1-6a

;レイ視点


♪タッタッタッタッ


走る。ただ奔る。

風を切る音が、耳を掠めて。

脚を伝わる反動を、全身で受け止めながら。


わたしは、ひたすらに走り続けた。


一度でも捕まれば、力ずくで逃げるのは困難極まりない。

あの二人組が追いかけてくる前に、できるだけ遠くまで……!


それ以外には、何も頭になくて。

一心不乱に上の空を、藻掻くように飛行していた。


ふと視界に、通路脇の人影が飛び込んでくる。


気絶させられたと思しき警備員たち。

どうやら、消火活動どころの話ではなかったらしい。

不幸中の幸いにも、重傷を負った人はいなさそうだけど。


どうしよう、声をかけるべき…………なのかな?


いや――でも、よく考えてみれば。

侵入者の真の狙いは、わたし1人だけなんだから。


これ以上、巻き込む訳にもいかないし。

ここは離れた方が、警備員さんのためだろう。


記憶が無いなりに、常識的な判断を下して。

彼らを横目に、わたしは走り続けた。


♪タッタッタッタッ


赤と緑の暗がりを、無闇やたらに潜り抜け。

長い廊下を完走して、次の角を左へ曲がろうと――。



足を止めて、目をみはる。

肩で息をしながら、唇が呟いて。


わたし「行き止まりだ……」


重厚感のある銀色の壁が、仏像の如く鎮座している。

長きに渡る旅路は、そこで途切れていた。


衝撃ショックの重みで視界が揺らぐ。

両目を強く閉じて、わたしは床に膝をついた。


――今から引き返す?


ダメだ、1つ前の分岐点までは距離がありすぎる。

戻っている間に、追手と鉢合わせしてしまう。


――なら、どこかに隠れる?


ここに来るまで、いくつか部屋はあったはず。

でも確か「放射線治療室」とか「核医学検査室」とか、

簡単に立ち入りできなさそうなプレートが光っていたような……。


――じゃあ、逃げずに戦う?


……いやいやいや、そんなの論外。

か弱い女の子が、大人の男を相手に何ができるんだ。

きっと試合開始から、5秒でノックアウトされるのがオチ。


現実の非情さについては、わたしの記憶喪失で証明済みQ.E.D.だ。


消去法によって、選択肢が綺麗サッパリ消え失せる。


――どうしよう、完全に手詰まりだ。


せっかく、ここまで来たのに……!



絶望の縁に追いやられ、白昼夢の底へと思考が沈む。

すでに脳内は、辺り一面の雪景色まっしろだった。


数秒――いや、数十秒の間、そうしていただろうか。



「――***いで。諦めないで」


無意識の海に、一筋の声が射し込んだ。

この音色くちょう……夢の中で聞こえたのと同じ?


「独りでは****、******が力になるの」


「プラスマイナスゼロ――それが、あなたの描く*****」



どことなく懐かしい抑揚イントネーションに。

静かに騒ぐ――この追憶ノスタルジア


「……忘れないで。

記憶が消えても、過去は消えたりしないから」


「わたしは――――ここに、いるよ」


;目を開ける



わたし「プラスマイナス、ゼロ……か」


――何故だろう。


その言霊は、まるで水のように。

わたしの心の泉から、身の隅々まで沁み渡って。


――頭が、冴えた気がする。


先程までとは打って変わって、わたしは明瞭な思考を取り戻していた。


♪カン カン カン カン


反響する足音。

確実に近付いてくる。


でも間隔からして、追手は一人だ。

もう一人の方は、伊吹さんが足止めしてくれているに違いない。


きっと今も、わたしのために闘って――。


彼女が拓いた90秒を、無駄にはできない。

ここで捕まったら、それこそ裏切り行為じゃないか。


わたし「こたえなきゃ……!」


伊吹紗雲の信頼に。

世界の仕組んだ運命に。


――次は、わたしが応える番だ!



