2-3 あたしの名前は
「ひっ……!?」
とっさに美冬はブレーキをかけて横に転がる。大口を開けていたそれは、悔しそうに美冬を見たあと、地面の中に潜っていった。
一瞬見えた形からして、巨大なサメのような生き物。けれど、サメが地面を泳ぐなんて聞いたことがない。
もしかして、これがディザイアか?いや、そうとしか思えない。だが、それが分かったとして何ができる?
あのサメの化け物はどこかに行った。今なら扉から外に逃げれるのでは?そしたら、誰かに助けを求めれば、少なくとも今より状況は好転するはずだ。
だけど、どこにいるかわからないサメの化け物から逃げる術なんて美冬は思いつかない。もし一歩動いたら、食われてしまうかもしれない。
けれど立ち止まっていては相手の思うツボだ。美冬は少しだけ息を整えながら、一歩前に踏み出した。
グォン
それと同時だった。まるで狙ったかのように美冬の目の前をサメの化け物が大きくジャンプした。化け物は美冬の方を向いて、ニヤリと笑いまた砂の中に潜っていく。
美冬は尻餅をついて倒れた。その時ポケットからあかねにもらったクッキーが入った袋がコロンと転がって行く。
美冬は慌てて手を伸ばしそれをつかもうとした。あと少しで届くといったところまで来たが、地面が突然揺れてサメの化け物が飛び出してきた。
サメの化け物は袋を口の中に入れて美冬の方を見ながら、それを食べる。パラパラとクッキーの破片が地面に落ちていった。
「あ、あああ……」
体が震える。恐怖で押しつぶされそうになり、ただただ震えていた。ゆっくりとジワリと地面がだんだんと濡れていくのを、足で感じることしかできなかった。
足元にできていく水たまりを美冬は止めることすらできずに、ただ呆然と先程まで化け物がいたところを見つめていた。
「おやおや……ふふ。これ以上失態を重ねたら、美冬さんも嫌でしょう。なので早く終わらせてくださいね」
エレンホスがそう呟いた。それと同時に嬉しそうなうめき声の後、数メートル先にサメの化け物が現れた。それはゆっくりと美冬に近づいていく。
美冬は、顔を青ざめながら、後ろに這う。けれどまともに体は動かず、距離は確実に詰められていってしまう。
その時ふと、美冬は思い出した。ポケットの中を漁りあの時渡されてからずっと大切に持っていた天使くんの羽を取り出した。
(助けて……)
声にならない言葉を頭の中で繰り返す。けれど、サメの化け物が少しづつ近づいてくるのは変わらず、何も状況は変わってない。
また、同じ言葉を何度も何度も繰り返す。その言葉を一度繰り返す度に、化け物が近づいていく。それを見るのは嫌だった。
自分はもう助からないのがしれない。けれど、もしかしたら。もしかしたら、あの人が、この状況を打破してくれるのかもしれない。
「誰か——あかねさんっ!! 助けてください——!!」
名前を叫んだ。それは大きくこの部屋に響き渡る。その残響が消えた後、化け物は今までより大口を開けて美冬の方に飛び込んで来た。
サメの化け物は口を勢いよく閉じる。歯と歯がぶつかり合い、火花を散らす。一瞬の満足感。けれど、それはすぐに消えていた。
何故だ。そう思いながら、首を振る。すふと、その違和感を感じた理由はすぐにわかった。目線の先に、幼い少女が2人、立っていたのだ。
「あ、ああ……」
「大丈夫か美冬ちゃん……って、あー……あとで替えの下着持ってくるよ」
「ああぁあぁあああああ!!」
美冬は目の前にいる幼女に抱きついた。自分より小さなそれは、今はとても頼りに見えて、自然と力が強くなる。
美冬は彼女の名前を呼ぼうとする。けれど、目の前の幼女は美冬の唇に自分の人差し指を当ててニコリと笑う。
「少しだけ、カッコつけようと思ってさ……あたしの名前は——」
「やぁやぁやぁ。こんにちは小さな魔法少女さん。僕の名前は、エレンホスです」
「……お前は、この前のボヌールみたいに人間の姿なんだな」
「これはこれは……僕は成長期のディザイアとは違いますから。ところで名前を教えてもらってもいいですか?」
エレンホスはニコリと笑う。幼女はエレンホスに向って指を突き出して、口を開ける。
「ひとーーーーつ!助けを求める声が聞こえたら!!
ふたーーーーーつ!!どこからでも駆けつける!!
みーーーーーっつ!!!そしてあたしの名前を胸に刻め!!
あたしの名前は……マジカル☆アナザーだ!!」
あかねのその名乗りを聞いたとき、美冬はぽかんと口を開けていた。もしかしてこれが前言っていたかっこ付けというやつだろうか。
しばらくすると、エレンホスが口元を押さえてクスクスと笑っている。あかね……いや、アナザーは少しだけ顔を赤くしてくちをあける。
「んだよ!!悪いか!前からやって見たかったんだよこういうの」
「いえいえ……クスッ。別に悪いわけじゃありません。えぇ、えぇ。よろしくお願いしますアナザーさん。そして、さようならアナザーさん」
エレンホスがそう言ったと同時に、彼女たちの前に巨大なサメの化け物が飛び出してきた。アナザーは美冬を掴んで大きく飛ぶ。
地面に優しく美冬を置いた後、アナザーはニコリと笑いかけて美冬とは反対の方に走り出した。
「天使くん!任せたぞ!」
「任せろ……美冬、こっちだ」
天使くんは美冬の袖を口で引っ張り物陰に隠れていく。それを見送ったアナザーは、息を吐いて目の前にいる敵を睨み見る。
「そういえば……ボヌールが言ってましたね。新しい魔法少女が来たと……あまり期待してませんが、よければ僕の支配に値する人間だと、嬉しいのですが」
「うるせぇ。早くあたしは帰りたいんだ」
「ふふ。確かに足が震えてますものね。威勢だけがいい。ということにはならないでくださいねアナザーさん。と言うわけです……食べていいですよ。食欲」
エレンホスの言葉と共にサメがまた飛び込んでくる。確か、前戦った収集欲は、人の頭を集めていた。なら、食欲なら物を食べる。と言うことか?
成る程。それだから、あかねは狙われているのか。目の前にある食べ物をもとめて、飛び込んでくる食欲を見ながら、アナザーはそう考えた。
人は追い込まれると逆に落ち着く。アナザーは自分の足を強く叩いた後に、食欲の腹の下に回り込む。そして、地面を踏みしめて思い切り殴りあげた。
「いってぇ!!」
柔らかい肉質だが、やはりアナザーの拳は耐えられない。痛みで声を上げてアナザーは蹲るが、食欲にダメージはなく、優雅に砂の中を泳ぎ始めた。
痛む手に息を吹きかけながら、どうにか痛みを抑えようとする。相変わらず足は震えるが、今はそんなこと気にしてる場合じゃない。
「おや。攻撃力はマイナスですね。これはひどい」
「茶化すな!こっちは真剣なんだよっ!!」
アナザーが文句を言った瞬間、食欲が襲いかかる。一瞬の判断の遅れ。アナザーは左腕を噛みちぎられた。
「あがぁぁああぁああぁああ!?!?」
突然来る痛みに耐えきれず、アナザーは左腕があったところを抑えて叫び声をあげる。徐々に戻っていく感覚はあるが、それでも痛みはある。
ぽたりと落ちる赤い血を見ながら、アナザーは目に涙をためて何度も息を吐いていた。落ち着けと、自分に何度も言い聞かせる。
食欲はそんな中、美味しそうに咀嚼をしていた。ひとしきり満足したのか、またアナザーに向かって突っ込んでいく。
アナザーは横に飛ぶ。左腕が生えて来て、完全に治っているのを確認したら、少しだけ安心できた。
けれど、目の前にいる食欲はそんな安心すらうちけすように、何度も何度も襲いかかって来る。アナザーは右に左に避けていくが、それでも食欲の牙に襲われて、体のいたるところに生々しい傷跡が出来ていく。
その度に聞こえて来るアナザーのうめき声。それを遠くで聞いている美冬は、ただ耳を塞いでガクガクと震えることしかできなかった。
「も、もうやめて……!!」
美冬の声。その声はアナザーに届いて、彼女はこちらを向く。身体中から血を流し、ガチガチと歯を震わせていたが、彼女は力強く笑い口を開けた。
「あたしを信じろ」
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