終話 こゆびのちぎり

こゆびのちぎり 壱

 羽多野チヨ猫は、僕の顔を見るなりまた一撃、小さな爪で手を引っ掻いた。それから僕をジッと見上げ、鼻をぷすぷすと鳴らし、そうしてこれで手打ちにしてやろうとでも言いたげに、柔らかな頭を手にこすりつけて来た。


 きっと、霧の残りが少し、まとわりついてでもいたのであろう。そうして、それははらわれたようであった。この小さく不思議な猫は、初めから目の前の悪い物をどうにかしようと懸命だったのに違いない。そこに僕個人への思い遣りがあるのかいなかは謎だが、どうにも健気でいじらしいと思った。


「良かった。やっと仲直りした」


 姪のみどりが茶と菓子を運んで来る。秋晴れの、日差しの明るい午後であった。


「元々喧嘩なぞしていなかったさ。なあ、チヨ」


 にい、と可愛らしい声が上がる。


「最近叔父さん、忙しそうであまり来なかったから。チヨの所為せいだったらどうしようかと思って」


 お母さんなぞ、叔父さんは放って置くと飢えて倒れると思ってるのだから、と言う。成人の男子とは思えぬ扱いではあるが、致し方ない。僕は不名誉を甘受した。


「大きな仕事が一段落ついたから、前よりは少し楽になるよ。後は家でも出来る作業でもあるから、遊びに来たって良い」


 すると、姪は大きな目でまじまじと僕を見詰めた。飼い猫と良く似た顔つきで、してみると僕の周辺の女性と言う物は、全体猫似であるのかも知れぬ。姉なども、あの一撃の鋭さはチヨによく似ているし。


「叔父さん、何か良い事があったの」

「どうして」

「少し嬉しそう。言っては何だけど、浮かれている顔をしてる」


 僕は口元を擦る。


「浮かれているかな」

「……叔父さんは、いつも何だか寂しそうにしているから、それ位がきっと丁度良いのだと思う」

「そうかね」

「何があったのか聞いても良い?」


 僕は、この娘の前では正直でありたいと思う気持ちと、どうしようもない恥ずかしさとの間で板挟みになる。そうして、迷った挙句に卑怯な叔父は言葉を濁した。


「雨がね、止んだんだ。ようやくだよ」


 姪はわかった様なわからない様な顔で、そう、と呟いた。いずれ、この家には紹介をしなければならないな、と思った。少しばかり照れくさく、嬉しい気の重さであった。



 庭野にわの先輩のお宅に伺い、報告をするのはさらに億劫おっくうな事であった。先輩は、僕が原稿整理の作業が終わった後も山路邸やまじていに通い、妙子たえこさんと親しくしている事を知ると、紅茶をこぼしそうになった。


「君が?」

「はい」


 今ぐ地震でも起これば良いのに、等と考えながら、僕は……寝返った密偵スパイうなずく。よもやの裏切りであったろう。


「僕は君に報告を頼んだのであって……ああ、もう……そう来たか……」


 大久保君がか! 先輩はうめく。大穴ダークホースであったのだろう。木乃伊ミイラ取りが木乃伊になったのを見る様な気持ちでもあろうな、と僕は彼に同情した。


「一応、お話をうかがった時点では、その、特に何も無く」

「それはそうだろうよ。君がそれ程器用な人間とは思っていないよ。……いや、失敬。しかしまあ、悪くはない。悪い話ではない……」

「僕は、御しやすいと思います。知恵も野心も無い。先生の財産に関しては、妙子さんや先輩に従いますよ」


 ふう、と先輩は息を吐いた。鳥の怪異は完全に去ったと見えて、心労は随分と減った顔である。


「大久保君。だがね、君はひとりの女性以上の物を背負ってしまったと言う事は自覚してくれたまえ。良いね」


 またそれか、と思う。


「君に求められているのは安定だ。不仲になられても困るし、浮気なぞ以ての外だ。ただでさえ先生と妙子夫人には醜聞スキャンダルが付きまとっていたのに、今度は相手が弟子となっては、隙を見せては新聞雑誌に余計な事を書かれかねん」


 僕は胃のを重くしながら先輩の訓示を聞く。それも、覚悟せねばならぬ事であった。


「だが、まあ、それは一旦置いておこう」


 庭野先輩は、手を組み直し、少し前に身体を乗り出した。


「頼みがある。夫人を……妙子さんを、どうかこれ以上悲しませずにあげて欲しい」


 僕は目をまたたかせた。この人はこの人なりのやり方で、ずっと彼女を心配していたのだと、そう思い知ったのだ。



「あの、失礼ながらずっと疑問だったのですが、大久保先生は妙子夫人とは、その」


 菱田君が僕の家に原稿を取りに来た時、躊躇ためらいがちにそんな事を尋ねてきた。


「話さなけりゃ駄目かい」

「いえ、別に構わないのですが、それ、もう半分話したのと同じ様な答えですよね」


 僕は渋い顔をした。菱田君は眼帯をつけていても、変に鋭い事がある。


「そうかあ。良かった。仲がよろしそうなので、もしやと思ったのですが」


 僕は、先生の筆がはかどるのならもう、何でも構いませんよ、恋愛沙汰ロマンスだって歓迎ですとも、等と自分の事の様に嬉しそうにする。感覚はどこか人離れしているが、これで気の良い若者なのである。


「先日の妙な霧も、祓えた様で何よりです」


 その霧の巡り合わせのお陰で今こうして浮かれているのだとは、まあ、口を閉ざして置こうと思う。


しかし、羨ましいな。僕もそう言う幸せな話が欲しいですよ。親戚連中、どうも僕を子供扱いして、良い人を紹介するだなんてされた事が一度も無い」


 僕は苦笑する。如何いかに鋭い感覚の持ち主とは言え、己に降りかかる恋の話題にはとんと鈍いらしい。


「探せば、身の回りに良い話は幾らでもあるさ」

「そうですかねえ」


 我が姪の健闘を祈り、僕は原稿用紙の縁を叩いて揃えた。



 関は、また何時いつものバー『アトラス』の卓に着き、水のグラスをあおっていた。今しがた来たばかりの僕も、隣に座る。


「おう、幸せ者が来やがった」


 関は少し、酔っている様であった。酔っ払いは面倒だと思う。


「その後はどうだ、例の奥方とは」

「その呼び方は何だか、不義でもしている様で嫌だな」

「未亡人よりはましだろう。酷い呼び方だよな、未だ亡くならざる人、と言うのは」


 先日はその呼び方をしていなかったかと思ったが、まあ、些事さじであろう。僕はウォトカを頼み、ソーダと柑橘水で割ってもらった。


「僕は、君に礼を言っていなかった様に思う」


 何、と関がまた狛犬の様な顔でこちらを見た。


「それもずっとだ。前の通り物の時だの、その前の借金の時だの、何度も機会があったのに、言わずに置いた」

「知るかよ。今更改まられても困るだけだ」


 だから、困らせてやろうと言うのだ、と僕は口の端を吊り上げる。出て来た酒を軽く口にすると、卓にグラスを置いた。


「有難う、関」


 関は背中を掻く様にして、もごもごと日本語にならぬ言葉をつぶやいた。


「まあ、それだけだ。僕だって御涙頂戴おなみだちょうだいがやりたい訳でもなし」

「そうしておけ。思ったより気持ち悪いぞ、今のは」


 ふう、と息を吐く。それから、少し気になっていた事を彼に尋ねてみる事にした。


「……例の病院の慰霊碑、あれはどうなったんだ」

「直させて、もう一度きちんと供養をしたさ。怪異の噂もぴたりと無くなったようだ」


 暴行事件も、僕らのあの夜を境に止まっているようであった。じきに妙子さんと、花でも供えに行こうかと思う。


「結局、あれはどう言う物だったんだ。何と言うか、筋は通っても、ところどころ良くわからないところがある。どうして人に化けたのか、とか」

「その辺は想像で埋めるしかないさ。面と向かって取材インタビューする訳にもいかんのだからな」


 関は欠伸あくびをする。


「何かになりたかった、人の形になりたかった、そんなところじゃないのか」


 僕は、どんな姿にもなれず、ゆらゆらと仲間と溶け合うだけの生……生と言って良いのかはわからないが、その気持ちを考えてみた。わかるはずもないが、水に小さく浮いた油の様に、心細くて寂しい様な感覚があった。


「俺は、どうして奴らが罪悪感なぞというしんどい物を寝床にしていたのかがわからんよ。どうだ、大久保先生。謎解きは出来そうか」

「僕にもわからんが……流れた子供が触れる親の感情ってのは、申し訳ない、済まないと言う気持ちになるのじゃないか。反対に言うと、彼らはそれしか知らないのかも知れない」


 暖かな気持ちを知らぬ彼らは、僕らの痛みと恐れを揺り籠として具現化する。そうして人になれたと思うなど、それはどうにも悲しすぎる事の様に感じた。


「そいつは難儀だな。供養をされて、また彼女の言う通りに元の道に戻れたなら良いが」


 僕はうなずく。それがどんな世界なのは知るすべもないが、せめて、今度は大事にすると言った妙子さんの言葉が、彼らにとっての光になれば良いと思う。


「それで、式は何時いつだ」


 突然の関の言葉に、僕は椅子から転げ落ちそうになった。


「何だいきなり。気の早い」

「君の事だから、早速浮かれてそんな話を持ち出しているに決まっているんだ。俺にはわかる」

「知らないよ。大体、僕は冬は殆ど冬眠しているのだから……」

「春になったら改めて、とかそんな具合か。羨ましい羨ましい」

「止めてくれ。大体、こちらが先に妙子さんに愛想を尽かされる可能性だってあるんだ」

「自分は失望しないとでも言いたげだな。惚れやがって」

「関!」


 僕らは、その夜、只管ひたすら喧々囂々けんけんごうごうのやり取りを行なった。僕の前は空きグラスで一杯になり、関も珍しく何杯も飲んでだらしなくフラフラとしていた。


 僕らの祝杯が、毎回どこか締まらない空気になるのは、これはもう、決まった事なのであろうと思う。ただ、僕は、何時いつもより少しばかり多めに笑った。それもきっと、関と、あの僕の節目になった夜のお陰なのだろう。

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