EP1 Resolution as ZERO
1-2a
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;病室
わたし「――ふわぁああ」
だらしない欠伸が、大口から逃げていく。
わたしは、先の朝食で膨れたお腹をさすりながら。
45度起こした電動ベッドの上に、ゆったりと寝そべっていた。
ここ、第5病棟401号室は、わたしだけの空間だ。
クリーム色を基調とした造りは、新たな人生の幕開けに相応しい。
視界の先には、可愛らしい観葉植物の鉢が1つ。
くねくねニョキっと、遠慮がちに育っている。
窓の外には、緑に囲まれた駐車場。
とても静かな、朝の景色が広がっていた。
空は青。天気は晴れ。
薄い雲が風に玩ばされて、その形を書き換えていく。
時おり車の走行音が、遠くの方から聞こえてくる。
そして――途切れては繰り返されるのは、鳩ぽっぽの独特な鳴き声だ。
クルッククゥークゥー クルッククゥー。
ああ……なんて平和な世界なんだろう。
このままウトウトして、二度寝の彼方へ飛んでいけたら…………。
などと三途の川岸で番犬(ケルベロス)と対話していると。
白昼夢を破る、音がした。
♪コンコン
??「――失礼します」
♪ガラガラガラ
;紗雲フェードイン
??「おはようございます」
わたし「お……おはようございます!」
従容として扉から現れたのは。
わたしが目覚めた時、隣にいてくれた女の人だった。
黒衣に身を包んで、なお涼しげな表情。
白衣の看護師とは、対照的な様相で。
吸い込まれそうなほど澄んだ瞳が、
わたしを見据えて優しく微笑んだ。
その存在は、まるで神の創りし女型の理想(モデル)。
一度でも水晶体を通したら、忘れることなどできそうにない。
――そんな彼女が、口を開いて語りかける。
??「昨晩は、ゆっくり休めましたか?」
わたし「はい! それはもう、ぐっすりと。
毛布がモフモフで最高でした!」
そう答えながら、病院の備品に頬ずりしてみせる。
なぜだか毛布の愛で方は、身体が覚えているらしい。
??「朝ご飯、完食したって聞きましたよ?」
わたし「どれもクセになる新鮮な味付けで、箸が止まらなくって」
わたし「それに――お布団にくるまったまま、朝ごはんを食べれるなんて!」
わたし「このボタン1つで起き上がるベッド、一家に一台置きたいくらいですよっ」
??「それは…………良かったです」
朝から深夜テンション全開のわたしに、彼女は戸惑いの表情を見せる。
――困った顔も、とっても素敵だ。
??「そう言えば、まだ自己紹介していませんでしたね」
言われてみれば……わたしは彼女の名前を聞いてない。
昨日は、あの後いろいろ検査があって、話ができなかったんだ。
紗雲「私は、伊吹紗雲と申します」
わたし「いぶき、さくも――さん」
その響きは、不思議な味がした。
強くて優しい、温かくて冷たい、矛盾に満ちた蜜の味。
わたし「えーと……日本人、なんですよね?」
純粋な疑問を前にして、配慮(デリカシー)の欠片もない言葉が飛び出した。
わたし「あゎわ、すいません。わたし、失礼なことを……」
紗雲「気にしないで下さい、よく訊かれますから」
紗雲「――私、ハーフなんです」
紗雲「父がイギリス人で、この銀髪(プラチナブロンド)と碧眼(ブルーアイ)も、その遺伝が出たらしくて」
わたし「へぇー……なぁるほど。わたし、本物の銀髪って初めて見ました!」
紗雲「あの……記憶喪失、なんですよね?」
わたし「あ――そうでした、スッポリ忘れてました。
それじゃあ銀髪を見るの、初めてじゃないかもですね……?」
わたしの無自覚が、再び伊吹さんの眉を歪めさせる。
わたし「でも、わたし、思ったんです!
