩が顔を曇らせて打ち明けた。
「俺、格闘技は辞めるよ。頚椎を悪くしてさ、試合はできないんだ。それに、農家をやっている父親が病気になった。農家を手伝いに帰ってきてくれって母親に頼まれているんだよ。子供も生まれるから、俺、実家でズッキーニ作るわ。最後にアドバイスしておく」
「お前は頑張れ」または「興味があるなら、どこどこへ行ってみろ」的なアドバイスが来ると思ったが、違った。
「夢ばかり見えている内は幸せだけどさ、歳を取れば周りも見えるわけ。周りが見えるくらいの歳になれば体も弱っているし転職の道も狭い。地道な職に就いて、俺だって、あのとき、ああしておけばー、って思うくらいが幸せだよ」
先輩はそこまで話すと、背を向けて寂しそうに去っていった。先輩の背中は、試合とは真逆で、とても小さく弱弱しく見えた。
郷田は坂道を下って道場の入口に急いだ。
道場の入口には債権者集会の日時が書かれた紙が張ってあり、中に入れなかった。選手も、もう誰も残っていなかった。
郷田の日々の努力は無駄に終ったと思えた。
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