第陸話 あまぐもはれて
あまぐもはれて 壱
雨音を聞きながら僕は、部屋の隅に現れた人影と見つめ合い、
その人には腰から下が無く、ぼやけてゆらゆらと揺れていた。
そしてその人には、顔が無かった。僕が、知らなかったからだ。
その日は朝からしとしとと雨降りで、僕は憂鬱になりながら
「中々止まない事」
妙子さんが雨戸を少し開け、外を見ると首を振る。
「雨は、嫌いではないけど、紙には良くないわよね」
「扱いが面倒です」
僕は同意をした。水気で駄目にしてしまっては元も子もない。
「雨と言えば、そうだ。私、大久保さんのあの話が好きよ」
手が止まる。
「雨のご婦人のお話。とてもロマンチックだったわ。素敵ね」
その話は、どうも僕のものした小説の中でも、特に御婦人方に評判が良い物語だった。筋は簡単だ。雨の日に限って訪れる婦人がいて、主人公と恋に落ちる。
「大久保先生は、どうも実話を元にあの手のお話を書いていると言うけれど、それは本当なの」
「まあ、八二ですね」
良く聞かれるその手の質問には、最近はそう答える事にしていた。大抵は実話が二で修飾が八であると、ごく現実的な出来事から想像の翼を広げ、怪異を創り上げているのだと勝手に納得してくれる。だが、実際は逆であるし、妙子さんはそう一筋縄ではいかなかった。
「つまり、本当に幽霊は出たの?」
ジッと見詰められる。僕は困って目線を落とした。他の話ならば良いが、あれは少々恥ずかしい……僕のごく短い、然し鮮烈な恋の記憶であったからだ。
「御免なさいね。あまりそう言うの、知らない方が良いわよね」
妙子さんは笑って話題を変えてくれた。僕は内心ホッとしながら、少しばかり僕の執筆の内実を話した。
「そう言えば、妙子さんは近頃は何も作られていないのですか」
僕はふと思い出す。彼女は元々山路先生の歌の弟子で、中々に情熱的な
「そうね、色々考えたけれど、もう良いかなと思って。私、皆さんが
成る程、そう言う立場もあるのだな、と思う。
「雄二郎さんはどうもそこが良くわからなかったみたいで、何度もせっつかれたわ。色々勉強させて貰って、それは本当に良かったと思っているけれどね」
僕は軽い気持ちで、先生は本当に妙子さんがお気に入りでしたからね、と答えた。妙子さんは、そうして、少しだけ苦い顔をした。
「だからね……。私、サロンが私の
僕は、それに対して何も言えなかった。先生と妙子さんの結婚に関し……否、その少し前から、彼女の扱いを気に入らず、先生の集まりから抜ける人間は何人か居た。かく言う当時の僕も、自分の仕事を言い訳にして、以前より足繁くは先生の元に通わなくなっていた。皆の間に何となく、気まずく、ぎこちない空気が流れていた、それが何とも嫌だったのだ。
それでも、時間が少しずつ新しい空気を運んだ。集まりは
だから、妙子さんが責任を感じる事はないのですよ。そう言おうとして、僕の頭と舌は縺れる。
「大丈夫です」
結局、発する事が出来たのは、そんな幼稚な言葉だけだった。
「大丈夫ですから」
「そう?」
妙子さんは、どこまで僕の意を
雨は強まりはしないものの、落ち着きもせずに夕刻まで降り続いた。山路邸を辞した僕は、水溜りを避けてふらふらと、酔ってもいないのに千鳥足めいて歩いた。
僕とて雨は、嫌いではない。雨の日の憂鬱はどこか甘美な、アカシアの蜜の様な味がした。それは、僕にとっては遠い恋の味だった。人と分け合う性質の物ではない、ひとりで抱え込み、こっそりと味わう味だった。
妙子さんが好きと言ったあの雨の婦人の話は、
巡り合わせでもある。僕が少々悲観的で、頑なになっていた事もある。僕の恋は空回りのまま、歳月ばかりが過ぎて行った。
駅前の、何時もよりも混んだ人の流れに、僕は目を走らせながら歩く。傘を差した婦人方は誰も顔が良く見えず、そうして誰もがあの
僕は寄り道をせず、暗くなりかけた道を家へと帰り着く。飲み終えた酒瓶が放ってある廊下を行き、飲みさしの酒瓶が放ってある自室に入る。
出た時のまま、半分開いた
あの、雨の日に出会って別れた婦人が、そこにふわふわと所在無く浮いていた。僕はそれに驚く事も、受け入れる事も出来ず、どこか
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