伊吹さんが珍しいとかじゃなくて、ほんとに綺麗だな――って」
紗雲「そう言ってもらえるのは……嬉しいです」
そう言って、彼女が咲かしてみせたのは。
ちょっとだけ寂しそうな、慎ましい笑顔だった。
わたし「ということは……もしかしてミドルネームとか、あったりします?」
紗雲「あるには、ありますけど…………」
わたし「え、ほんとにですか!? 何て言うんです?」
紗雲「それは――ヒミツです」
わたし「ぶーぶー、教えてくださいよぅ!」
紗雲「……私は、お喋りに来たのではありませんから」
わたしの大人げない我儘は、華麗にスルーされて。
紗雲「では、行きましょうか。
私に付いて来て下さい」
わたし「行くって……どこにですか?」
紗雲「――ここの院長先生が、お呼びですので」
;院長の診察室
連れてこられたのは、第1病棟2階にある神経内科の診察室。
思ったよりも、こじんまりとした部屋だ。
??「どうぞどうぞ、そこに腰かけて下さいな」
染庭「ワタクシ、院長の染庭です」
わたし「どうも……よろしくお願いします」
染庭「まあまあ、そんな畏まらなくてもいいですよ。
肩の力を抜いてね、ラク~にしてて下さいね」
わたし「は、はい! 気を付けます!」
染庭「えぇっと…………ほぅ、ふぅむ……」
何かしら呟きながら、パラパラと資料に目を通していく先生。
昨晩わたしが目覚めた直後に行われた、簡易検査の結果をまとめてあるらしい。
――患者名の欄は、空白のままだ。
染庭「あなたの現状については把握できました。
それで……すこし確認しておきたいことが湧いてきましてね」
染庭「いくつか質問をするので、分かる範囲で答えて下さい。
分からなければ、すぐ分からないって応えてくれて構いませんので、えぇ」
染庭「じゃ――準備は、宜しいですかな?」
わたし「はい! 大丈夫、です」
わたしの顔を見て一度頷いてから、院長先生は、こう切り出した。
染庭「今日の朝ご飯のメニューは?」
わたし「ご飯とお味噌汁に、焼き魚、あとホウレンソウのおひたしに――」
染庭「結構けっこう。では、あなたのお名前は?」
わたし「……分かりません」
染庭「室町幕府の二代目将軍は?」
わたし「えーと、足利……よしあきら?」
染庭「好きな色は?」
わたし「よく……分かんないです」
染庭「では、スリランカの首都は?」
わたし「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」
染庭「原子番号66番の元素名は?」
わたし「…………分からないです」
染庭「ジスプロシウムです。ま、知らなくて当然ですがねぇ」
染庭「では最後に、ワタクシの名字は?」
わたし「そめにわ、ですよね」
染庭「正解! 質問は以上です」
わたしは――いったい何を試されてるんだ?
それに……身に覚えのない単語が、すらすらと口から出てくるんだけど。
染庭「今の質問で確信しましたよ。
あなたの記憶が、どうなってしまったのか」
染庭「曖昧な情報で、いたずらに不安を大きくしても良くないですから。
ズバァリ、あなたの現在の症状について話しておきましょうかね」
わたし「お、お願いします……!」
染庭「記憶には、それを留めておける時間によって段階があります」
染庭「まず視聴覚など、五感を通して認識される感覚記憶。
それを選択し、いったん脳に保存されるのが短期記憶。これが20秒程度ですね」
唐突に、講義が始まった……?
面食らっているわたしを差し置いて、先生の話は続いていく。
染庭「海馬や前脳基底部に異常があると、数分前のことを忘れてしまったり、
人の顔を認識できなくなったりと、日常生活に支障が出てきてしまうんですよねぇ」
染庭「あなたの場合、正常にコミュニケーションが取れていますから、
このレベルでは大丈夫でしょう、えぇ」
染庭「……問題なのは次のステップです。中期記憶、さらには長期記憶と呼ばれるものですけど」
染庭「ここに含まれる宣言的記憶――すなわち意味記憶とエピソード記憶に障害がある。
これを健忘と言いましてね、その1つが、今回の全生活史健忘という訳です」
わたし「け、けんぼー……」
染庭「原因が外傷性か、はたまた心因性か。それは検査で調べていきましょう」
染庭「心因性だった場合、大きな精神的負担(ストレス)が限界を超えたために、
自らの無意識に因る防衛本能が働いた可能性が高いですから」
染庭「催眠治療などを行うにしても、鬱病を引き起こしてしまうかもしれない。
心的外傷(トラウマ)を蘇らせる場合、なかなかにデリケートな症状ですからねぇ……」
わたし「ストレス……トラウマ…………」
カタカナ語だけが耳に残って、それ以外の内容が次から次へと抜けていく。
まるで、英語のリスニング試験を受けている気分だ。
――わたし、テストを受けた経験があったのかな?
…………分からない。
ただ感覚だけが、宙ぶらりんに揺れている。
染庭「ですから、PTSD患者に多く見られる副腎皮質ホルモンであるヒドロコルチゾンの作用によって――」
紗雲「…………先生、彼女は混乱している様です」
もう少し簡潔に説明できないでしょうか?」
伊吹さん、ナイスツッコミ!
