ちりはちりに 参
妙子さんは、上品なつくりのソファに腰掛け、軽く背もたれに寄りかかっていた。僕が近寄ると薄く笑みを浮かべる。
「色々、聞きたい事があったの」
「僕も、言いたい事がありました」
隣を手で示された。少し
「
「それは」
言いにくい事ではあったが、知っている事は話さねばならぬと思った。それが誠実と言う物だ。僕にとて、
「全て、僕の
僕は、神田の路地に迷い込んだ時の話をした。今やはっきりと思い出せる、霧と同居をしていた時の話をした。少し
「何か悪いと思っていたの? 雄二郎さんに?」
妙子さんは不思議そうな顔をする。
「だとすれば、それは考え過ぎよ。大久保さんは良いお弟子さんだわ」
「違います」
僕は、あの水子を撃退した今となってなお心中に吹き
「僕は、駄目です。裏切り者です。とても顔向けが出来ない」
「大久保さん」
妙子さんの猫の様な目が、僕を真っ直ぐに射た。
「ちゃんと話して」
「だって僕は」
頭を抱えた。こんな形で告げる
「あなたの事をとても好きになってしまった」
目を閉じて衝撃に耐えるが、爪の一撃は、来なかった。妙子さんは、ただ黙って目を見開いていた。やがて、ゆるゆると確かめる様に話し出す。
「……それで。それで、雄二郎さんに申し訳ないと思って? で、怪異があの姿になって、私を襲おうとしているのを知って、それで」
「僕に取り憑いていましたから、妙子さんの事を知るのは容易だった事でしょう。気づいた時にはあれは動き出していたから、こうして、阻止しに来ました。僕が居なければ、こんな事にはならなかった」
「それで、でも、助けてくれたのね」
声はあくまで優しかった。
「僕の
「そうなのかも知れない、けど……」
妙子さんは、僕を見上げる。
「ね、あの子の話をさせて」
「五年以上前、雄二郎さんと暮らし始めてから幾らか経った頃にね。私、体調を崩して。近所のお医者には疲れが溜まったのだろうと言われたわ。でも、気になって神田の例の病院に行ったら、うんと小さな子供が居て、もう流れてしまったと聞かされた。呆気ない物だったわ」
そうして家に帰って、寝込む程ではなかったから、
「申し訳ない位に、何も悲しくなかった。モヤモヤと何かが引っかかっている気はしたけれど、それはそれで、お腹は空くものね。私、
その時、どろりと割れた卵の中身を見て、ハッとした、と彼女は語った。
「人の形も取らないで、流れてしまったあの子を見る様だった。私、何も考えずに卵料理なぞ作って、馬鹿ではないかと思ったわ。それ位に、少しも悲しくなかったの。それがとても嫌で、こんな無神経な人間は、何かを作るべきではないと思った」
そうして妙子さんは、歌から遠ざかった。先生は医院での話を聞き、
「私、あの子の事、ずっと忘れていたわ。泣いた事すらなかったの。
やっと泣けたの。彼女はそう言う。あの時形にし損ねた物に、
「だから、平気よ。
「それでも、僕はあなたの大事な人に、あんな酷い事をさせた」
「そうね。そうだけれど」
大久保さん。妙子さんは僕の名を呼んだ。
「雄二郎さんね、私に、幸せになりなさいと言ったわ。自分の事は
「そんな事できるものかしらと思ったし、幸せって何だろうとも思って、先延ばしにして来たの。
視線が揺れる。彼女は僕の目を見詰め、軽く睫毛を伏せ、瞬きをし、また目を合わせた。
「好いた人と一緒に居られるのは、きっと、私にとって幸せな事よ」
そうでしょう。それはそうでしょう。どうか、お幸せになって下さい。そう返そうと思った。言葉が引っかかって、舌が
「済みません。今、何と?」
「大久保さんは、少し、
妙子さんは笑っていた。涼やかな顔で、目を細めて笑っていた。
「私、あなたの事、好きよ」
「僕は、駄目です。僕は、だって、酒ばかり飲んで、冬は倒れっ放しで、仕事だって、そう売れている訳でもなし」
「そうね。私と居て少し変わると良いなと思うし、変わらなければそれが大久保さんなんだわ」
「僕は」
ごくりと唾を飲み、関を除いて誰にも話した事のない話をした。
「……僕は、時々、鏡越しに自分の死ぬ姿を見ます。いつか本当になってしまわないとも限らない」
妙子さんは少し考え、慎重な口調でこう答えた。
「それなら、尚更一緒に居たいわ。離れていて止められなかったら、とても後悔するとは思わない?」
「忘れようとして、忘れられない相手も居ます」
「私にだって、雄二郎さんが居るわ。あの人の代わりには、きっと誰もならないわ」
「さっき片をつけたのも、関のした事です」
「
それで終わり?と彼女は距離を詰める。
「大久保さんは私の事がお好きなんでしょう」
「好きですよ! ただ、僕は力不足です。先生の遺された物を、きちんと受け取れる自信が無い」
「それで、ここにはもう来ないなんて言い出すのね。良い事」
妙子さんは人差し指を立てる。折られた小指の指先からは、するすると糸が
「私があなたのその重荷ごと、あなたを好きでいるわ。そうして、どこまでもあなたを追いかける。大久保さん、お酒の匂いがするから、隠れても
「最近は控えていますよ」
「本当に?」
ふふ、と彼女は笑う。
「心は誰でも、
僕の負けだ、と思った。
僕は無言で彼女の手から伸びる糸を手にし、ぐるぐるとその指に巻きつけた。巻かれたところは吸い込まれるように消えて、ほんの少しの糸の端が残る。
「それは?」
「お
多分、これは僕にしか出来ない事だと思った。
「きっと幸せになる、お
僕は、妙子さんの全てと、先生の遺した物と、それから僕の情けない弱さとを受け入れる事に決めた。そう、決めたのだ。
水の音がずっとしているので、洗面所の様子を見に行くと、関が、遅い、と濡れた顔で文句を言ってきた。
「俺はもう五回は顔を洗ったぞ。脂が全滅してしまう」
「人の家の水をそうざぶざぶと使うなよ」
「君らの煮え
「だからって、何で
何だか
三十と少し生きてきて、
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