こゆびのちぎり 弐
あんまり筆が進まないので、また思った事を素直に書いた。書いたところで
僕は紙をぐしゃぐしゃに丸め、
「なあに、ちゃんと立って拾いなさいな」
僕の嬉しさの源がそこに居た。妙子さんは茶を
「子供じゃないのだから」
そうして、クスクスと笑い声を上げた。僕は何とも恥ずかしい気持ちになり、頭を掻く。彼女が時折僕の自宅を訪れる様になってから、まだひと月も経たない。目に見える変化はと言うと、転がっていた酒瓶をどうにか全部捨てた事位であろうか。
「進みは
「一進一退です。強敵だ」
僕は一度降参する
「また少しロマンチックな物をと思っているのですが、どうもいけない。狙って書ける物ではないのかな」
「どんなお話?」
「姪の要請で、猫を出すのは決まっています。白くて目の青い、桃色のリボンをつけた……発狂はしていない奴です」
あら可愛らしい、と妙子さんは喜ぶ。筋はまるで決まっていない。
「何か他にありませんかね」
「それじゃあね……。幸せに終わるお話が良いわ」
「成る程。そうすると、猫が恋の架け橋にでもなるのかな」
「そこに大久保さんのお得意の怪奇の話を入れると、きっと面白いと思うの」
「少し目鼻がついてきたな……」
そう口にしてから、少々げっそりした気持ちになる。先日の水子騒動の事を思い出したからだ。妙子さんは何も気づかず、猫の話などを続けている。とても楽しそうに。
僕は何だか、どうしてこの
「妙子さん」
「なあに」
僕は衝動に駆られ、唐突に彼女に質問をぶつけてみる事にした。
「何故僕だったのですか」
「え?」
小さく首を傾げる。
「他に幾らでも良い人は居たでしょう。先輩の紹介でも、何でも。どうして僕を選んでくれたのですか」
「大久保さんは、もっと自信を持った方が良いわね」
姪と同じ様な事を言う。
「そうね、
そこに
「でも、あのね。覚えている事があるわ。一緒に虹を見たでしょう」
不意に心臓が震えた。それは、僕の中でも特別に大切な思い出として、胸の中の小さな
「あの時ね、もしかしたらこの人、
「
「矢っ張り。それでね、それが……嬉しかったの。嬉しいと言う事が嬉しかったわ。私、まだ気持ちがこんなに動くのだと驚いたの。そうして、虹を見て、この人と一緒に何かするのがとても好きだわと思った」
僕は、自分で聞いた癖に、なんとも照れくさく、
「大久保さんは、私の何が良かったの」
「……さあ、僕もどこでピンと来たのか覚えていなくて」
ごく始めの方から気になっていた様な気もする。それとも、あの小さな妙子さんと並んで歩いた時か、
「でも、そう、虹は嬉しかった。とても」
妙子さんは、目をきゅっと細めた。僕らは暫く、細く開けた障子の向こうの、昼下がりの光を浴びた、小さく荒れた庭を見詰めていた。
ふと、妙子さんが腰を上げた。
「何か、今……」
そう言いかけたところで、僕も気づく。黒い影が、人の形に凝っている。それはやがて形を持ち、確かに目鼻を作り——山路先生の姿を取った。
僕は立ち上がり、妙子さんの少し冷たい手をギュッと握る。背中に冷や汗が流れるのを感じた。原稿の整理を終えて以来、先生の家では怪異が起こった事は無い。あの水子も、姿を現した事は無い。それが、ここでまた現れたか、と思ったのだ。
だが、山路先生は、笑っていた。あの夜の
「幸せになりなさい」
妙子さんが何か言いかけて、口を閉ざす。先生は僕を見た。そして言う。
「妙子を頼むよ」
それだけだった。それだけを残して、影は風に吹かれ、頭から足の順にざわざわと消えて行った。後には、足跡すら何も残らなかった。
僕らは庭を見詰め、
「もう……もう、雄二郎さんたら」
ややあって、妙子さんが少し膨れた様に言う。
「三度目よ。どれだけ私、信用されていないの?」
「それだけ心配されていたんですよ」
「お節介だわ。私ひとりでちゃんと大久保さんを選んだのに!」
僕は手を伸ばして、
それでも、僕は、全部抱えて、よろけながら彼女と共に歩く道を選んだ。
「頼まれてしまったわねえ、大久保さんも」
「責任重大だ」
妙子さんは少し身を離すと、右手の小指を立てた。そうして、僕の小指にするりと絡める。垂れた透明の糸が揺れた。悪戯っぽく笑う顔に、僕はあの日の少女の面影を見る。
「指切り。ずっと元気で、私と一緒に居て下さいな」
僕は、それに応えた。ふたりきりの
これにて僕の、怪奇と恐怖とに彩られた、少々恥ずかしい恋の物語は、ひとつの幕を閉じる。
何幕の構成であるかは、主演たる僕にも未だにわからないが、精々最後まで演じ切って見せようと、それだけは張り切る所存である。
帝都つくもちぎり 佐々木匙 @sasasa3396
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