いとをたどらば 参
僕らは再び歩き出すと、妙子さんの右手の糸を
「しずちゃん、見いつけた」
小さな妙子さんが指を差すと、山吹色の花を咲かせた木はガサガサと動いて、後ろから小さな女の子が覗いた。先日の姉妹の、妹の方だ。
「見つかっちゃった。じゃあ、今度は私が鬼ね……」
「こらこらこら」
僕はそれを止める。これでは
「もう遊びは終わりだよ。糸を放しなさい」
女の子は僕を見てギョッとした表情を見せ、そうして自分の握った右手に目を落とす。そこには、あの糸の端があった。
「どうしてこんな事をしたんだい。お陰で妙子さんは眠りっ放しだ」
しゅんと肩を落とした『しずちゃん』は、舌足らずな声で言う。
「だって、お姉ちゃん、お友達が出来て、ひとりで遊びに行っちゃったの。妙子ちゃんを誘いに行ったら、今日もお客様だって言うし、寂しくって」
「糸は?」
「その時ね、見つけたの。妙子ちゃんのお手手のところに……引っ張ってみたけど何も無くて、妙子ちゃんも気づかなくて、それで、うんと伸ばしていたら」
この、小さな妙子さんが出てきて、遊びに付き合ってくれたのだと言う。もしや無邪気に引っ張られて魂が抜けてしまったのではないかと、今更ながらにゾッとした。
「しずちゃんとかくれんぼするの、楽しかったよ」
妙子さんは笑った。
「また呼んでね」
「……今度は大人の妙子さんにしなさい」
こくりと頷く。僕は怒ったり叱ったりが苦手であるから、言い含めはして置きそこで済ませる事にした。関であれば、拳骨のひとつでも食らわせていたかも知れぬが、まああれは蛮人の類だ。参考にはならない。
少々抱いていた危惧は幸い外れ、妙子さんは無事にまつ毛を震わせ、目を開いた。連れてきた小さな妙子さんが、糸が
「えっ、えっ、私、嫌だ。寝てしまっていた?」
僕は胸を撫で下ろした。どうやら何事も無さそうだ。同時に、
「お疲れだったかと思って、そのままにして置きました」
そう言う事にした。僕ももう疲れたし、糸の説明など面倒である。知らないでいるのならそれが一番だ。
「とんだところを……御免なさいね。嫌だわ……本当に……」
両手を顔に当てて恥ずかしがっているのが何だか可笑しく、微笑ましかった。妙子さんはそうして、照れた口調で言う。
「少し、夢を見たわ。大久保さんが出てきていた様に思うの。普段の三倍位大きかったわね」
それは、あなたが小さかったのですよ、と言いたかったが、噛み殺す。
「よく覚えていないけど、楽しかった」
それも多分、僕の力ではなく、子供に返って遊んでいた事による物ではないか、と感ずる。だが、あの少し辛そうだった、小さい妙子さんの楽しい思い出に、僕が少しでも色を添えられたのなら、何よりだ。子供は苦手だが、
妙子さんは髪を軽く整え、今日はもう終わりかしら、と言った。その声音と表情に、僕はあの子の面影を見る。ああ、あの子は今もここに居る、そう思った、その矢先。妙子さんの指先に、細く、短い糸の端が未だ
「餓鬼の頃? 前に言ったろうに。虐められっ子から大将に下剋上だ。善政を敷いてやったとも」
バー『アトラス』。関は水の入ったグラスを卓に置く。平日とは言え、良く一杯目で止められるものだと思う。
「それで、何だ。君の事だ、何だか話があって、それで持って回った言い方をしているんだろう。俺にはお見通しだ」
眼鏡を押し上げ、千里眼の演者の様な事を言う。見通された僕は、本題を述べた。
「指から糸が
「指?」
おい、君は話し下手にも程があるぞ。餓鬼と指だの糸だのと何の関係がある、と詰られる。僕は関連性を説明しようとし、頭の中で糸玉が絡まって口籠もった。
「先のは忘れてくれ。兎も角、そう言う人が居たんだ。こう、指の端から糸が垂れている」
「糸、糸ねえ。玉の緒、魂の緒、なぞと言う言葉もあるが」
「魂……あり得る。命に関わるのか?」
「知らんよ。言って置くが、見たってわからんからな。俺は怪しい事の専門家ではないぞ」
わかっている。僕は、時に関にこう言った問題に関して頼り過ぎているのだ。
「ただ、まあ、魂の糸とすると、何だか心が
「草臥れて、か」
まあ、考えられる事ではあった。如何にも辛そうな子供時代。周囲との反目。夫の死……。
「
関が目つきを悪くしてこちらを睨む。妙子さんが猫なら、さながら神社の狛犬の様だ、と思った。
「前から言っているだろう。妙な事にあまり同情して深入りするなよ、と」
君はどうも影響されやすいんだからな、気鬱持ちの癖に。我が頼り甲斐のある軽薄な友人殿はそう続ける。だが、僕は酔いに揺れる視界の中、妙子さんの事を考えていた。魂の糸にぐるぐる巻きにされて仕舞われた、小さな子供の妙子さんの事を。
その夜遅く、僕がふらふらと自宅に帰ると、部屋の隅に、黒い霧の様な物が凝っているのが見えた。僕は目を細め、電気を消す。部屋は闇に包まれた。
見ない事にすれば、無いのと同じだ、何故か僕はそう思ったのだ。そう、霧の中にチラリと見えた、あの神田の夜に遭遇した、赤い、皮の無い顔の事など。
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