わたしは心の中で、グーサインを出した。
染庭「おっと失礼、専門用語に頼りすぎました。
これでも噛み砕いているつもりだったんですがねぇ。うぅむ、やはりダメですか」
染庭「――おっほん。じゃあ気を取り直して、仕切り直しましょう」
染庭「ある時点よりも前の、自分に関わる情報が全部なくなってしまった。
しかし、日本語は不自由なく喋れているし、ちゃんと知識も残ってる」
染庭「あなたの今の症状は、そういう事です。
不思議に思うかもしれませんが、これも生命の神秘――どうか受け入れて下さい」
わたし「……分かりました」
だいぶ簡潔になったけど、わたしにはこれで十分な説明だった。
自分についての記憶が無い点を除けば、健康体と変わりないんだから。
でも、もし――手足や知性を失っていたらと思うと、ゾッとする。
わたし「あのぅ…………」
染庭「どうぞ、何でも聞いてくださいね。沢山あるでしょ気になること」
わたし「……わたし、何か事故に巻き込まれたんでしょうか?」
染庭「――って訊かれているけれど、どうなの?」
それは仕事の範疇じゃないといった風に、伊吹さんの方に首を傾(かし)げる院長先生。
この辺の役割分担が徹底しているのは、さすが専門家って感じだ。
紗雲「それについては、まだ……調査中です。
私が現場に駆けつけた時には、仰向けに倒れた状態でしたので」
紗雲「指先の切り傷のうち1つは、その数分前についたものだと思われますが……」
染庭「それ以外の傷跡は、それより前のもので間違いありませんよ。
とくに肘から手首にかけて、ちょっとサックリ切れすぎですねぇ……」
わたし「こんなに沢山の切り傷……わたし、お料理が下手だったのかな?」
染庭「残念ながらワタクシの見立てでは、これは意図的に作られた傷ですな。
切られた方向が、綺麗に揃い過ぎているんですよ」
わたし「――ってことは、これ、わたしが?」
染庭「えぇ、自傷行為(リストカット)の可能性、高いでしょうねぇ」
衝撃の事実ががががが。
がーん。大ショックでごわす。
わたし「うそ……信じられない。
わたし、そんなメンヘラ女だったなんて……」
紗雲「まるで今とは正反対ですね……。
人格って、ここまで急激に変わってしまうものなんでしょうか?」
染庭「そうですねぇ。人格は、遺伝と経験によって形成されていくものですから。
記憶喪失の前と後で、人が変わってしまうケ-スが多いのは事実ですな」
わたし「分かりましたから! 黒歴史の話はそこまでにして!」
わたし「……記憶が吹っ飛んだ原因、このタンコブじゃないですか?
微妙に腫れてて、ちょっと気になるんですけど……」
前髪を掻き上げて、先生の前に突き出して見せる。
染庭「ちょっと両目を閉じててくださいよ――」
瞼の上を、白い光が透過していく。
傷の具合をペンライトで照らして見ているらしい。
染庭「ふむふむ、額の打撲痕は最近できたモノで間違いないでしょうな」
染庭「しかし……この程度のダメージで、記憶障害が起きるとは考えにくいんですよ。
どう見ても、ごっつんこレベルの腫れ具合ですもんねぇ」
染庭「いちおう今日の午後に、MRI使って脳の検査もしてみますけれども」
わたし「そうなんですか、分かりました……」
染庭「あと気になるのは、胸の傷痕ですかねぇ。
蝶々みたいな形状に、肌が変色してしまっている――と」
染庭「2、3年前くらいに、サックリ開いたモノみたいですが……記憶にあります?」
わたし「ない、ですね……」
染庭「まあ、そうでしょうね。
これが記憶喪失の引き金になったとは考えにくいですしなぁ」
染庭「特に気にならないのであれば、そのままにしておきましょうかね。
もしも痛み出したりしたら、すぐに教えて下さいよ、処置しますから」
わたし「――ありがとうございます」
院長先生は顎をさすりながら、しきりに1人で頷くと。
資料をデスクに放り投げ、わたしの方へ椅子を回転させた。
染庭「あと1つ、重要なお願いがありましてね」
染庭「現在あなたの脳は、何らかのダメージを受けて弱っている。
無理に思い出そうとすると、眩暈や吐き気におそわれるかもしれない」
染庭「ですから自然に回復するのを待ちましょう、ということです。
ストレスのない快適な生活が、一番のお薬ですからな」
染庭「とにかく健康第一です、気長にやっていきましょう
――分かりましたかね、名無しさん?」
わたし「……分かりました! のんびり気ままに療養します!」
染庭「ほっほっほ、若い人は元気があって宜しいですなぁ!」
名無しさん扱いはイヤだけど、患者さん扱いは快く受け入れよう。
食って寝るだけの生活、控えめに言って最高じゃないですか。
染庭「それじゃ、ワタクシからの話は以上です。
他に何か聞いておきたいこと、ありますかね?」
わたし「大丈夫です。いろいろと分かって、スッキリしました!」
染庭「そうですか、それなら良かったです、えぇ」
染庭「あと――伊吹くん、これ、今日と明日の検査項目ね。
宜しく頼んだよ」
紗雲「……了解です」
何やら書類が手渡されたが、文字が細かくて読み取れなかった。
いったい、どんな検査が待ち構えているのやら。
好奇心と恐怖心が、押し合い圧(へ)し合い膨れて爆ぜる。
染庭「ベッド脇のボタンを押してもらえば、すぐに看護師が駆けつけてきますから。
24時間年中無休、バリバリ対応するんでね」
染庭「しばらくの間は、病院(ここ)がお家だと思って寛(くつろ)いで下さいな」
わたし「……ありがとう、ございます!」
紗雲「――では、失礼しました」
♪ガラガラガラ バタム
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