1-2b

;廊下


わたし「なんで、わたし、名前も分からないんだろう……」


伊吹さんの後ろを付いて歩きながら、わたしは不意に呟いた。


紗雲「それは……その記憶喪失なんですから、

そういう事があっても不思議ではないと、染庭先生は仰っていましたが」

わたし「そうじゃなくて!

ケータイとか持ってたら、名前くらい分かるのにって話!」

紗雲「それが…………残念ながら、貴女が発見された時、

身元を特定できる所持品は何1つありませんでした」

わたし「うーん、なんだか事件の臭いがしますなぁ。

これゼッタイ、追い剥ぎってヤツでしょ」

紗雲「確かに可能性としては、あり得る話ですね」

紗雲「…………」


どうしたのだろうか、伊吹さんは話の途中で黙り込んでしまった。


それから数歩進んで、立ち止まって、振り向いて。

彼女は静かに、こう告げたのだった。


紗雲「先生が一言も触れなかったので、私から伝えますが……。

今現在、貴女に該当する捜索願、改め行方不明者届は出されていません」

紗雲「病院にも関連資料が存在せず、身元の特定が困難を極めている――これが現状です」

紗雲「ですので……最悪の場合、

新たな名前と住民票を用意することになるかもしれません」


足の届かないプールに投げ入れられたような感覚。

驚愕、困惑、そして悲哀の三連コンボを避ける術はなく。


それでも、わたしは。

作った笑顔で、気丈に振る舞うんだ。


わたし「でもそれって、わたしの一生は保障されてる……ってことでしょ?」

紗雲「確かに生活保護など、国からの援助(サポート)は受けられますが……」

わたし「だったら、わたしは大丈夫!

衣食住と毛布があれば、快適に過ごせると思うから!」

紗雲「貴女の意思次第では、就籍許可申立の後に職を手に入れることも可能ですよ」

わたし「えー……、お仕事する気にはなれないなぁ…………。

おフトゥン最高! ニート万歳っ!!」

紗雲「いずれにしても数ヶ月後の話ですから、早急に決める必要はありません。

それまでに記憶が戻れば良いだけの話ですからね」


紗雲「加えて――貴女に、伝えておかなければならない事があるのですが」

わたし「はっ、はい! なんでしょうか?」


急に改まったので、背筋が伸びる。

真っ正面から見つめられて、視線の行き場を失った。


息を吸って、吐いて。また吸って。

伊吹さんは、わたしに宣言した。


紗雲「貴女の記憶が回復に至るまで――この私、

伊吹紗雲が付き添って、面倒を見させて戴きます」


わたし「…………え? えっ!? えええぇぇっ!?」


思わず思考が停止(フリーズ)する。

一介の入院患者に、絶世の付添人とは――なんと贅沢な。


紗雲「その……私ごときが傍にいては御迷惑でしょうか……?」

わたし「いやいや! 全然そんなことは無いんですけどっ!」

わたし「でも……どうして、わたしなんかの付き添いを?」

紗雲「それは……それが、私の使命なので」


――――使命。


言葉の意味が広すぎて、なんだか釈然としない表現だけど。

そこには確かに、有無を言わさぬ響きがこもっていた。


紗雲「私から上司にお願いして、染庭先生の許可も頂けました。

あとは、貴女さえ宜しければ、契約成立なのですが……」


――でも、どうして「わたし」なんだろう?

他の人の付き添いでも、彼女の使命は果たせるはず。


紗雲「も、もし私では御不満でしたら、代わりの者を担当に……」

わたし「そそそ、その必要はないですから!

伊吹さんで大丈夫! じゃなくて、わたしは伊吹さんがいいのっ!!」


細かい事情は、よく分からないけど。

伊吹さんが、わたしを選んでくれたのなら。


――それだけで、死ぬほど嬉しいや。


わたし「伊吹さんに、わたしの傍にいてほしいな」

紗雲「……そう言って戴けて、嬉しい限りです」


微笑む彼女の瞳が、優しい碧に煌めいて。

場に立ち込めていた緊張が、徐々に和らいでいく。


わたし「じゃあ改めて――これから、よろしくお願いします!」

紗雲「こちらこそ、精一杯お世話させて戴きますね」

わたし「お、お、お世話だなんてとんでもない!

