第漆話 しみのはむえさ

しみのはむえさ 壱

 先生と妙子さんの家で仕事をする時、僕は以前よりふさぎ込んで無口になった。あとわずかな残りの紙束を、兎に角仕分けて分類する方に神経を注ぐようにしたのだ。妙子さんは少々それを気にしていた様だが、何も言わずに手伝いをしてくれた。


 秋も深まり、僕が鬱々うつうつとしがちな季節になってきたせいと受け止められたのであろう。昔からこの癖のせいで先生や妙子さんには迷惑をかけたし、同時に笑いの種を提供もしていたものだ。思い返すにつけ、後ろめたさは重く僕の肩にのしかかった。


 本当の事は、隠しておかねばならないと思った。僕の想いも、先生への強烈な罪悪感も、妙子さんには関係のない事としておかねばならぬ。迷惑を掛けてはいけない。そう思った。変な傷つき方をするのが嫌だ、重い物を背負うのが億劫おっくうだと、卑怯な自己弁護の心理が働くのを感じもした。


 先生の遺した原稿は、ほとんどが書き損じや軽い覚書で、時折赤の入った初稿の類が発見され、宝物の様にまとめて積まれていた。期待されていた未発表の原稿は中々無い。このまま、僕らの探索は中発見程度で終わるかと思われていた。



「もう、今日で作業は終わりかしらね」


 たすきを掛けた妙子さんが、腰に手を当てる。


「あれだけあったのに、呆気あっけない事」

「予定からは遅れずに済みそうですね」


 積まれた紙をざっと改め、内容を確認する。古い物になるほど文字は難解で、僕は考古学者にでもなった様な気分であったし、先生の筆を把握する事に関しては誰にも負けぬ自信がついた。ただ、全集の一連の仕事が終われば、その能力は活かす場が殆ど無くなるであろうという事実が、少し悲しかった。


「この後はどう言う流れになるのかしら。必要な物は持っていって、秋風社さんの方で纏めるの?」

「僕も詳しくは聞いていませんね。今日菱田ひしだ君が来たら、その辺りの話をするのじゃないでしょうか」


 目を逸らして僕は答える。


「その後のお仕事も、ここで出来たら良いのに。私、しばらく人を呼んでいなかったから寂しかったのだとわかったの。大久保さんや菱田さんや庭野さんが頻繁にいらっしゃる様になって、ああ、少し前はこんなだったわって思って」


 我儘わがままかしらね、と妙子さんは笑う。寂しい時に寂しいと言える彼女は、とても強い人だと思った。


「それにね、近頃物騒でしょう。傷害だのの話が多くて」

「この辺りでしたね」


 最近、神田や麹町の辺りでは、何件か婦女の、いささかか猟奇的な暴行事件が発生していた。女性の腹を裂こうと狙ってくるのだと言う。犯人は未だ捕まってはいない。


「矢っ張りひとりだと中々怖くて」


 そう言う彼女の指には、今日も透明の糸がゆらゆらと揺れていた。僕は、密偵スパイの役目を放棄してこんな事を言う。


「庭野先輩が、妙子さんには誰か良い人を紹介したいと仰っていましたが」

「ああ」


 微かに苦笑が返ってきた。


「そうねえ、それも良いかもしれないとは思うわね……。そろそろまた落ち着くのもね。庭野さんにはお世話になりっ放しだけれど……」


 だが、妙子さんはどこか奥歯に物を挟んだ様な、躊躇ためらいがちな言い方をする。男の影、と言う言葉が頭を過ぎるが、そんな物はどこにも見当たらない様にも思えた。


「冬を越したら、少し考えてみても良いわ。秋から冬って、何だか寒くて人恋しくなるでしょう。それで先走って、失敗したら嫌だものね。暖かくなってから考えるわ」


 僕は何も言わずに頷いた。それで良いと思った。どうか僕の知らないところ、この罪悪感が届かないところで、早く勝手に幸せになって欲しいと思った。


「大久保さんは、未だ冬が苦手?」

「駄目です。今年もこもりますから、その前に全集の作業を一段落させないと、と」


 そうして、僕はまた作業に没頭する。紙を時折まくる音だけが聞こえる、沈黙の時間が流れた。


 ふと、僕は手を止めた。ひもで閉じられた、然程さほど厚くない、いやに綺麗な原稿用紙の束を見つけた時だった。先生にしては丁寧な筆跡で書かれていたから、清書の様だ。表紙の紙には、『三日三晩』とあった。聞き覚えのない題だ。僕は震える指で何枚かの紙を捲る。知らない話だ。自慢ではないが、この僕は先生の本にまとまった作品には全て目を通している筈だった。


