ちりはちりに 弐

 妙子さんが、 後じさりする。関が逆に一歩進んだ。先生の姿をした物は、奇妙な声で言葉を続ける。


「僕らをもう一度」


 関が腕を振りかぶった。


「今度はちゃんと産んで」


 その時だった。先生が一歩踏み込み、腕が大きく空気を薙ぎ払う。それは関の胴体を強かに打ちえた。彼は、空気を吐き出すような、妙な声を上げて後ろに叩きつけられる。椅子が衝突の衝撃で倒れ、関がその上に転がり、動かなくなった。人には到底出せぬ様な力を、この相手は持っている様だった。


「お母さん」


 その腕は、霧と泡立ち、やがて鋭い刃物を握った形に変わる。


「お願い、帰らせて」


 僕は、動けなかった。動かなければいけないと、そう思っても動けなかった。妙子さんが小さく震えているのを見ても、関がぐにゃりと伸びているのを見ても、ただ立ち尽くすだけだった。僕に何が出来る。僕は無力だ。好いた女性ひとりも守る事が出来ない——。


 ゆっくりと、先生は妙子さんに近づく。一歩、また一歩。彼女の腹が裂かれるのは、時間の問題と見えた。


 ちかり、と何かが視界の端で光った。それは、かたわらの壁に掛けられた鏡の反射だった。僕と、先生とが小さく映っている。そしてその鏡像の僕は……無防備な姿で、先生の前に立ちはだかろうとしていた。


 僕はその時、少々おかしくなりかけていた。思わず笑いそうになったのだ。そう、そうだろうよ、と思った。お前なら……僕の死を映す怪異ならば、そうするだろう。この場で最も破滅に近い選択肢は、立ち向かう事だ。


 僕は、笑うのも涙がにじむのもこらえ、顔を歪めた。良いだろう、通り物。一度だけ、自分からお前に従ってやる、と思った。死に飛び込むだけの強さの、愚かな蛮勇ばんゆうを僕に寄越せ。この状況を変え得る、狂気に似た衝動を僕に寄越せ!


 僕は、理性を棚上げにした。あの日、僕自身を殺そうとした時の、突き動かされる様な気持ちが蘇る。己への恐怖が蘇る。僕は先生と、妙子さんの間に飛び込み、大きく両手を広げた。


 死ぬべき者は、ここに居る。さあ、殺せ。


 先生は、無感情な顔で、刃物を握った右手を振るった。


 何かが砕ける、凄まじい音がした。身体と心が一度、散り散りに千切ちぎれた気持ちがした。ああ、背骨がやられたか、と思った。刃物で骨が砕けるものだろうか、と次に思った。思わず閉じかけた目を開ける。先生は何かに跳ね返された様に体勢を崩し、後ろに下がっていた。僕は、そのまま自棄やけで相手に体当たりをし、組みついた。


「……ええい、畜生!」


 関が苦しげに声を上げたのが聞こえた。どうやら生きていたらしい。ホッとしたところで、刃物がひらめく。僕の左袖は裂かれ、薄い傷が生じた。先生、と僕は己の罪に震えた。あなたの手は、こんな事の為にある物ではない。言葉を紡ぎ、文字を連ねる為の物だったのに。


「止めなさい」


 妙子さんが、怒鳴る様に叫んだ。彼女のそんな声は、初めてだった。


「産んであげたって良い。だから、止めなさい」

「何を言うんです。腹を裂かれて終わりだ」


 関がそう言って、よろけながらも立ち上がる音がした。先生は藻掻もがき、暴れる。腕を押さえつけるが、酷い力で押し負けそうになる。


「でも、順番を守らない我儘わがままな子は、駄目」


 僕は蹴飛ばされ、床に転がった。回転する視界の中に、妙子さんが映った。彼女は、涙をこらえる様にしながらも、何処どこまでも凛とした顔をしていた。先生の動きが、びくりとしたように一瞬だけ止まった。


「人をいじめる悪い子も、駄目。ちゃんとした方法で、私のところに帰ってらっしゃい」


 関が、起き上がりかけた先生の懐に飛び込んだ。手には、怪しい札か何か。


「そうしたら、今度はきちんと大事にしてあげるから、ね」


 吠える様な、泣く様な、耳をつんざく声が響いた。妙子さんは、静かに涙を一筋こぼしていた。そうして、先生は見る間に黒い霧に変わり、空気に溶ける様にして、雲散霧消うんさんむしょうした。呆気の無い物だった。今度はこごり直す事は、無かった。


 僕らは、しばらく何も言わずにその様を見詰めていた。しゃがみ込んだ関ののどが、ひゅうひゅうと鳴っていた。僕は少々手傷を負ったが、どうと言う事もない。関も、どうやら打撲程度の様だ。妙子さんは言うに及ばず。


 大きく、息を吐いた。関が、床にへたり込む。妙子さんが涙を拭いて、つくえにもたれかかった。


 水子の危難は、どうやら去った様であった。


「……しかし、僕はどうして助かったろう」


 独り言の心算つもりで呟くと、関が言う。


「懐を見てみろよ。霊験あらたかな奴をくれてやったんだ。これ位の役に立って貰わなくちゃ困る」


 僕は言われた通り懐を探る。関が渡してくれた金鍍金きんメッキの仏像が、真っ二つに割れていた。身代わり、という奴であろうか。


鬼子母神きしもじん様々だ。関信二特選だぜ。後で寺に返しに行ってくるさ」


 それから関は、手やらを清めたいので水場を貸して欲しい、と妙子さんに言った。緊張の糸が切れた様にボンヤリとしていた彼女は、慌てた様にうなずく。彼女が心配だ、と思った。思いながら、関について行く。


「馬鹿、おい、何で君が来るんだ」


 洗面所の戸を閉めると、関はくるりと振り向いて小声で言った。水の匂いのするこの小部屋は、男ふたりには少々狭い。


「何でって」

「俺はな、これでも気を利かせたんだぞ。とっとと行って、未亡人殿を慰めて来い」


 僕は首を振った。


「彼女に酷い事をした。僕にそんな資格はもう、無い」

「この唐変木とうへんぼく


 そこらにあったブラシが、僕の頭に投げつけられる。


「酷い事をしたからこそ、話せと言っているんだよ。根暗に閉じこもってるな」


 関は先程の水子に対するのと同じ様な顔で、僕を睨みつける。


「良いか。俺は良く君に同情し過ぎるな、入れ込むなと言ってるがな。今こそその時じゃないか。君のじめじめした愛着心を精々突きつけて来い」


 関は、僕をどんと突いた。僕は背中で戸を押し、廊下へと後退る。


「行け」


 僕は、拳を握り、再び客間へとおっかなびっくり歩き出した。

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