よく見ろ! よく探せ!

何か……何か、道があるはずだ!


鉄壁に手を這わせて、その質感を、温度をなぞる。

この身体で捉えた世界は、絶対に嘘を吐かないから。


♪カンカンカンカン


手探りで、可能性を掴みとるんだ!


♪ガタリ


金属の窪みに、指がかかる。


小さいけど、これは――扉に違いない。

壁の一部が、ドア状に開くようになっている。


わたし「――見つけた」


ショウ「……見つけた」


ついに獲物を察知した狩人は、牙を顕わにして迫り来る。

猪突猛進する使役獣。暴力的なまでの疾走形態だ。


――しかし。

数ミリセカンドの差で、わたしの方が先手だった。


半開きにした扉へと、華奢な四肢を滑らせて。

全体重を預けるように、力の限り押し戻す。


♪バタン

♪ズォオゥン


震撼する一面の壁。

鈍い打撃音が、階層全域に反響する。


あの脳筋、減速ブレーキもせずに正面衝突したらしい。


本当に危なかった……間一髪ギリギリセーフだ。

あとは、鍵さえ閉めてしまえば――――。


え、あれ…………?


わたし「鍵が…………ない!?」


ここで初めて、わたしは扉の構造を理解した。


半円状の取っ手を備えた、ケースハンドル錠タイプ。

この仕組みの扉は、どちら側からでも自由開閉が可能なのだ。


予想あてが空振り、2ストライク。

わたしは咄嗟に、取っ手を指で押さえ付けた。

これが縦にされれば、扉は容易く押し開かれてしまう。


ショウ「逃が、さない……ぞ!」

ショウ「ぬぐぅぉおおおおッ!!」


雄叫びが、彼の馬鹿力を引き摺り出す。

金具のみならず、わたしの指関節までへし折りそうな勢いだ。


わたし「――――っ!」


指に負担が一転集中して。

スタミナゲージも残りわずか。



なにか…………何か、ないの!?


目を凝らして、周囲を確認する。


手の届く距離に、何か無いだろうか?

この半月型の金具を、固定できるような物――!



♪カラン


踏ん張る足が、何かを蹴とばした。


これは…………モップ?


用務員さんが、放置して避難したのだろうか。

パイプはスチール製、先端が滑りにくいタイプだ。


――これなら、いける。


わたしは直感の告げるままに、モップを足先で跳ね上げていた。


質量、よし。

長さ、太さ、問題なし。


これを、こうして、こうやって……。


♪ガッ


――――やった!


取っ手の輪っかに、モップの柄を差し込んで。

回転方向に突っかかるよう、先端部分を捻っておく。


あとはショウの馬鹿力が、スチールをノの字状に変形させて。

てこの原理を応用した、お手製簡易ロック器具の出来上がりだ。


ショウ「あ……れ。かたい。ギギ……開かないッ!」


ふっふっふ、効果はバツグンだ。

これで時間は、充分に稼げるだろう。


にしても――何故ここに、こんな壁が?


通路を塞ぐような物があっては、避難の妨げにしかならないのに。

この設備は、いったい何のために……。


緊張状態から脱したせいか、その疑問に対する解は素早く示された。

側頭葉の中で、言語記憶が声を上げる。


この壁状の平面は、おそらく防火扉というヤツだ。

火事の時、発生した炎や煙を封じ込めてくれる代物。


……そして、たった今、追加情報が1つ。

この部屋、さっきまでいた廊下よりも、熱い。


つまるところ。


わたしは自ら、火災の最深部へと足を踏み入れて。

さらに出入口を、塞いでしまった――と。


飛んで火に入るなんとやらだ。


わたし「一難去って、また一難……か」


――もう、後には退けない。

必ず別の出口を見つけて、ここから脱け出さなくっちゃ。


ちゃんと伊吹さんに、「ありがとう」を伝えるために。



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