とりのはばたき 弐

 良く来てくれた、と迎えた庭野先輩は、明らかに何処かおかしい様子であった。げっそり憔悴しょうすいして、目が泳いでいる。


「何があったのですか……ああ、友人を連れて来ました。僕よりは妙な事件に詳しい奴です」


 僕は隣に立つ関を紹介した。関はどちらかと言えば好奇心の強い表情で、どうも、と軽く会釈をした。例の奥方が心配そうな顔で茶を出してくれる。僕らは取り急ぎ、客間の椅子に腰掛けた。強い西陽がカーテンの合間から差し込んでくる。


「この間、鳥の話をしただろう」


 鳥、と言われて最初は思い出せなかった。しばらく考え、ようやくあの喫茶の音楽の話に思い至る。


「何だか、音を気にしていましたね」

「ああ。あの時、羽の……失、失礼」


 先輩は突然、耳をがばと両手で押さえた。見開いた目がグラグラと、何処を見ているのか揺れ惑い、歯をガタガタと鳴らしながら、小さく唸り声を上げる。


 何時いつでも、恋に狂っていた時でも隙なく身だしなみを整えていた先輩の姿とは思えず、僕は戦慄せんりつした。暫くそうしていた先輩は、ややあってどうにか落ち着いた様に、病んだ笑みを浮かべた。


「悪いな、時々、こうなる。耳の中を鳥の羽の音がわっと飛び回って、訳がわからなくなるんだ。つい先週頃からだ」


 弱々しげな声であった。


「最初は時々気になる程だったが、少し前辺りから酷い事になってきて、たまらなくなったので、少しでも詳しそうな君を呼んだ」

「それは、どちらかと言えば医者の領分では?」


 僕は先輩の神経を心配した。僕とて万年の気鬱きうつ持ちであるから、そちらの方も紹介は出来る。なあ、と僕は関を見る。そして驚愕した。奴は話の最中に余所見よそみをして、何も無い白い壁をジッと見つめていたのだ。肘を打ってこちらを向かせる。久し振りに、何と言う奴だと思った。


「それが、ひとつ心当たりがあって……これも先週か。奇妙な事があったんだ」


 庭野先輩は、時折我慢が出来ぬ様に頭を掻きむしりながらも、ぽつぽつと語ってくれた。



 それは、土曜のしんとした夜、先輩がひとりで川端の道を歩いていた時の事だと言う。道は暗く、間隔を開けて街灯の明かりがあった。先輩は周囲に気をつけながらも早足で歩いていった。


 不意に、鳥の羽ばたきが聞こえたと言う。夜には珍しい事だと、少し辺りを見回したが、姿は見えない。気にせずにそのまま先輩は、街灯の下に差し掛かった。脇の白い壁に、先輩の長く伸びた影が映った。


 一瞬の事だった。そこに、小鳥の影がスッと現れた。影は羽ばたきの音を立て、壁を横切り、先輩の大きな影に呑み込まれ……そうして、消えた。


 不思議に思い、また辺りを見渡す。鳥の姿も、そうして、それまで聞こえていた羽の音も無くなった。先輩は、その時はそれ程気にせず、夜なお騒がしい大通りに出ると、そのまま自宅へと帰ったと言う。


 それからだ。庭野先輩の耳元で、時折また羽ばたき音がばたばたと聞こえる様になったのは。それは、先に言われた通り、少し前からより酷くなり、先輩を苦しめる様になったと言う。



 僕はその話を聞くなり、関をもう一度肘で突いた。この男ときたら、折角の手掛かりになりそうな話の最中にまたぞろ余所見をしていたからである。


「何だよ、痛いぞ大久保」

「君が悪いんじゃないか、もっと親身になってくれよ!」


 僕は人間としてそれ程出来た方ではないが、それでも世話になった先輩の話を聞く位の情は持ち合わせている心算つもりだ。それをこの。


 人非人にんぴにん、と思いかけ、僕は急に心の拳を下ろした。その言い方は、かなり前に止す事にしている。奴の事だ。きっと何か事情があったに違いないとそう思ったのだ。


「何か、わかりそうな事があったのか」


 期待を込めて聞く。だが、関は知らぬ顔でこんな事を言う。


「否、ここの伸びた影の形が一寸面白かった物で、何となく」

「関!」


 僕はもう一度食ってかかる。先輩はまたうめき声を上げ出すし、もう滅茶苦茶であった。


「まあまあ、待て待て。面白かったんだよ。ここに映った影絵がな。丁度今——帰って来たところだった」

「何?」

「鳥だよ。また行くだろうから、見てろ」


 僕は半信半疑で、家具の無い白い壁を見つめた。そこには、僕らと、椅子と卓と、そして向かい合わせの先輩の黒い影が映っている。そうして先輩の苦痛の声が高まると、そこから飛び出した小さな影があった。


 鳥だ。鳥の影は軽やかに羽を広げ、壁を飛び去り、窓のところで消えた。


「庭野さん、今、羽ばたきはどうなっていますかね」


 ああ、と苦しそうな声が返るが、先程よりは余程無事の様子であった。


「今は止んでいる。……あの鳥が去った所為か? 然し、一羽二羽ではない音だが……」

「多分だが、その通りなのでしょうな。見たところ、あなたは恐らく、あの影の小鳥に巣を作られ、卵をかえされたのじゃないかと、そう睨んでいます」


 関が言う。僕は唖然あぜんとした。


「どう言う事が起こっているんだ、それは」

「知るかよ。俺にわかるのは、そう言う怪異があると言う事だけだ。詳しい事は物好きな学者さんにでも調べて貰えば良い。俺は実際家なんだ」


 僕は首をひねる。怪異はそこかしこに、どこにでもある、と言うのは関の持論で、僕もまあ経験上賛成するところではあるが、それにしても不思議な事と言うのは起こる物だ。


「それで、どうやらその影の鳥、成長が早い。ひなが大きくなって来るに従い、何を食っているかは知らんが、餌を持って来る親鳥に対して羽ばたく音が、矢鱈やたらと大きく聞こえ出した、と言う事なのではないですかね」

「それで、どうやったらそいつらを追い払える」


 先輩が、必死にすがる様な顔で関の方に身を乗り出し、関は避ける様に後ろに下がる。


「それですがね……まあ、思いついた事はありますが、一寸ちょっと、その、一筆欲しい」

「一筆」


 僕は少々嫌な予感がした。


「念書ですよ。何をされても文句は言わぬ、関信二殿のやりように従います、ついでに記事に協力します、とね。ああ、勿論、命に関わる様な事や、不法に金銭を収得したりはしませんとも。俺も面倒は嫌なので」

「何でも、何でもするさ。この状況を改善してくれるのなら……」


 庭野先輩は、傍にあった紙とペンでサラサラとその通りに記し、署名を行なった。これは、相当に追い詰められているな、と思う。夜眠れていないのかも知れぬ。あのしっかり者の先輩が、と少々悲しい気持ちにもなった。


よろしい。では、俺式の害鳥駆除を行いますよ。先ず立って頂きたい」


 先輩はその通りにする。関と先輩、ふたつの影がゆらりと伸びた。僕はもう、何だか先が見えた様な気分で趨勢すうせいを見守るしかなかった。


「そのまま、ぐ立っていて下さい。動かずに、そう……」


 関は息を吸い込み、姿勢を少し低くし。


 そうして、先輩の鳩尾みぞおちを綺麗な動きでしたたかに、えぐり込むように殴りつけた。


 僕はああ、と顔を覆いたくなった。先輩は、影ごと身体をくの字にして崩折くずおれる。そうして猛烈に咳き込み始めた。


 突然壁に、小鳥の影が六つ、現れた。ふたつは優雅に、残りの少し小さな影は懸命にばたばたと羽ばたき、暫く宙を舞う。やがて彼らは、窓の方へ飛び去ると、ふっと姿を消した。


「これで良し」

「良しじゃない!」


 僕は先輩に駆け寄る。小鳥が抜けると咳は治まった様だが、顔色を青くしてゼイゼイと喉を鳴らしていた。


「大丈夫ですか」

「ああ、平、平気だ。いや、痛い、苦しいが、鳥は……」

「居なくなりました」

「音も無くなった」


 ふう、と先輩は大きく息を吐く。そうして安堵した様にどうにか口の端を吊り上げた。


「念書の件は宜しくお願いしますよ」

「関!」


 立役者が不敵に腕を組んでいると、物音を聞きつけたか扉が開く。先輩の奥方と、それから四人のお子さんが心配そうに顔を覗かせた。


「お父さん」

「何、妙な物をはらって貰ったところだ」


 先輩は覚束おぼつかない足取りで、それでも立ち上がり笑みを見せた。


 父親は強い物だ、と思った。



「まあ、ああ言った怪異には怪異の生があるのだろうよ。放っておけばつがって、子を産み育てる、尋常の生き物と変わらん。ああして人に迷惑を掛ければ、遠慮無しに追い払うがな」


 帰り道、関はそんな風に話をする。陽はとうに落ちて、僕らの影は闇に飲み込まれる。僕は小鳥の一家と、それから先輩の一家を頭の中で並べ、比べた。きっとどちらも同じなのだろう。だが、僕は人なので、親しい知人の安寧あんねいを取る。当然の事だ。


「むしろ、今回は巣立ちを早めに手伝ってやったんだ。鳥公にも感謝されて良いんじゃないのか」

「それはどうだろう」


 放っておけば、つがって……。僕は、先輩の、妙子さんへの憂慮を思い出す。何だかここ暫くの僕は、彼女の事ばかり考えている様であった。



 自宅に戻ると、黒い霧はさらに濃さを増していた。やがて浮かび出た顔には薄っすらと皮が張り、誰かの顔になりつつあった。

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