なるべく迷惑かけないように気を付けますのでっ!」


頭を下げ合う、わたしと伊吹さん。


……何この初々しいやり取り。新婚さんかよ!

ツッコミを胸の内で消化するのに、無駄な労力(エネルギー)を消耗してしまう。


あ……なんか意識したら、余計に顔が火照ってきちゃった。


紗雲「私も、このような仕事は初めてで、すこし緊張気味なので……。

お互い畏まらずに、リラックスしていきましょう、ね?」

わたし「仕事ね、うん、しごと……ですよね…………」


悔しまぎれの妄言が、勝手に口から飛び出して。


わたし「もしかしてだけど、

伊吹さんは、わたしの――カノジョさんだったり?」

紗雲「……勝手に記憶を捏造しないで下さい」


怒られた。それも本気(マジ)で。


紗雲「私が貴女と会話をしたのは、昨日の夜――あれが初めてですから」

わたし「よかった……わたしと同じだ」

紗雲「ですが……貴女が話しやすい人で、本当に良かったです」

わたし「それ、どーゆー意味?」


わたしの意地悪な質問に、彼女は気まずそうに顔を伏せる。


紗雲「その……記憶をなくした人って、

塞ぎ込んでしまうものだと思っていたので……」

紗雲「どうやって接すればよいのか、色々と想像(シミュレーション)を重ねていたのです」

紗雲「結果としては、杞憂だったようで安心しました――本当に」


わたし「確かに……普通なら、そうなのかもしれないね

でも、わたし、そこまで精神的にツラい感じはしないんだ」

わたし「幸か不幸か、以前のわたしを知っている人が周りにいないでしょ?」

わたし「だからなのか知らないけど、わたしにとっては、今の自分が、わたしの全てなの」

紗雲「今の貴女が――貴女のすべて?」

わたし「うにゅう、ちょっと伝えるのが難しいなぁ。

つまりね、こういうことなんだけどさ……」


わたしは首を捻りながら、一字一句を繰り出していく。


わたし「たとえば目を醒ました時、見知らぬオジサンが

『俺のこと分かるか、お父さんだぞ』って言ってきたら、どう思う?」

紗雲「それは――肉親なのに思い出せなくて、申し訳ない気持がします」

わたし「だよね。『お前の名前は花子だ』って言われても、

それに慣れるまで時間かかるだろうし、一生違和感が残るかもしれない」

わたし「さらには『お前は子供の頃、お歌が上手だったんだぞ』

とか昔話を聞かされても、はぁそうですかって困っちゃってたと思う」

わたし「でも今、記憶をなくす前のわたしを知っている人は誰もいないでしょ?」

紗雲「それは……貴女の言う通りですけど」

わたし「自分の知っているわたしと、他人の知っているわたしが、

まったく同じ――白紙の状態なんだよね」

わたし「だから、重荷を感じないで振る舞えるの。

他人に対して、卑屈にならないで済んでるってワケ」

わたし「綺麗サッパリ新しく、生まれ変わった気分で。

昔のわたしには悪いけど、知ったこったないやーって感じでさ」


飾り気も、混じり気もなく。

在るがままの心を、呼吸するように吐き出す。


そこまで言い終えて、わたしは漸く気が付いたんだ。


わたしが、何を恐れているのか。

わたしが、何を望んでいるのか。


無意識に、直視を避けていた真実(ほんとう)。

その真上に立っていることに、今さら気付いてしまったのだ。


そんなわたしに追い打ちをかけるように。

伊吹さんは、曇った表情で問いかけた。


紗雲「……記憶が無いって、怖くないんですか?」

わたし「怖い? 何が? どうして?」


「怖い」という一言に過剰に反応してしまい、わたしは明らかに平静さを欠いていた。


紗雲「だって……自分が何者か、分からないんですよ?」

