こゆびのちぎり 弐

 あんまり筆が進まないので、また思った事を素直に書いた。書いたところで愕然がくぜんとする。辛い苦しいもう駄目だ、と苦難をつづった後にぽつりと、嬉しい、と一言続いた。僕の精神状況は今やそれ程悪化してはいない様だが、文章としてはいかにも拙い。分裂患者の如しである。


 僕は紙をぐしゃぐしゃに丸め、屑篭くずかごに放った。外れて畳に転がったので、無精をして寝転ぶ様に手を伸ばし、どうにか紙屑を拾えないかと試みた。そうして、水泳選手の如くバタバタとしているうちに、足音がした。


「なあに、ちゃんと立って拾いなさいな」


 僕の嬉しさの源がそこに居た。妙子さんは茶を文机ふづくえに置いてから、ひょいとごみを拾って屑篭に捨てる。


「子供じゃないのだから」


 そうして、クスクスと笑い声を上げた。僕は何とも恥ずかしい気持ちになり、頭を掻く。彼女が時折僕の自宅を訪れる様になってから、まだひと月も経たない。目に見える変化はと言うと、転がっていた酒瓶をどうにか全部捨てた事位であろうか。


「進みは如何いかが?」

「一進一退です。強敵だ」


 僕は一度降参する心算つもりでペンを放り、茶をすすった。買いっ放しの湿気た茶葉だが、淹れる人間が違えばこうも、と言う程美味かった。


「また少しロマンチックな物をと思っているのですが、どうもいけない。狙って書ける物ではないのかな」

「どんなお話?」

「姪の要請で、猫を出すのは決まっています。白くて目の青い、桃色のリボンをつけた……発狂はしていない奴です」


 あら可愛らしい、と妙子さんは喜ぶ。筋はまるで決まっていない。


「何か他にありませんかね」

「それじゃあね……。幸せに終わるお話が良いわ」

「成る程。そうすると、猫が恋の架け橋にでもなるのかな」

「そこに大久保さんのお得意の怪奇の話を入れると、きっと面白いと思うの」

「少し目鼻がついてきたな……」


 そう口にしてから、少々げっそりした気持ちになる。先日の水子騒動の事を思い出したからだ。妙子さんは何も気づかず、猫の話などを続けている。とても楽しそうに。


 僕は何だか、どうしてこの灯火ともしびの様な人がまたこんな陰気な家に居るのかと、不思議な気持ちになった。


「妙子さん」

「なあに」


 僕は衝動に駆られ、唐突に彼女に質問をぶつけてみる事にした。


「何故僕だったのですか」

「え?」


 小さく首を傾げる。


「他に幾らでも良い人は居たでしょう。先輩の紹介でも、何でも。どうして僕を選んでくれたのですか」

「大久保さんは、もっと自信を持った方が良いわね」


 姪と同じ様な事を言う。


「そうね、しっかりした理由がある訳ではないのよ。私も寂しかったのもあるし」


 そこに偶々たまたま、僕が放り込まれたと言う事だろうか。妙子さんは続ける。


「でも、あのね。覚えている事があるわ。一緒に虹を見たでしょう」


 不意に心臓が震えた。それは、僕の中でも特別に大切な思い出として、胸の中の小さな自鳴琴オルゴール付きの箱の中にしまって置いたものであった。


「あの時ね、もしかしたらこの人、態々わざわざ私に会いに来たのかしらと思ったの」

態々わざわざ会いに行ったんですよ」

「矢っ張り。それでね、それが……嬉しかったの。嬉しいと言う事が嬉しかったわ。私、まだ気持ちがこんなに動くのだと驚いたの。そうして、虹を見て、この人と一緒に何かするのがとても好きだわと思った」


 僕は、自分で聞いた癖に、なんとも照れくさく、面映おもはゆくなってしまい、軽く貧乏ゆすりをした。


「大久保さんは、私の何が良かったの」

「……さあ、僕もどこでピンと来たのか覚えていなくて」


 ごく始めの方から気になっていた様な気もする。それとも、あの小さな妙子さんと並んで歩いた時か、あるいは。


「でも、そう、虹は嬉しかった。とても」


 妙子さんは、目をきゅっと細めた。僕らは暫く、細く開けた障子の向こうの、昼下がりの光を浴びた、小さく荒れた庭を見詰めていた。


 ふと、妙子さんが腰を上げた。いぶかしげな顔をして、障子を大きく開く。


「何か、今……」


 そう言いかけたところで、僕も気づく。黒い影が、人の形に凝っている。それはやがて形を持ち、確かに目鼻を作り——山路先生の姿を取った。


 僕は立ち上がり、妙子さんの少し冷たい手をギュッと握る。背中に冷や汗が流れるのを感じた。原稿の整理を終えて以来、先生の家では怪異が起こった事は無い。あの水子も、姿を現した事は無い。それが、ここでまた現れたか、と思ったのだ。


 だが、山路先生は、笑っていた。あの夜のくらい笑みではない、懐かしい、他愛もない冗談を口にした時の柔らかな顔で笑っていた。僕らを見て、とても嬉しそうに笑っていた。


「幸せになりなさい」


 妙子さんが何か言いかけて、口を閉ざす。先生は僕を見た。そして言う。


「妙子を頼むよ」


 それだけだった。それだけを残して、影は風に吹かれ、頭から足の順にざわざわと消えて行った。後には、足跡すら何も残らなかった。


 僕らは庭を見詰め、しばらくジッとしていた。そうして気がつくと僕は、深々とお辞儀をしていた。全集は、しっかり作ります。そう念じた。


「もう……もう、雄二郎さんたら」


 ややあって、妙子さんが少し膨れた様に言う。


「三度目よ。どれだけ私、信用されていないの?」

「それだけ心配されていたんですよ」

「お節介だわ。私ひとりでちゃんと大久保さんを選んだのに!」


 僕は手を伸ばして、いきどおる妙子さんの細い身体を腕の中に抱き締める。先生は酷い、と思った。遺産といい、醜聞スキャンダルといい、僕の重荷と責任は増えるばかりだ。


 それでも、僕は、全部抱えて、よろけながら彼女と共に歩く道を選んだ。


「頼まれてしまったわねえ、大久保さんも」

「責任重大だ」


 妙子さんは少し身を離すと、右手の小指を立てた。そうして、僕の小指にするりと絡める。垂れた透明の糸が揺れた。悪戯っぽく笑う顔に、僕はあの日の少女の面影を見る。


「指切り。ずっと元気で、私と一緒に居て下さいな」


 僕は、それに応えた。ふたりきりのちぎりは、風が吹いても千切ちぎれそうになる程弱く、儚く、だからこそ、守らねばならぬと思った。



 これにて僕の、怪奇と恐怖とに彩られた、少々恥ずかしい恋の物語は、ひとつの幕を閉じる。


 何幕の構成であるかは、主演たる僕にも未だにわからないが、精々最後まで演じ切って見せようと、それだけは張り切る所存である。


 まったき百の語りから、少しばかり欠けた情けの無い始末ではあるが、僕は存外、この物語を気に入っている。あなたもそうであると、きっと嬉しい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

帝都つくもちぎり 佐々木匙 @sasasa3396

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