第肆話 とりのはばたき
とりのはばたき 壱
当然だが、
「少々難航している様だな、大久保君」
僕より七つ年上で、神経質に髪を撫でつけた痩身の、背広が似合う人である。弟子の中では、自身の創作よりも先生の秘書的な仕事を熱心に行なっていた。何かといい加減な人間の多いこの界隈では、時間と行動に関して信頼と人望の篤い人でもある。僕は彼とは
「そう言われても、本当に酷いのですよ、先生の殴り書きは」
「それは私もようく知っている。ただ、なるべく早く形にしたいという気持ちはわかって欲しいんだよ」
「今回の話は集大成だ。出来る限り漏れがあってはならない。君の仕事は実に重要な物なのだよ」
かと思えば、先の言葉とは矛盾した様な事も言う。早くして欲しいのか、確かに作業をして欲しいのか
「
「それが、だ」
庭野先輩は声を落とし、そうして、突然何かまるで関係の無い話を始めた。
「君には、常々妙子夫人と一緒に作業をして貰っているだろう。それで、何かと気づく事も多いのではないかと思っている」
「はあ」
急に出て来た名前だ。確かに、僕は妙子さんと過ごす時間が長い方ではあるが、それと全集の出版速度との間に何の関係が、と思った。
「例えば……その、そうだな。言ってしまえば、男の影、と言った物を感じた事はないか」
「男?」
僕は
「
先輩は珈琲のカップをかちりと音を立てて置いた。
「大久保君。今、先生の作品にまつわる権利を
それは僕も知っている。そして庭野先輩が
「これ
僕は
「妙子さんは大丈夫だと、先程……」
「恋をすれば、変わる」
先輩は断言した。長く独身を通していた先輩が、人が変わった様な大恋愛の末、二回離縁して三人の子供が居る年上の女性と結婚し、今はどうやら幸せで居ると言う事を思い出した。その辺りの関係か、彼は先生と妙子さんの結婚に関しても常に同情的だった。
「だから、私としては信頼出来る人間を紹介して、早くまた所帯を持って欲しいのだよ。近頃は何かと物騒でもあるしね。だがどうも夫人、のらりくらりと
それで、男の影を疑った、と言う訳か。僕は得心がいった。同時に、何か薄い
「次善の策としては、権利関係がおかしな事になる前に全集を出版出来れば、と言う事なんだ。まあ、どう見積もっても年単位の話ではあるから難しいかも知れんな……」
「妙子さん、見たところでは特別な関係のある相手が居る様では無さそうでしたが」
僕は変に彼女に同情心を覚え、そう言った。何も間違いではない。妙子さんと過ごしていて感じた事だ。彼女は先生との思い出を大事にしていたし、かつそれに呑まれ過ぎる事もなく、生き生きと毎日を暮らしている様に思えた。
「それなら良いが、まあ、引き続き観察を頼むよ。何かあれば報せてくれ」
頼んだ、と言われる。僕はどうも
先輩はそこで、少し怪訝な顔をして蓄音機の方を見、この店の音楽は妙だな、と言った。
「鳥の音がする」
「鳥?」
僕は賑やかなジャズに耳を傾ける。取り立てて好きな曲では無いが、鳥の声やらが聞こえる様ではない。
「気の
「そうかね」
そこで会話は一度途切れた。後は、事務的な内容と、知り合いの近況の話をして終わった。
僕は先輩の話を道々思い返しながら、妙子さんと
『ソウダンアリ シキユウ コラレタシ カイキナル ゲンシヨウ ニワノ』
相談あり。至急来られたし。怪奇なる現象。庭野。そう告げる電報が僕の自宅に届いたのは、それから一週間後の事であった。
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