紗雲「生まれてから積み上げてきた自己(アイデンティティ)を失って、

恐怖や不安を感じないなんて……私には、信じられません」


わたし「じゃあ、逆に訊くけどさ。

――記憶があるって、怖くない?」


紗雲「そ、それは…………」

わたし「……わたしは正直、少し怖いよ」


自分でもゾッとするくらい、強くて低い声で。

わたしは、その告白を続けるしかなかった。


わたし「家族も友達もいない過去を、思い出して何になるの?

きっと誰も得しないし、幸せにならない。良い要素がなーんにもない」

わたし「こんな傷だらけの身体で、わたしが何を考えていたかなんて、知りたくないよ」

わたし「やっぱり、わたし――伊吹さんが言ってたみたいに、病んでるのかもね」


わたし「誰にも望まれてないんだよ……わたしの記憶なんか」


紗雲「――それは、違います!」


紗雲「貴女の記憶の回復を、望んでいる人なら――ここに、1人います」


わたし「伊吹、さん……?」

紗雲「貴女には、必ず、記憶を取り戻してほしい。

私は心から、そう願っているんです」


紗雲「それなのに、記憶から逃げるなんてズルいです!

無責任すぎます――!!」


…………そっか。


わたしの聞きたかった台詞は。

わたしが欲しかった言葉は。


紗雲「これは私の意地悪でも、独り善がりでもありません。

私は――ただ貴女の為だけを思って、言っているんです」


孤独を癒してくれる、誰かの一途な感情。

心に沁み込む、想いの結晶だったんだ。


紗雲「まだ今は、難しいかもしれません。

ですが――いつか必ず、過去の自分と向き合って欲しい」

紗雲「私は、いつでも応援していますから。

貴女が記憶を取り戻す、その刻まで――ずっと」


わたし「………………分かったよ。

伊吹さんの言葉、心に留めておくね」


わたし「でも、わたし、まだ約束はできない。

自分で理由(いいわけ)を見つけるまでは、無理に思い出すつもりはないから」

わたし「とりあえずは、気楽に過ごしたいじゃない?

染庭先生も、気合を入れすぎるなーって言ってたしさ」

紗雲「それは……そうなんですけど…………」


わたし「でも……心の準備は、しときます。

親のスネかじるより、国民の税金を食い潰すのはダメな気もするし……」

わたし「それに、伊吹さんの善意に応えられなきゃ、

わたしが自分を嫌いになっちゃいそうだからさ」

紗雲「――貴女の口から、前向きな意見が聞けて安心しました」

わたし「当ったり前でしょ! 向いてる方が前になるんだからっ!」

紗雲「本当に……面白い人ですね」

わたし「――嘘だ! 目が笑ってないもん!」

紗雲「目は笑いませんよ」

わたし「あー、そういうの屁理屈って言うんですよ知ってますぅ?」

紗雲「たった今、貴女から教わりましたが?」


わたし「…………」

紗雲「………………」


わたし「………………っぷ。ぷははははっ!」

紗雲「もう――笑いすぎですよ?」

わたし「そういう伊吹さんだって、顔がニヤけてる」

紗雲「いちいち言わないで下さい……!」


真っ向から否定しないあたり、彼女らしい反応だ。

照れ隠しに屁理屈を捏(こ)ねるわたしも、他人のこと言えないけど。



初対面という距離感を無視して、本音で語り合える関係。

ある意味、わたしと伊吹さんは似た者同士なのかもしれない。


――きっと彼女となら、楽しく付き合える。

わたしの直感が、そう告げていた。


紗雲「さあ、まずは脳波の検査です。付いて来て下さい」

わたし「はーい! どこまでも付いて行きまーすっ!」



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