第撥話 うごきだすもの

うごきだすもの

「まず前提として、だ。俺と君とは例の神田の夜以来、妙な物に取っ憑かれている」


 関は喫茶の椅子にかけるなりそう切り出した。やけに焦った様子であった。僕は……その話題になると何だか頭の中を雑巾で拭かれた様によくわからなくなる。店の中には、かすれた音のラジオが報道番組を流していた。


「わかるぞ。部屋に帰ればそいつが居るのに、普段は忘れている。無視をしている。そう言う状態だ。俺が少し前そうだった。面倒な相手だ」

「その、何だかわからんが、そう言う怪異が起きているとして、君はどうして気づけたんだ」


 口籠くちごもりながら尋ねると、彼は左手の包帯を見せた。


「家で、こいつはまずいと思った。だから、その辺の小刀で、こう」


 自らの手を刺したか切ったかしたらしい。関らしい思い切りの良さだ。僕はその痛みと流れた血を思って顔を歪めた。退屈そうな顔の給仕が、珈琲を二杯、僕らの前に置いた。


「君にもやれとは言わんが、目は覚ました方が良いぞ。かなり時間が経っているからな」


 矢張やはり、彼は焦っている。何がそれ程に問題なのだろうかと思った。


「ただ妙な物と同居するだけなら良いが……いや何時迄いつまでもは御免だが、兎も角、奴の拙いところは、成長するところだ。何だか人の様になったろう」

「……わからん」


 未だ忘却に晒されている僕を関はにらみ、身を乗り出して僕の額を指で弾いた。


「痛いな!」

「とっとと思い出せよ。何なら君の家に行って確認したって良いんだぞ。どうせ退治する心算つもりなんだ」

「そうは言われても」

「それじゃあ、こいつはどうだ。君は最近、何か深く後悔だか、謝罪の念だか、そう言う物を覚える事があった」


 僕は額を押さえ、動きを止めた。それは、身に覚えがあった。妙子さんと、そして、山路先生。


「心当たりがあるのなら、それが奴の温床おんしょうだ。全く巫山戯ふざけた事をしやがる」


 言いながら、彼はかばんから一枚の紙を取り出す。それは、神田区の街を描いた地図の様であった。ところどころ、乱暴に印がつけられている。


「良いか。ここが、俺と君とが怪異に遭遇した場所……噂になっていた路地だ。ここの表にあるのは」

「病院?」


 地図記号と表記はそうある。『三崎みさき医院』と言う名の病院の様だ。


「この病院がおかしいと思って、昨日今日と調べていた。鼻薬を効かせてな。するとどうも、この中でも何かと妙な人影を見たの、夜中に物音がするの、怪現象が起こっていたとわかった。なあ、この病院、どんな場所だと思う。内科と産科だ」


 病院は、あまり好きな場所ではない。生命と、死にあまりに近すぎるからだ。産科ともなれば、それは、更に。


「……屋上に小さな慰霊碑いれいひがあってな。しばらく前、突然石にひびが入ったらしい。噂が立ち始めた時期と一致する。水子供養みずこくようの碑だ」


 べちゃ、とあの嫌な足音を思い出した。僕は耳をふさぐ。


「俺は、あの怪異、水子の、何だか知らんがうようよと寄り集まった奴だと考えた。本体は病院から路地にしか居れず、出会った奴に一部が剥がれて憑く。憑いた奴はその人間の心を苗床にして育つ」

「育ったら、どうなるんだ」

「人の姿になって、それからが問題だ」


 国際情勢について語っていたラジオは、ここ暫く東京市内を騒がす、婦女暴行事件の話を始めた。今度の怪我人は、矢張り腹を切りつけられて重傷であると言う。関はふう、と息を吐く。


「この事件だ。同僚に聞いたが、妙な事が多いそうでな。目撃された犯人を追うと、そいつは必ず、もう死んだはずの人間なんだそうだよ」

「また金で話を買ったのか?」

「馬鹿言えよ。賽子さいころ振ってせしめたんだ」


 ニヤリと笑うが、直ぐに眉根を寄せる。どうも今日の関は生真面目に過ぎる様に思えた。


「それでな。被害者にも共通点がある。最初の三人が襲われたのは三崎医院での診察の帰り道。その後の奴も、確認したところ医院への通院歴があった」


 僕はふと、珈琲コーヒーに手をつけていなかった事を思い出した。わずかな沈黙に、カップの熱は霧散していく。


「何でもらっていたと思う」

「……嫌な想像しか浮かばない」

「多分当たりだな。全員流産だ」


 僕は気分が悪くなって下を向いた。酒なしでこんな話を聞いていたくはなかった。よく磨かれた机には微かに僕の姿が映り、その影はまたどうにか僕を自死に誘おうと蠢いていた。


「つまり、つまり……。三崎医院に集まった水子の幽霊の様な物が」

「人に取り憑いて育ち、死んだ奴の姿になって、動き出して、そうして……もう一度母親の元に戻ったのじゃないかと思っている」

「何の為に……いや


 僕は顳顬こめかみを押さえた。被害者は、腹を裂かれているのだ。


 産まれたい。そんな声が、聞こえる様な気がした。


「吐き気がしてきた」

「おい、しっかりしろ。これからが大事なんだぞ、大久保」


 関がまた額を弾く。水を注ぎに来た給仕が、変な顔をして去って行った。


「良いか。君も憑かれているんだ。君が育てたその水子の一部も、誰かを襲う可能性がある。その前にどうにかしなきゃならん。そうだろう」


 関は鞄からよくもまあこれ程と思う位の札だの、護符だのを取り出し、選り分ける。


「俺は早くにどうにか出来た。君も急ぐがいい。さっさと正気に戻れ」

「……戻って来た様な気がする」


 かすかに頭の中に、先生の姿を取った霧が思い浮かぶ。僕の罪悪感の塊は、未だ家に居る筈だった。


「……流石さすがに今回は、俺が引き寄せた話だからな。ロハで済ましてやろう」


 何時いつも人を巻き込むこの男は、金を取る事も選択肢に入っていたらしい様な事を言う。僕はふと思い立ち、こんな事を尋ねてみた。


「なあ、関。君のところのその霊だかは、どんな姿をしていたんだ」


 関は嫌な顔をして、その顔だけで僕は、何だか事情が……彼の罪悪感の根が察せられる様な気がした。


 僕の想像が確かなら、多分、きっと、彼は、その相手が猟奇的な事件に手を染めさせられる事など、決して許さないであろうと、そう思ったのだ。だから、彼はこれ程に焦って、余裕を失っている。


 何を訳知り顔をしていやがる、言いながら関は不信心にも、金鍍金きんメッキの施されたごく小さな仏像の様な物を放り投げて寄越した。


「持っておけ。さて、行くぞ。早期解決だ」


 僕は頷き、ぬるまった珈琲を一気に啜ると立ち上がった。店を出、暗い道を我が家へと歩き出そうとする。その瞬間に、僕は、黒い人影とすれ違った。


「どうした、大久保」


 関が問う。彼から見てもきっとそれは、生きた人間に見えたのだろう。成長している、そう思った。成長しきり、自分で動き出したのだと。


 それは、部屋の中でずっと僕を見つめ、只管に自己嫌悪を呼んでいた、あの、山路やまじ先生の姿だった。


「関、拙い。あいつが動き出した」

「何?」


 先生は通りを悠々と過ぎて行く。その後ろ姿を指差すと、追うぞ、と関が走り出す。僕も彼に従った。


 僕は急に、肝が冷えた様に不安になった。すれ違った瞬間、先生は何かを呟いてはいなかったか? 低い声で、一言。


 妙子かあさん、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る