第玖話 ちりはちりに

ちりはちりに 壱

 先生の姿をした怪異は、ゆっくりゆっくり歩いて行く。そうして僕らを見咎みとがめる事もなかったため、じきに追い抜いてしまった。


「何だ、やる気の無い奴だな」


 関が後ろを振り返り振り返り言う。


しかし、人のいる場で襲撃をしたと言う話は無いし、こちらも騒ぎになるのは面倒だ。行き先がわかれば先回りをするんだが……」

「わかるかも知れない」


 僕は、苦い物を噛み締める様な気持ちで関に伝えた。僕と妙子さんと先生の事。あの怪異が、妙子さんの名前を呟いていた事。


「美貌の未亡人と差し向かいとは、君も随分羨ましい目に遭っていたと見える」

「茶化すなよ。先生……あいつは、だから、彼女の元に向かっているのじゃないかと思う。方向も合っている」

「住所は」

「九段」


 歩いて行けるな。彼は呟き、横目で先生を見た。


「つまり、と言う事はだ。その未亡人、以前に……」

「僕は何も知らない。そう言う事があったのかも知れない。何か勘違いかも知れない」


 僕は、頭が宿ふつか酔いめいて痛む様な気がした。妙子さんが子供を亡くした事があると、そんな話は知らないが、反対に僕にしらせる義理もなかろう。


 ただ、筋は通る。彼女は以前、神田の病院の話をしていた。子供が好きで、よく一緒に遊んでいた。そうして見た目よりずっと心が草臥くたびれて、糸がほどけそうになっていた。解けた中に居たのは、小さな子供の頃の、自分自身。


 胸が締め付けられるようだった。妙子さんにこいつを会わせてはいけない、と思った。外見は夫、中身は子供。僕が育ててしまったこの呪いの様な存在を、彼女にじかに突きつけるなど、あってはならない事だ。


 僕は、早足に歩きながら懐から酒瓶を取り出し、ジンをあおった。少しでも気を大きくしなければやっていられなかった。関はそんな僕を呆れた顔で見ていた。やがて待宵坂まつよいざかに差し掛かり、細い階段を上る。明かりのない足元は、いかにも危なかった。


「この上辺りで始末をすれば良いんじゃないか。街灯がある。人も居ない」


 関が言う。振り返ると、先生はやや遅れて、それでも着実に僕らの後を歩いている。僕はうなずいた。


 だが、坂を上りきり、息を軽く整えると、少し離れたところにある明かりの下には、人影が見えた。


「あら、もしかすると、大久保さん?」


 あの虹の日と同じ様に、人工の灯に照らされ、笑うのは妙子さんだった。紙魚しみが他に居ないか退治を頼まないと、と言っていた。それで外に出ていたのだろうか。


「どうしたの。忘れ物でも……」

「妙子さん!」


 僕は思わず大きな声を出していた。関がギョッとしたように僕の方を見る。


「危ない、そこは危ないです。逃げて!」


 僕は走り出した。酒が僕の脚を少し軽くしてくれた。きょとんとしている彼女の手首をひっ掴むと、山路邸やまじてい目がけて引っ張って行く。


一寸ちょっと、何、どうしたの。何かあったの」

「……例の、暴行魔です。それも、生きた人間じゃない」


 何と説明すれば良いか迷い、僕は息を切らしながらそう言った。先生は妙子さんに気づいたかどうか、速度は変わった様に見えない。


「あなたを狙っている」

「私を? でも、どうして」


 あなたがあれの母親のひとりだからです、とは言えなかった。


「兎に角、家まで行きましょう」


 そうして、僕らが外に出て、あいつと相対すれば良い、とそこまで考えて、僕は急にすくんだ。恐怖が潮の様に胸の中に満ちた。考えるな、走れ、と思った。山路邸は直ぐに姿を現わす。妙子さんは慌てながらも鍵を開け、中へと僕らを通し、戸を閉め切った。


「説明が欲しいわ。どう言う事なの」

「それは……」

「あなたは、神田の三崎みさき医院に通院していた事があった。そうですね」


 関、と僕は青ざめた。だが、流石さすがにこの男もそれ以上は言わず、そこの患者が狙われている様だと言葉を濁し、代わりに手短に自己紹介をした。


「でも、私があそこに通っていたのは、もう五年以上は前よ」

「奴には時間なぞ関係無いんですよ。人じゃないんだ。因縁いんねんだけを追ってやって来る」


 因縁、と彼女はつぶやく。顔色が少し青い。思い当たったのかも知れない。あの医院にまつわる記憶は、それはとても悲しい物に相違なく——。


 廊下を案内されながら僕はもう、何もかもに済まない気持ちで一杯だった。僕が居なければ、彼女にこんな思いをさせずに済んだのだ。項垂うなだれていると、関に背中を叩かれた。


「兎に角、奥さんはここに居て下さい。明るくなるまで戸は開けない様に。俺達は外で奴を仕留めます」


 欧風の家具の置かれた客間で、関は狩人めいてそう言う。僕はもう我慢できずにジンを口に含むと、悲壮な決意を固めた。やるしかないのだ。自分自身の片を、自分自身でつける以外には。


「あの、気をつけてね。本当に……」


 気遣わしげな妙子さんの声が急に途切れ、彼女は目を見開いた。客間の入り口。廊下のぐのところ。そこには黒い影が立っていた。


「雄二郎さん?」


 妙子さんが小さく呟く。


「でも、この間は、消えてしまって」

「奴は違います」


 壁抜けしやがったか、と関が苦々しげに言う。僕は、脚が震えるのを感じる。先生。妙子さんの子供。僕の罪悪感。僕がはぐくんでしまったもの。


 先生はゆっくりと前に進み出ると、どこか歪んだ笑顔を見せ、大人の様な、子供の様な奇妙な声音で妙子さんにこう言った。


只今ただいま。お母さん」

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