あまぐもはれて 弐
どれ程時間が過ぎたろうか。長い事、僕は酒すら飲んでいなかったし、耐えきれずに少しうつらうつらした以外は寝てもいなかった。ボンヤリと浮かんでいた女の影は、少しずつ形を取り、腰から下も徐々に浮き出て来る。顔だけが
不意に、涙が出て来た。女は何も言わず、微笑んでいる様に見えた。僕は涙を
実体があるのか無いのか、あやふやな手触りであった。まだ出来上がる途中だったからかも知れぬし、元々がそう言う物なのかも知れぬ。僕にはわからなかった。ただひとつ、これが僕の心から生まれた物なのだと言う事は、頭の
神田の怪異だ。あの時の骨に肉がつき、皮膚が張った、それがきっとこの姿なのだろう。僕は、待っていた。待たされていたのかも知れぬ。
腕を広げて婦人を抱き締めた。手応えは
僕のこの数年間の恋は、ずっとこうだった。居ない人を求めて、己を抱き締めて、苦しくて、切なくて、懐かしかった。
「有難う、また来てくれて」
僕は
「……左様なら」
なけなしの理性を
僕は安堵と、孤独との間で息を吐く。落ち着いて良く状況を整理した。あの神田の怪異は、人の心を読んで化ける物なのだろう、と推察された。僕の恋心を見抜き、あれは……
僕はとても悲しくなった。読まれたのは、恋慕の情では無いと気づいたからだ。
かの婦人を生んだ僕の感情、怪異の姿の苗床は、きっと罪悪感だった。彼女に済まなく思う気持ちが、後から後から湧いて来て、止まらない。
僕は雨戸を開けた。いつの間にか夜は更け、そうしてもう一度明けていた様だ。淡い光が、冴えた目に
彼女に、済まないと思った。そうして、僕は、ひとつ、先に進みたいとそう思ったのだ。
あなたを、忘れます、と呟いた。そしてきっと、また、雨が降る
僕は鞄を掴み、玄関先で傘を手に取ると、そのまま家を飛び出した。
足音が聞こえる。男物の黒い
「あら」
傘が上がる。その下の顔が
「お早う。どうしたの、大久保さん。今日は整理の日では無いわよね?」
肩までの髪、猫の様な瞳。重そうな黒い蝙蝠は、先生の物だったのかも知れぬ。妙子さんは、晴れ間に気づいた様子で傘を畳んだ。
「いえ、
僕は、白々しくそんな事を言う。本当は、用など何もなかった。ただ、来たかっただけだ。
「そうなの。私は駅の方にお買い物」
「駅までご一緒しても、構いませんか」
「ええ。でも、ご用事は……」
もう済ませました、と
「あ」
どちらからともなく、声を発する。僕らは同時に空を見上げ、同時にそれを見つけた。
「虹だ」
「虹ね」
少し
「虹の色は、七色とは限らない様ですね」
「そうなの? ああ、でも確かに、七つも見分けるのは大変だわ。五色位かしら、見えるのは」
「僕もそれ位だ」
赤、橙、黄色、と妙子さんが数える。
「綺麗。見つけて良かったわ。上を向いて歩くものね」
「僕は、ここに来て」
雨雲が風に流され、東に去って行くのが見えた。左様なら。また、思い出します。そう思った。
「誰かと一緒に見られて、良かった」
妙子さんがくすりと笑った。
「大久保さん、やっと普通に喋ってくれた」
「普通?」
「
「そうですか……いや、そうかな……」
まあ、無理する事はないけれど。妙子さんは変に上機嫌だったので、僕も釣られて笑う。
虹は
僕は、どうやら、妙子さんの事が
自宅に戻っても、まだ時間は真昼で、太陽が南から空を照らしていた。僕はそろそろ眠たくなり、
部屋は、再び黒い霧に覆われていた。
霧は見る間に集まり、
僕は、目を見開いてそれを見ていた。怪異がひたひたと心に忍び寄って来るのを感じた。その苗床は、罪悪感。
やがて生まれたのは、白髪混じりの壮年男性の顔だった。僕は息を呑む。
「先生」
一度浮き立った
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます