ちりはちりに 参

 妙子さんは、上品なつくりのソファに腰掛け、軽く背もたれに寄りかかっていた。僕が近寄ると薄く笑みを浮かべる。


「色々、聞きたい事があったの」

「僕も、言いたい事がありました」


 隣を手で示された。少し逡巡しゅんじゅんし、そうして失礼して座らせて貰う。三人がけのソファは、図体ずうたいの大きな僕が座ってもまだ余裕があった。


ずね、どうして大久保さん達が襲撃を知っていたのか。それから、どうしてあの子は雄二郎さんの姿をしていたのか。最後に、結局あの子は何者なのか」

「それは」


 言いにくい事ではあったが、知っている事は話さねばならぬと思った。それが誠実と言う物だ。僕にとて、欠片かけらほどの実直さは残っている。


「全て、僕の所為せいだからです」


 僕は、神田の路地に迷い込んだ時の話をした。今やはっきりと思い出せる、霧と同居をしていた時の話をした。少し躊躇ちゅうちょしてから、僕の罪悪感の話をした。それで、もう、この家には来られないと言った。僕の愚かな恋心の話は、どうにか省いた。


「何か悪いと思っていたの? 雄二郎さんに?」


 妙子さんは不思議そうな顔をする。


「だとすれば、それは考え過ぎよ。大久保さんは良いお弟子さんだわ」

「違います」


 僕は、あの水子を撃退した今となってなお心中に吹きすさぶ、申し訳なさの嵐に身をすくめた。


「僕は、駄目です。裏切り者です。とても顔向けが出来ない」

「大久保さん」


 妙子さんの猫の様な目が、僕を真っ直ぐに射た。羽多野はたの家のチヨが僕を引っ掻く前に、こんな目をしていたと思う。


「ちゃんと話して」

「だって僕は」


 頭を抱えた。こんな形で告げる心算つもりは無かったのに。


「あなたの事をとても好きになってしまった」


 目を閉じて衝撃に耐えるが、爪の一撃は、来なかった。妙子さんは、ただ黙って目を見開いていた。やがて、ゆるゆると確かめる様に話し出す。


「……それで。それで、雄二郎さんに申し訳ないと思って? で、怪異があの姿になって、私を襲おうとしているのを知って、それで」

「僕に取り憑いていましたから、妙子さんの事を知るのは容易だった事でしょう。気づいた時にはあれは動き出していたから、こうして、阻止しに来ました。僕が居なければ、こんな事にはならなかった」

「それで、でも、助けてくれたのね」


 声はあくまで優しかった。


「僕の所為せいです」

「そうなのかも知れない、けど……」


 妙子さんは、僕を見上げる。


「ね、あの子の話をさせて」


 いやおうも無かった。僕は、何だって聞く心算つもりだった。


「五年以上前、雄二郎さんと暮らし始めてから幾らか経った頃にね。私、体調を崩して。近所のお医者には疲れが溜まったのだろうと言われたわ。でも、気になって神田の例の病院に行ったら、うんと小さな子供が居て、もう流れてしまったと聞かされた。呆気ない物だったわ」


 そうして家に帰って、寝込む程ではなかったから、何時いつも通りに夕飯の支度をしようとしたのだと言う。


「申し訳ない位に、何も悲しくなかった。モヤモヤと何かが引っかかっている気はしたけれど、それはそれで、お腹は空くものね。私、丁度ちょうど頂いた卵が食べたかったの。割って、溶いて、焼こうとしたわ」


 その時、どろりと割れた卵の中身を見て、ハッとした、と彼女は語った。


「人の形も取らないで、流れてしまったあの子を見る様だった。私、何も考えずに卵料理なぞ作って、馬鹿ではないかと思ったわ。それ位に、少しも悲しくなかったの。それがとても嫌で、こんな無神経な人間は、何かを作るべきではないと思った」


 そうして妙子さんは、歌から遠ざかった。先生は医院での話を聞き、しばらく悲しんだそうだが、それで終わりだった。やがて彼女の体調も回復し、日常が戻って来た。その後、ふたりに子供が出来る事は無かった。


「私、あの子の事、ずっと忘れていたわ。泣いた事すらなかったの。先刻さっきまでは」


 やっと泣けたの。彼女はそう言う。あの時形にし損ねた物に、ようやく姿が与えられたのだと。忘れていたと言うが、きっと彼女は無意識でずっと、当てもなく悔いてきたのだろう。その心で、ああして子供達を可愛がって一緒に遊んでいたのだと、僕は勝手に想像する。


