第肆話 とりのはばたき

とりのはばたき 壱

 当然だが、山路やまじ先生の全集に関して僕は何も責任のある地位には居ない。編集前段階の雑用役だ。菱田ひしだ君ですら、内容に口出しする権限はなく一先ひとまずの調整役の様な物である。とは言え、状況を見に時折、更に決定権のある人間が訪れる事がある。それは例えば僕の兄弟子に当たり、今回の全集の話を主導している庭野久三にわのきゅうぞう先輩などだ。僕らは山路邸近くの喫茶で向かい合い、話をしていた。


「少々難航している様だな、大久保君」


 僕より七つ年上で、神経質に髪を撫でつけた痩身の、背広が似合う人である。弟子の中では、自身の創作よりも先生の秘書的な仕事を熱心に行なっていた。何かといい加減な人間の多いこの界隈では、時間と行動に関して信頼と人望の篤い人でもある。僕は彼とは偶々たまたま高校が同窓の為、庭野先輩と呼び習わしている。


「そう言われても、本当に酷いのですよ、先生の殴り書きは」

「それは私もようく知っている。ただ、なるべく早く形にしたいという気持ちはわかって欲しいんだよ」


 くすんだ色合いの店内には、少し音の割れたジャズが流れる。


「今回の話は集大成だ。出来る限り漏れがあってはならない。君の仕事は実に重要な物なのだよ」


 かと思えば、先の言葉とは矛盾した様な事も言う。早くして欲しいのか、確かに作業をして欲しいのか何方どちらだ、とは思ったが、僕は面倒に感じたので先輩を立て、何も言わぬ事としブランデーを入れた珈琲コーヒーすすった。


しかし、何をそれ程急いでいるのですか。こう言う言い方は何ですが、先生はもう亡くなってらっしゃるのだから……」

「それが、だ」


 庭野先輩は声を落とし、そうして、突然何かまるで関係の無い話を始めた。


「君には、常々妙子夫人と一緒に作業をして貰っているだろう。それで、何かと気づく事も多いのではないかと思っている」

「はあ」


 急に出て来た名前だ。確かに、僕は妙子さんと過ごす時間が長い方ではあるが、それと全集の出版速度との間に何の関係が、と思った。


「例えば……その、そうだな。言ってしまえば、男の影、と言った物を感じた事はないか」

「男?」


 僕は頓狂とんきょう鸚鵡返おうむがえしに答える。全く何の話か読めない。


いや、これは大事な事なのだよ。別に今更不貞がどうだの言う心算は無い。夫人はああ言う、若くて綺麗な人だ。先生亡き後、誰かとそう言う関係になったとておかしくはない……困る事ではあるが」


 先輩は珈琲のカップをかちりと音を立てて置いた。


「大久保君。今、先生の作品にまつわる権利をまとめて持っているのは、あの妙子夫人だ」


 それは僕も知っている。そして庭野先輩がしっかりした法律家を立てたお陰で、妙子さんは今のところごく上手くやっている。出版関連で多少問題が起こっても、早期に解決を出来ていたはずだ。


「これまでは良いよ。彼女ははじめ心配したよりも聡明な人だ。信頼出来る相手を見抜く目があり、その相手に何処どこまで頼れば良いかを良くわかっている様に思う。だが、もし彼女に再婚の話が出て来て、その相手までもに確かな分別を求められるかと言うと、これは怪しくなって来る」


 僕はようやく、先輩の危惧が飲み込めて来た様に思った。つまり彼はこう言っているのだ。状況によっては下手な相手に影響され、先生の文化的遺産が悪用される、或いは無為むいな物になってしまう可能性がある、と。


「妙子さんは大丈夫だと、先程……」

「恋をすれば、変わる」


 先輩は断言した。長く独身を通していた先輩が、人が変わった様な大恋愛の末、二回離縁して三人の子供が居る年上の女性と結婚し、今はどうやら幸せで居ると言う事を思い出した。その辺りの関係か、彼は先生と妙子さんの結婚に関しても常に同情的だった。


「だから、私としては信頼出来る人間を紹介して、早くまた所帯を持って欲しいのだよ。近頃は何かと物騒でもあるしね。だがどうも夫人、のらりくらりとかわす物で」


 それで、男の影を疑った、と言う訳か。僕は得心がいった。同時に、何か薄いいきどおりも感じた。妙子さん個人がまるで著作のおまけの様ではないか。


「次善の策としては、権利関係がおかしな事になる前に全集を出版出来れば、と言う事なんだ。まあ、どう見積もっても年単位の話ではあるから難しいかも知れんな……」

「妙子さん、見たところでは特別な関係のある相手が居る様では無さそうでしたが」


 僕は変に彼女に同情心を覚え、そう言った。何も間違いではない。妙子さんと過ごしていて感じた事だ。彼女は先生との思い出を大事にしていたし、かつそれに呑まれ過ぎる事もなく、生き生きと毎日を暮らしている様に思えた。


「それなら良いが、まあ、引き続き観察を頼むよ。何かあれば報せてくれ」


 頼んだ、と言われる。僕はどうも密偵スパイに任命された様であった。妙子さんの手のほぐれた糸の事を思う。もしかするとこう言った事情が、彼女に負担をかけているのであろうか。


 先輩はそこで、少し怪訝な顔をして蓄音機の方を見、この店の音楽は妙だな、と言った。


「鳥の音がする」

「鳥?」


 僕は賑やかなジャズに耳を傾ける。取り立てて好きな曲では無いが、鳥の声やらが聞こえる様ではない。


「気の所為せいではないですか」

「そうかね」


 そこで会話は一度途切れた。後は、事務的な内容と、知り合いの近況の話をして終わった。


 僕は先輩の話を道々思い返しながら、妙子さんとめあわせられる事になるその男性はきっと、大変な事だな、僕は重い財産なぞ背負いたくもない、と考え、家へと帰り着いた。着いてから、何だか疲れたので酒を浴びる程飲んだ。霧はまた部屋の隅に黒々とわだかまっていた。



『ソウダンアリ シキユウ コラレタシ カイキナル ゲンシヨウ ニワノ』


 相談あり。至急来られたし。怪奇なる現象。庭野。そう告げる電報が僕の自宅に届いたのは、それから一週間後の事であった。

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