しみのはむえさ 弐

「兎に角殺虫剤……ああ、でも、紙を駄目にしてしまうかも」

しかし、このままでは原稿類を持ち出すのも出来ない」

「手で全部殺すのは無理ですよ。致し方ない」


 妙子さんが戸棚から噴霧器ふんむきを持ってくる。然し、虫は畳のあちこちに散らばり、簡単にひと吹きで全滅という訳にもいかない。おまけに、この部屋は紙だらけだ。部屋から廊下に抜け出してくる個体を仕留める位が精一杯だった。


「一体何でこんなに湧き出たんだ? 先刻さっきまでははとんど……」


 僕は取り敢えずちり紙を手に何匹かを潰そうと試みるが、この虫、妙に素早く、簡単に捕まってはくれない。


「……どうもおかしい」


 菱田ひしだ君は菱田君で、何事かつぶやきつつ、眼帯を外す。


「と言っても虫だろう。君には何か見えるのか」

「虫は虫ですが、例えば発生源などわかればと……ええっ、あれ?」


 彼は頓狂とんきょうな声を上げた。そうして、紙魚しみだらけの畳に果敢かかんに踏み入り、片手で何かを摘まみ上げる。


 表紙の文字は『三日三晩』。先生のあの未発表の作品であった。その原稿にも、わらわらと紙魚がたかっている。菱田君は、見た事も無い程苦渋に満ちた顔をした。


「おふたりにお聞きしますが、これ一作と他の紙類全て、天秤にかけるとしたらどちらを選びますか」

「それは、まあ、未発表の……」

「他の紙よ」


 僕の及び腰の声は、妙子さんの有無を言わさぬ言い様に掻き消された。彼女は、迷いすらしていなかった。


「だって、これ全部、雄二郎さんの軌跡だもの。皆んな大事な物よ。思い出の篭った……」


 作品がおふたりの子供なのではないですかね。菱田君は、いつかそんな事を言っていた。妙子さんには、どれも捨てがたい、貴重な物であるのだろう。そうして、どれもが等しく大切であるのなら、切り捨てるのは、最も小さなひとつ。そこに、他人にとっての価値は介在かいざいしない。


「す、済みません。一寸ちょっと格好をつけようと思いましたが、これ、無理でした! 駄目です、守れません。どうやっても未発表原稿は……!」


 菱田君が突然慌て出す。紙魚が、後から後から彼の足元を這い上ってくる。流石に僕にもわかった。紙魚の目指しているのは、あの原稿だ。


「申し訳、ありません」


 彼はぎゅっと目を閉じ、大股で歩いて障子を開け、小さな庭に向けて放り投げた。


 銀色の奔流ほんりゅうが、床を走った。そこらの紙魚が、突然、旅鼠レミングの群れの如く、ひとつところに向けて動き出したのだ。それは、庭を横切り、地面に落ちた原稿の束目がけ一目散に駆け寄り——吸い込まれる様に消えた。


「何……何だったの」


 妙子さんが、かすれた声を出した。座り込みたいけれど、先程まで紙魚の彷徨うろついていたところに触れたくはない、と言った様子であった。僕はと言うと、虫を追おうと半ば四つんいになって、外をポカンと見詰めていた。


 菱田君は恐る恐る縁側から庭に下り、そうっと原稿をつまむ。そうして、ああ、と生まれたての仔山羊のような、心底悲しそうな声を出した。


「矢っ張りだ。駄目です。無理でした」


 菱田君が持ち帰った原稿には紙魚は少しも見当たらず、代わりにその物が無惨に食い荒らされ、ボロボロに汚れていた。如何に僕が先生の筆跡を読み取る技術を持っていようと、紙自体がこうでは、何の意味もない。


「もう、この、世紀の大発見が……僕の夢が……全集が」

「そんなにしょげないで」


 妙子さんが、菱田君に優しく声をかける。


「もしかすると、雄二郎さんが若書きを読まれるのを恥ずかしく思ったのかも知れない」

「それで紙魚まで呼ぶかな」


 僕は立ち上がり、少し考える。むしろ、おかしかったのはあの原稿の保存状態だ。長年暗所に押し込めていた割には、あまりに綺麗に残っていすぎた様に思う。


「僕は反対に、先生はあれを読んで貰いたかったのではないかと思いますよ。その一念でずっと、不自然に綺麗に残っていた……が、取り出したところで時間が切れた。紙はあるべき姿に戻ってしまった。そんなところではないかな」


 茶色く変色した、ぼろぼろの原稿を涙にくれる菱田君から受け取り、僕はそっと撫でた。


「冒頭だけ、少し覚えているよ。ああ、先生の文だと思った」


 妙子さんが静かにうなずく。僕らふたりの中にだけ、あの作品は微かに残っていくのだと、そう思った。


「良いなあ……僕も一行で良いから読みたかった……です……?」


 その時、菱田君が僕にいぶかしげな顔を向けた。黒と灰色の目が、真っ直ぐに僕を見る。


「大久保先生」


 彼の丸い目が、大きく見開かれた。


「先生は、何を背負ってらっしゃるのですか。それは、霧? 黒い……それから」


 僕は、瞬きをした。妙子さんが首を傾げる。


「それから」



 菱田君がしきりに心配し、おはらいだのを勧めるのを振り払い、僕はひとり帰路についていた。丁度帰宅する人々で混み合う時間で、押され、ぶつかり、つんのめりながら歩く。駅舎を出、暗く染まった道を行く。大通りから角を曲がれば、明かりの少ない坂道だ。


 その、少ない街灯の下に寄りかかる様にして、あまり背の高くない人影が下手な口笛を吹きながら立っていた。


「おお、来た来た。遅いんだよ君は」


 関だ。彼は眼鏡を押し上げるとこちらに近づいて来る。


「菱田の坊やに、勤務時間に私用の電話をかけるなと言っとけよ。まあ、言われないでも来る心算つもりだったが」


 何か違和感があった。良く見るとその左手には軽く包帯が巻かれている。怪我でもしたのだろうかと思った。


「良いか、話をしたい。君の家じゃ駄目だ。そこらの喫茶にするか」

「何の話だい」


 バーに行っては駄目か、等と冗談を言う空気ではない様だった。関はじろりと僕を睨みつける。


「行くぞ。神田の厄落としだ、大久保」

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