「だから、平気よ。かえって楽になった位」

「それでも、僕はあなたの大事な人に、あんな酷い事をさせた」

「そうね。そうだけれど」


 大久保さん。妙子さんは僕の名を呼んだ。


「雄二郎さんね、私に、幸せになりなさいと言ったわ。自分の事はたまに思い出してくれれば良いからって」


 しかも二度も、と言う。一度目は、亡くなる少し前に。二度目は、亡くなった後。以前遭遇した残留思念がそれを告げたのだと。


「そんな事できるものかしらと思ったし、幸せって何だろうとも思って、先延ばしにして来たの。だ良くわからないけれど、でも」


 視線が揺れる。彼女は僕の目を見詰め、軽く睫毛を伏せ、瞬きをし、また目を合わせた。


「好いた人と一緒に居られるのは、きっと、私にとって幸せな事よ」


 そうでしょう。それはそうでしょう。どうか、お幸せになって下さい。そう返そうと思った。言葉が引っかかって、舌がもつれた。僕は聞き返す。きっと、馬鹿みたいな顔になっていた事だろう。


「済みません。今、何と?」

「大久保さんは、少し、朴念仁ぼくねんじんなところがあるわね」


 妙子さんは笑っていた。涼やかな顔で、目を細めて笑っていた。


「私、あなたの事、好きよ」


 鉄槌てっついが如き一撃が、ここで振り下ろされた。完全に予想外であった。僕は慌てて言葉を連ねる。


「僕は、駄目です。僕は、だって、酒ばかり飲んで、冬は倒れっ放しで、仕事だって、そう売れている訳でもなし」

「そうね。私と居て少し変わると良いなと思うし、変わらなければそれが大久保さんなんだわ」

「僕は」


 ごくりと唾を飲み、関を除いて誰にも話した事のない話をした。


「……僕は、時々、鏡越しに自分の死ぬ姿を見ます。いつか本当になってしまわないとも限らない」


 妙子さんは少し考え、慎重な口調でこう答えた。


「それなら、尚更一緒に居たいわ。離れていて止められなかったら、とても後悔するとは思わない?」

「忘れようとして、忘れられない相手も居ます」

「私にだって、雄二郎さんが居るわ。あの人の代わりには、きっと誰もならないわ」

「さっき片をつけたのも、関のした事です」

かばってくれたわ。それで十分」


 それで終わり?と彼女は距離を詰める。


「大久保さんは私の事がお好きなんでしょう」

「好きですよ! ただ、僕は力不足です。先生の遺された物を、きちんと受け取れる自信が無い」

「それで、ここにはもう来ないなんて言い出すのね。良い事」


 妙子さんは人差し指を立てる。折られた小指の指先からは、するすると糸がほどけて伸び、肘の辺りまで垂れ下がっていた。彼女自身には見えない様であったが。


「私があなたのその重荷ごと、あなたを好きでいるわ。そうして、どこまでもあなたを追いかける。大久保さん、お酒の匂いがするから、隠れてもぐに居場所が知れてしまうわよ」

「最近は控えていますよ」

「本当に?」


 ふふ、と彼女は笑う。


「心は誰でも、何時いつでも自由で、何処どこにでも行けるのだと、雄二郎さんが教えてくれたの。だから私、あなたの元に行くわ」


 僕の負けだ、と思った。


 僕は無言で彼女の手から伸びる糸を手にし、ぐるぐるとその指に巻きつけた。巻かれたところは吸い込まれるように消えて、ほんの少しの糸の端が残る。


「それは?」

「おまじないです」


 多分、これは僕にしか出来ない事だと思った。


「きっと幸せになる、おまじないです」


 僕は、妙子さんの全てと、先生の遺した物と、それから僕の情けない弱さとを受け入れる事に決めた。そう、決めたのだ。



 水の音がずっとしているので、洗面所の様子を見に行くと、関が、遅い、と濡れた顔で文句を言ってきた。


「俺はもう五回は顔を洗ったぞ。脂が全滅してしまう」

「人の家の水をそうざぶざぶと使うなよ」

「君らの煮えたぎった会話なんぞ聞いて居られるか」

「だからって、何で態々わざわざ本当に洗うんだ」


 何だか可笑おかしくなってきて、僕は肩を震わせて笑った。関は、首尾にいて何も聞いて来なかった。洗面台の鏡の中では、鏡像の僕が剃刀かみそりを首に当てていた。それすら、もう、何でも良かった。


 三十と少し生きてきて、ようやく微かな幸せの糸口が掴めた様な、そんな気がしていたのだ。

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