ちりはちりに 弐
妙子さんが、 後じさりする。関が逆に一歩進んだ。先生の姿をした物は、奇妙な声で言葉を続ける。
「僕らをもう一度」
関が腕を振りかぶった。
「今度はちゃんと産んで」
その時だった。先生が一歩踏み込み、腕が大きく空気を薙ぎ払う。それは関の胴体を強かに打ち
「お母さん」
その腕は、霧と泡立ち、やがて鋭い刃物を握った形に変わる。
「お願い、帰らせて」
僕は、動けなかった。動かなければいけないと、そう思っても動けなかった。妙子さんが小さく震えているのを見ても、関がぐにゃりと伸びているのを見ても、ただ立ち尽くすだけだった。僕に何が出来る。僕は無力だ。好いた女性ひとりも守る事が出来ない——。
ゆっくりと、先生は妙子さんに近づく。一歩、また一歩。彼女の腹が裂かれるのは、時間の問題と見えた。
ちかり、と何かが視界の端で光った。それは、
僕はその時、少々おかしくなりかけていた。思わず笑いそうになったのだ。そう、そうだろうよ、と思った。お前なら……僕の死を映す怪異ならば、そうするだろう。この場で最も破滅に近い選択肢は、立ち向かう事だ。
僕は、笑うのも涙が
僕は、理性を棚上げにした。あの日、僕自身を殺そうとした時の、突き動かされる様な気持ちが蘇る。己への恐怖が蘇る。僕は先生と、妙子さんの間に飛び込み、大きく両手を広げた。
死ぬべき者は、ここに居る。さあ、殺せ。
先生は、無感情な顔で、刃物を握った右手を振るった。
何かが砕ける、凄まじい音がした。身体と心が一度、散り散りに
「……ええい、畜生!」
関が苦しげに声を上げたのが聞こえた。どうやら生きていたらしい。ホッとしたところで、刃物が
「止めなさい」
妙子さんが、怒鳴る様に叫んだ。彼女のそんな声は、初めてだった。
「産んであげたって良い。だから、止めなさい」
「何を言うんです。腹を裂かれて終わりだ」
関がそう言って、よろけながらも立ち上がる音がした。先生は
「でも、順番を守らない
僕は蹴飛ばされ、床に転がった。回転する視界の中に、妙子さんが映った。彼女は、涙を
「人を
関が、起き上がりかけた先生の懐に飛び込んだ。手には、怪しい札か何か。
「そうしたら、今度はきちんと大事にしてあげるから、ね」
吠える様な、泣く様な、耳をつんざく声が響いた。妙子さんは、静かに涙を一筋こぼしていた。そうして、先生は見る間に黒い霧に変わり、空気に溶ける様にして、
僕らは、
大きく、息を吐いた。関が、床にへたり込む。妙子さんが涙を拭いて、
水子の危難は、どうやら去った様であった。
「……
独り言の
「懐を見てみろよ。霊験あらたかな奴をくれてやったんだ。これ位の役に立って貰わなくちゃ困る」
僕は言われた通り懐を探る。関が渡してくれた
「
それから関は、手やらを清めたいので水場を貸して欲しい、と妙子さんに言った。緊張の糸が切れた様にボンヤリとしていた彼女は、慌てた様に
「馬鹿、おい、何で君が来るんだ」
洗面所の戸を閉めると、関はくるりと振り向いて小声で言った。水の匂いのするこの小部屋は、男ふたりには少々狭い。
「何でって」
「俺はな、これでも気を利かせたんだぞ。とっとと行って、未亡人殿を慰めて来い」
僕は首を振った。
「彼女に酷い事をした。僕にそんな資格はもう、無い」
「この
そこらにあったブラシが、僕の頭に投げつけられる。
「酷い事をしたからこそ、話せと言っているんだよ。根暗に閉じこもってるな」
関は先程の水子に対するのと同じ様な顔で、僕を睨みつける。
「良いか。俺は良く君に同情し過ぎるな、入れ込むなと言ってるがな。今こそその時じゃないか。君のじめじめした愛着心を精々突きつけて来い」
関は、僕をどんと突いた。僕は背中で戸を押し、廊下へと後退る。
「行け」
僕は、拳を握り、再び客間へとおっかなびっくり歩き出した。
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