第伍話 わきあがるもの
わきあがるもの
羽多野家の新参猫、チヨはすくすくと育っている。あれ程頼りなかった様が、少しずつピンとして、段々と猫らしくなっていくと言うのは不思議なものだ。僕は姪と並んで、ころころとひとり遊びをする猫を見ていた。
「その内
「いかんな。僕より役に立つ様になってしまう。おい、チヨ。働くのは程々にしておけよ……痛っ」
「叔父さんはそう言う事を自分で言うところが、役に立つ立たないよりも良くないと思う」
「そうかね……痛っ」
「もっと自信を持った方が良いのよ」
「肝に命じ痛っ痛っ、痛いよ!」
僕は堪らず手を引っ込める。容赦のない爪の攻撃により、僕の手は薄い生傷だらけになっていた。
「何で隙を見ては僕を引っ掻くんだ、この子は」
「こら、チヨ。駄目だって言ってるでしょ」
姪は指先で軽く猫の頭をつつく。姪の手も先までは
「叔父さんも準家族みたいな物なんだから」
「良いよ。どうせ僕が大久保だからいけないんだ」
「そうやっていじけるのも良くないと思う」
猫は知らぬ顔で姪に撫でられるままだ。箱の守護はそろそろ要らなくなるが、まだ部屋からは出さない様に気をつけないといけないのだとか。
「ね、猫の話は書かないの」
姪がどこか期待した目で見る。
「今書くと、発狂した猫が襲って来る話になりそうだ」
「もっと可愛いのが良い」
「じゃあ、猫には桃色のリボンでもつけるよ。舶来の、白くて目の青いやつだ。発狂してるが」
「そう言う意味じゃなくて」
僕とて、猫は好きだ。だが、猫の方で僕が好きでないのならば、これはお手上げと言う他ない。僕は、孤独を噛み締めた。突然走り出したチヨが、すれ違い様に僕の手にまた爪を立てて行った。
と、言う話をすると、あんまりふたりが笑うので、僕はやや複雑な気分になった。
「そんなにおかしいですか」
「だって、大久保さんの喋り様が面白いから」
僕はただ、爪の被害に
「大久保先生もお気の毒です。
「してるよ。これが変に染みるんだ。あの家は
また笑われた。
「良いなあ、また猫が飼いたくなってきたわ」
「今の話で良くそう思えますね」
「傍若無人なところが良いのよ」
妙子さんがご満悦なので、僕も少しだけ憤りを取り下げる事とした。
「僕は犬派ですね。大きい
猫派の姪は、残念がるだろうかと思った。妙子さんは犬も良いわねえとにこにことしている。先日の子供といい、自分より小さくてやたらと動く物が好きなのかもしれない。それとも、ひとりの暮らしが寂しいのだろうか、と機嫌の良さそうな顔を横目で見た。
「なあに?」
「いや、その、僕は、犬は、駄目です。吠えるので」
またふたりが弾ける様に笑う。道化になる気は無いのだがなあ、と思いながら、山路先生の乱暴な殴り書きに目を落とした。
その日の夕刻。チヨが突然、毛を逆立てて怒った様な声を上げたので驚いた。姉と姪は台所で夕飯を作っており、僕はその手伝いとてひとり
鏡には、僕が映っていた。鏡像の僕は、両手で己の首を絞め、苦しそうに
またか、と思った。思ったが、何度見ても気分の良い物ではない。僕は、以前通り物と呼ばれる怪異に遭遇し、それ以来こうして時々、姿が映る物の中に己の死の幻を見る。時間の経った今では、
「お前にも見えるのかい」
チヨに話しかけると、猫は僕を丸い目で見、鏡を見、声を出さずに大きく口を開けた。
「大丈夫。大した物ではないよ」
そこらにあった手拭いを掛けてやる。我が家の鏡は皆、常日頃はこうして隠されている。死にゆく僕は、姿を消した。
チヨは逆立てていた毛を少し落ち着けると、不思議そうな顔で僕を見た。もしかすると、この猫が僕を攻撃したのは、あの怪異の
「なあ、僕はお前と仲良くするのに
頼むよ、と言うと、チヨはふんふんと指の匂いを
「どうも。これから、
チヨは今度は、がぶりと僕の指の肉を噛んだのだった。
「その後、猫さんとはどうして?」
妙子さんが散らばった紙を片付けながら微笑む。僕は未だ傷ついた手を見せた。難航中です、と伝わった様だ。
「何がいけないのかしらねえ。大久保さんは良い方なのに」
少し、ちくりと胸が痛む。僕は、先輩に
「私が猫だったら、
妙子さんが猫だったら、そう、茶色の多い三毛猫だと思う。赤い紐に、金の鳴らない鈴をつけると似合うだろう。
言葉通り、妙子さんは僕に最初から良くしてくれた。と言うよりは、大抵の相手には明るく人当たりの良い人だ。僕にだけではない。
僕にだけではないのだと、僕は自分を戒めた。視界の端にふと、黒い霧が湧いて見えた様な気がした。
僕はそれから少し酒を入れ、自室に帰る。目の端をチラチラしていた霧は、部屋の中でさらに濃くなり、湧き上がる様になっていた。
僕は、ボンヤリとしてそれを見る……猫が頻りに僕を攻撃していたのは、本当はこの怪異の為であったのだと、とっくに気づいていた。だが、普段は押し込めている。忘れている。これが僕にそうさせているからだ。そうして、僕の思いを募らせ、それを苗床にして徐々に育ち……。
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