「妙子さん」


 僕は無口の誓いを忘れ、夫人を手招いた。いそいそとやって来る彼女に、束を見せる。妙子さんはそこらを走り回る紙魚しみを紙で潰すと、僕の横に腰を下ろした。猫の様な目が瞬いた。


「知らないお話だわ。自慢じゃないけど、私、雄二郎さんの作品は全部題を覚えていてよ」

「改題した物という可能性は?」

「冒頭は、少なくとも初めて読むわね。……ここ、日付かしら。未だ雄二郎さんが学生の頃だわ」


 署名の下を指す。今から三十年と何年か……僕が生まれる少し前の年月日が、そこには記されていた。


「未発表作」


 僕は、唾をごくりと飲み込んだ。先生がまだごく若い時代、出版社か別の作家にでも送りつけようとし、そうして、何かの理由で取りやめた。実際はどうかは知らぬが、そう言う筋が浮かぶ様であった。


 やった、と僕は呟いていた。妙に保存状態の良い原稿用紙は、竜の巣の財宝の如く輝いて見えた。僕らは顔を見合わす。妙子さんも興奮の面持ちでいた。僕は手に上ってくる紙魚を払い、笑顔を作った。この時は、もう何もかもを忘れていた。高揚感が、罪悪の気持ちを塗り潰していたのだ。


「妙子さんは、こちらを発表されるのは……」

「内容にるから、きちんと読ませて貰いたいけれど、それ自体に問題はないと思うわよ。その心算つもりでお話をお受けしたのだし」


 僕は妙子さんに紙束を手渡す。妙子さんは表紙にうごめく紙魚を払うと、それをうやうやしく受け取った。僕らは顔を見合わせて笑った。僕と妙子さんは、先生が好きで、先生の作が好きで、それで良いのだと思った。それで良い。もう、これ以上は望むべくもない。


 不意に、戸を叩く音がした。菱田さんかしら、と妙子さんは立って玄関へと行く。


「はあい」

「秋風社の菱田です」


 矢張りだ。何となく気がはやって、僕ものそのそと部屋から出る。菱田君もこの偉業にはさぞ驚き喜ぶであろうと思った。


「今日は。そろそろ終わりそうと伺って、今後のお話に参りました」


 眼帯姿の青年が、丁寧に頭を下げる。そうして、僕らを見て少し変な顔になった。


「おふたりとも、どうしました?」

「出た」

「ええっ」


 丸い目が余計に丸くなる。前にもこんな事があった様な気がした。


「また先生の幽霊だかが出られた!?」

「違うよ。違う。未発表の原稿だよ」


 す、と口がすぼまる。


「凄いではないですか! 何処どこです。何時いつ頃の物です」

何時いつもの部屋だよ。多分、学生時代の習作だ」


 それじゃあ、『夜半よわ』よりも前の、と菱田君はとろけそうな顔で処女作の名を挙げる。


「早く読ませて下さいよ」

「まあ待ち給え。順序としては、最初は妙子さんだろう」

「それはそうだ。あ、でも次は僕が良いです。編集ですから」

「弟子の僕の方が順位は上じゃないのか。人生の先輩でもあるし」

「ううん、分が悪い」


 まるで上機嫌な僕らの足元を、銀色の虫が走って行った。妙子さんが嫌だわ、と顔を顰める。


「さて、ゆっくりと拝見……」


 部屋に戻り、襖を開ける。妙子さんが小さく悲鳴を上げた。僕も皮膚にゾッと何かが走るのを感じる。


 部屋には、何時の間にか、鈍い銀色の小さな虫が蔓延はびこっていた。彼方此方あちらこちらでちょろちょろとうごめき、紙を、畳を横断する。


 妙子さんが、無意識にだろう。僕の腕に手をかける。僕はそれに喜ぶ事も、恐れる事も忘れて、虫の群れを見つめていた。

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