終話 こゆびのちぎり
こゆびのちぎり 壱
羽多野チヨ猫は、僕の顔を見るなりまた一撃、小さな爪で手を引っ掻いた。それから僕をジッと見上げ、鼻をぷすぷすと鳴らし、そうしてこれで手打ちにしてやろうとでも言いたげに、柔らかな頭を手に
きっと、霧の残りが少し、
「良かった。やっと仲直りした」
姪の
「元々喧嘩なぞしていなかったさ。なあ、チヨ」
にい、と可愛らしい声が上がる。
「最近叔父さん、忙しそうであまり来なかったから。チヨの
お母さんなぞ、叔父さんは放って置くと飢えて倒れると思ってるのだから、と言う。成人の男子とは思えぬ扱いではあるが、致し方ない。僕は不名誉を甘受した。
「大きな仕事が一段落ついたから、前よりは少し楽になるよ。後は家でも出来る作業でもあるから、遊びに来たって良い」
すると、姪は大きな目でまじまじと僕を見詰めた。飼い猫と良く似た顔つきで、してみると僕の周辺の女性と言う物は、全体猫似であるのかも知れぬ。姉なども、あの一撃の鋭さはチヨによく似ているし。
「叔父さん、何か良い事があったの」
「どうして」
「少し嬉しそう。言っては何だけど、浮かれている顔をしてる」
僕は口元を擦る。
「浮かれているかな」
「……叔父さんは、いつも何だか寂しそうにしているから、それ位がきっと丁度良いのだと思う」
「そうかね」
「何があったのか聞いても良い?」
僕は、この娘の前では正直でありたいと思う気持ちと、どうしようもない恥ずかしさとの間で板挟みになる。そうして、迷った挙句に卑怯な叔父は言葉を濁した。
「雨がね、止んだんだ。
姪はわかった様なわからない様な顔で、そう、と呟いた。
「君が?」
「はい」
今
「僕は君に報告を頼んだのであって……ああ、もう……そう来たか……」
大久保君がか! 先輩は
「一応、お話を
「それはそうだろうよ。君がそれ程器用な人間とは思っていないよ。……
「僕は、御し
ふう、と先輩は息を吐いた。鳥の怪異は完全に去ったと見えて、心労は随分と減った顔である。
「大久保君。だがね、君はひとりの女性以上の物を背負ってしまったと言う事は自覚してくれ
またそれか、と思う。
「君に求められているのは安定だ。不仲になられても困るし、浮気なぞ以ての外だ。ただでさえ先生と妙子夫人には
僕は胃の
「だが、まあ、それは一旦置いておこう」
庭野先輩は、手を組み直し、少し前に身体を乗り出した。
「頼みがある。夫人を……妙子さんを、どうかこれ以上悲しませずにあげて欲しい」
僕は目を
「あの、失礼ながらずっと疑問だったのですが、大久保先生は妙子夫人とは、その」
菱田君が僕の家に原稿を取りに来た時、
「話さなけりゃ駄目かい」
「いえ、別に構わないのですが、それ、もう半分話したのと同じ様な答えですよね」
僕は渋い顔をした。菱田君は眼帯をつけていても、変に鋭い事がある。
「そうかあ。良かった。仲が
僕は、先生の筆が
「先日の妙な霧も、祓えた様で何よりです」
その霧の巡り合わせのお陰で今こうして浮かれているのだとは、まあ、口を閉ざして置こうと思う。
「
僕は苦笑する。
「探せば、身の回りに良い話は幾らでもあるさ」
「そうですかねえ」
我が姪の健闘を祈り、僕は原稿用紙の縁を叩いて揃えた。
関は、また
「おう、幸せ者が来やがった」
関は少し、酔っている様であった。酔っ払いは面倒だと思う。
「その後はどうだ、例の奥方とは」
「その呼び方は何だか、不義でもしている様で嫌だな」
「未亡人よりはましだろう。酷い呼び方だよな、未だ亡くならざる人、と言うのは」
先日はその呼び方をしていなかったかと思ったが、まあ、
「僕は、君に礼を言っていなかった様に思う」
何、と関がまた狛犬の様な顔でこちらを見た。
「それもずっとだ。前の通り物の時だの、その前の借金の時だの、何度も機会があったのに、言わずに置いた」
「知るかよ。今更改まられても困るだけだ」
だから、困らせてやろうと言うのだ、と僕は口の端を吊り上げる。出て来た酒を軽く口にすると、卓にグラスを置いた。
「有難う、関」
関は背中を掻く様にして、もごもごと日本語にならぬ言葉を
「まあ、それだけだ。僕だって
「そうしておけ。思ったより気持ち悪いぞ、今のは」
ふう、と息を吐く。それから、少し気になっていた事を彼に尋ねてみる事にした。
「……例の病院の慰霊碑、あれはどうなったんだ」
「直させて、もう一度きちんと供養をしたさ。怪異の噂もぴたりと無くなったようだ」
暴行事件も、僕らのあの夜を境に止まっているようであった。
「結局、あれはどう言う物だったんだ。何と言うか、筋は通っても、ところどころ良くわからないところがある。どうして人に化けたのか、とか」
「その辺は想像で埋めるしかないさ。面と向かって
関は
「何かになりたかった、人の形になりたかった、そんなところじゃないのか」
僕は、どんな姿にもなれず、ゆらゆらと仲間と溶け合うだけの生……生と言って良いのかはわからないが、その気持ちを考えてみた。わかる
「俺は、どうして奴らが罪悪感なぞというしんどい物を寝床にしていたのかがわからんよ。どうだ、大久保先生。謎解きは出来そうか」
「僕にもわからんが……流れた子供が触れる親の感情ってのは、申し訳ない、済まないと言う気持ちになるのじゃないか。反対に言うと、彼らはそれしか知らないのかも知れない」
暖かな気持ちを知らぬ彼らは、僕らの痛みと恐れを揺り籠として具現化する。そうして人になれたと思うなど、それはどうにも悲しすぎる事の様に感じた。
「そいつは難儀だな。供養をされて、また彼女の言う通りに元の道に戻れたなら良いが」
僕は
「それで、式は
突然の関の言葉に、僕は椅子から転げ落ちそうになった。
「何だいきなり。気の早い」
「君の事だから、早速浮かれてそんな話を持ち出しているに決まっているんだ。俺にはわかる」
「知らないよ。大体、僕は冬は殆ど冬眠しているのだから……」
「春になったら改めて、とかそんな具合か。羨ましい羨ましい」
「止めてくれ。大体、こちらが先に妙子さんに愛想を尽かされる可能性だってあるんだ」
「自分は失望しないとでも言いたげだな。惚れやがって」
「関!」
僕らは、その夜、
僕らの祝杯が、毎回どこか締まらない空気になるのは、これはもう、決まった事なのであろうと思う。ただ、僕は、
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