あまぐもはれて 弐

 どれ程時間が過ぎたろうか。長い事、僕は酒すら飲んでいなかったし、耐えきれずに少しうつらうつらした以外は寝てもいなかった。ボンヤリと浮かんでいた女の影は、少しずつ形を取り、腰から下も徐々に浮き出て来る。顔だけが何時迄いつまでもぼやけて白かった。僕はその様を、ただ、胡座あぐらをかいて見詰めていた。


 不意に、涙が出て来た。女は何も言わず、微笑んでいる様に見えた。僕は涙をぬぐいながら立ち上がり、その顔に触れた。


 実体があるのか無いのか、あやふやな手触りであった。まだ出来上がる途中だったからかも知れぬし、元々がそう言う物なのかも知れぬ。僕にはわからなかった。ただひとつ、これが僕の心から生まれた物なのだと言う事は、頭の何処どこかで理解していた。


 神田の怪異だ。あの時の骨に肉がつき、皮膚が張った、それがきっとこの姿なのだろう。僕は、待っていた。待たされていたのかも知れぬ。


 腕を広げて婦人を抱き締めた。手応えはほとんど無かった。思わず笑ってしまう。これでは、自分で自分を抱いている様な物だ。


 僕のこの数年間の恋は、ずっとこうだった。居ない人を求めて、己を抱き締めて、苦しくて、切なくて、懐かしかった。


「有難う、また来てくれて」


 僕はつぶやく。誰も何も答えない。その瞬間、怪異は、失敗したのだと思う。それは、僕を完全に支配し損ねた。


「……左様なら」


 なけなしの理性をふるって、僕は大きく腕を振った。霧が払われ、薄くなる。足の無い女の姿も、空気に紛れる様にして溶ける。僕は更に手を振り、滅茶苦茶に辺りをかき混ぜた。形と色が混ざり、やがて透明になり、何も無くなった。外には雨の音が響いている。僕の部屋には、僕以外の誰も居なくなった。霧は晴れた。


 僕は安堵と、孤独との間で息を吐く。落ち着いて良く状況を整理した。あの神田の怪異は、人の心を読んで化ける物なのだろう、と推察された。僕の恋心を見抜き、あれは……いや


 僕はとても悲しくなった。読まれたのは、恋慕の情では無いと気づいたからだ。


 かの婦人を生んだ僕の感情、怪異の姿の苗床は、きっと罪悪感だった。彼女に済まなく思う気持ちが、後から後から湧いて来て、止まらない。


 僕は雨戸を開けた。いつの間にか夜は更け、そうしてもう一度明けていた様だ。淡い光が、冴えた目にまぶしかった。雨はいまだ降り続いていたが、ごく細く優しかった。


 彼女に、済まないと思った。そうして、僕は、ひとつ、先に進みたいとそう思ったのだ。


 あなたを、忘れます、と呟いた。そしてきっと、また、雨が降るたび思い出します。僕は生きていて、そうして行きたいところがある。


 僕は鞄を掴み、玄関先で傘を手に取ると、そのまま家を飛び出した。



 待宵坂まつよいざかを上ると、何時いつの間にか雲は晴れていた。白い光が差し込み、徹夜明けの心を照らす。僕は傘を畳み、深呼吸をした。


 足音が聞こえる。男物の黒い蝙蝠こうもりを差した、しまの着物の女性が、こちらへ向けてゆっくりと歩いて来た。僕は、心臓が一瞬跳ねるのを感じる。あのひとが着ていたのも縞の着物だったと、またあの雨の日に引き戻される様な気持ちがしたのだ。


「あら」


 傘が上がる。その下の顔があらわになる。


「お早う。どうしたの、大久保さん。今日は整理の日では無いわよね?」


 肩までの髪、猫の様な瞳。重そうな黒い蝙蝠は、先生の物だったのかも知れぬ。妙子さんは、晴れ間に気づいた様子で傘を畳んだ。


「いえ、偶々たまたまこちらに用があって」


 僕は、白々しくそんな事を言う。本当は、用など何もなかった。ただ、来たかっただけだ。


「そうなの。私は駅の方にお買い物」

「駅までご一緒しても、構いませんか」

「ええ。でも、ご用事は……」


 もう済ませました、と出鱈目でたらめを言い、歩き出す。それから、ぽつぽつと話しながらまた階段に差し掛かる。坂の上は空が広く、良く見渡せた。


「あ」


 どちらからともなく、声を発する。僕らは同時に空を見上げ、同時にそれを見つけた。


「虹だ」

「虹ね」


 少し心許こころもとない淡さの橋が、薄く晴れた空に、微かに浮かび上がっていた。


「虹の色は、七色とは限らない様ですね」

「そうなの? ああ、でも確かに、七つも見分けるのは大変だわ。五色位かしら、見えるのは」

「僕もそれ位だ」


 赤、橙、黄色、と妙子さんが数える。


「綺麗。見つけて良かったわ。上を向いて歩くものね」

「僕は、ここに来て」


 雨雲が風に流され、東に去って行くのが見えた。左様なら。また、思い出します。そう思った。


「誰かと一緒に見られて、良かった」


 妙子さんがくすりと笑った。


「大久保さん、やっと普通に喋ってくれた」

「普通?」

何時いつも堅かったから。それ位がよろしいわよ」

「そうですか……いや、そうかな……」


 まあ、無理する事はないけれど。妙子さんは変に上機嫌だったので、僕も釣られて笑う。


 虹はしばらく消えずに残っていた。僕は、ようやく陽光の下で息が出来る様な気がして、そうして、自分自身に認めた。


 僕は、どうやら、妙子さんの事がことほか好きであるらしいと、そう認めたのだ。



 自宅に戻っても、まだ時間は真昼で、太陽が南から空を照らしていた。僕はそろそろ眠たくなり、欠伸あくび混じりに酒瓶だらけの部屋へと戻る。


 部屋は、再び黒い霧に覆われていた。


 霧は見る間に集まり、こごり、影を成し、人の形を取る。赤い皮剥けの顔が、今度は直ぐに誰かの姿に変わっていった。


 僕は、目を見開いてそれを見ていた。怪異がひたひたと心に忍び寄って来るのを感じた。その苗床は、罪悪感。


 やがて生まれたのは、白髪混じりの壮年男性の顔だった。僕は息を呑む。


「先生」


 山路雄幸やまじゆうこう先生の姿をした怪異は、くらい表情でゆっくりと、僕に向けてうつろな笑みを浮かべた。


 一度浮き立ったはずの僕の心は、再び悔悟かいごに塗り潰された。重いなまりを背負う様な気分で、僕はまた、怪異に心を明け渡した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る