第漆話 しみのはむえさ
しみのはむえさ 壱
先生と妙子さんの家で仕事をする時、僕は以前より
秋も深まり、僕が
本当の事は、隠しておかねばならないと思った。僕の想いも、先生への強烈な罪悪感も、妙子さんには関係のない事としておかねばならぬ。迷惑を掛けてはいけない。そう思った。変な傷つき方をするのが嫌だ、重い物を背負うのが
先生の遺した原稿は、
「もう、今日で作業は終わりかしらね」
「あれだけあったのに、
「予定からは遅れずに済みそうですね」
積まれた紙をざっと改め、内容を確認する。古い物になるほど文字は難解で、僕は考古学者にでもなった様な気分であったし、先生の筆を把握する事に関しては誰にも負けぬ自信がついた。ただ、全集の一連の仕事が終われば、その能力は活かす場が殆ど無くなるであろうという事実が、少し悲しかった。
「この後はどう言う流れになるのかしら。必要な物は持っていって、秋風社さんの方で纏めるの?」
「僕も詳しくは聞いていませんね。今日
目を逸らして僕は答える。
「その後のお仕事も、ここで出来たら良いのに。私、
「それにね、近頃物騒でしょう。傷害だのの話が多くて」
「この辺りでしたね」
最近、神田や麹町の辺りでは、何件か婦女の、
「矢っ張りひとりだと中々怖くて」
そう言う彼女の指には、今日も透明の糸がゆらゆらと揺れていた。僕は、
「庭野先輩が、妙子さんには誰か良い人を紹介したいと仰っていましたが」
「ああ」
微かに苦笑が返ってきた。
「そうねえ、それも良いかもしれないとは思うわね……。そろそろまた落ち着くのもね。庭野さんにはお世話になりっ放しだけれど……」
だが、妙子さんはどこか奥歯に物を挟んだ様な、
「冬を越したら、少し考えてみても良いわ。秋から冬って、何だか寒くて人恋しくなるでしょう。それで先走って、失敗したら嫌だものね。暖かくなってから考えるわ」
僕は何も言わずに頷いた。それで良いと思った。どうか僕の知らないところ、この罪悪感が届かないところで、早く勝手に幸せになって欲しいと思った。
「大久保さんは、未だ冬が苦手?」
「駄目です。今年も
そうして、僕はまた作業に没頭する。紙を時折
ふと、僕は手を止めた。
「妙子さん」
僕は無口の誓いを忘れ、夫人を手招いた。いそいそとやって来る彼女に、束を見せる。妙子さんはそこらを走り回る
「知らないお話だわ。自慢じゃないけど、私、雄二郎さんの作品は全部題を覚えていてよ」
「改題した物という可能性は?」
「冒頭は、少なくとも初めて読むわね。……ここ、日付かしら。未だ雄二郎さんが学生の頃だわ」
署名の下を指す。今から三十年と何年か……僕が生まれる少し前の年月日が、そこには記されていた。
「未発表作」
僕は、唾をごくりと飲み込んだ。先生がまだごく若い時代、出版社か別の作家にでも送りつけようとし、そうして、何かの理由で取りやめた。実際はどうかは知らぬが、そう言う筋が浮かぶ様であった。
やった、と僕は呟いていた。妙に保存状態の良い原稿用紙は、竜の巣の財宝の如く輝いて見えた。僕らは顔を見合わす。妙子さんも興奮の面持ちでいた。僕は手に上ってくる紙魚を払い、笑顔を作った。この時は、もう何もかもを忘れていた。高揚感が、罪悪の気持ちを塗り潰していたのだ。
「妙子さんは、こちらを発表されるのは……」
「内容に
僕は妙子さんに紙束を手渡す。妙子さんは表紙に
不意に、戸を叩く音がした。菱田さんかしら、と妙子さんは立って玄関へと行く。
「はあい」
「秋風社の菱田です」
矢張りだ。何となく気が
「今日は。そろそろ終わりそうと伺って、今後のお話に参りました」
眼帯姿の青年が、丁寧に頭を下げる。そうして、僕らを見て少し変な顔になった。
「おふたりとも、どうしました?」
「出た」
「ええっ」
丸い目が余計に丸くなる。前にもこんな事があった様な気がした。
「また先生の幽霊だかが出られた!?」
「違うよ。違う。未発表の原稿だよ」
す、と口がすぼまる。
「凄いではないですか!
「
それじゃあ、『
「早く読ませて下さいよ」
「まあ待ち給え。順序としては、最初は妙子さんだろう」
「それはそうだ。あ、でも次は僕が良いです。編集ですから」
「弟子の僕の方が順位は上じゃないのか。人生の先輩でもあるし」
「ううん、分が悪い」
まるで上機嫌な僕らの足元を、銀色の虫が走って行った。妙子さんが嫌だわ、と顔を顰める。
「さて、ゆっくりと拝見……」
部屋に戻り、襖を開ける。妙子さんが小さく悲鳴を上げた。僕も皮膚にゾッと何かが走るのを感じる。
部屋には、何時の間にか、鈍い銀色の小さな虫が
妙子さんが、無意識にだろう。僕の腕に手をかける。僕はそれに喜ぶ事も、恐れる事も忘れて、虫の群れを見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます