いとをたどらば 参

 僕らは再び歩き出すと、妙子さんの右手の糸を辿たどった。今度はそれ程長くはなかった。妙子さんひとりでも、その内に辿り着けたかも知れない。


 待宵坂まつよいざかの上、階段から少し離れたところにある金木犀きんもくせいの植え込みの陰から、糸はぴんと伸びていた。


「しずちゃん、見いつけた」


 小さな妙子さんが指を差すと、山吹色の花を咲かせた木はガサガサと動いて、後ろから小さな女の子が覗いた。先日の姉妹の、妹の方だ。


「見つかっちゃった。じゃあ、今度は私が鬼ね……」

「こらこらこら」


 僕はそれを止める。これでは何時迄いつまでもきりがない。


「もう遊びは終わりだよ。糸を放しなさい」


 女の子は僕を見てギョッとした表情を見せ、そうして自分の握った右手に目を落とす。そこには、あの糸の端があった。


「どうしてこんな事をしたんだい。お陰で妙子さんは眠りっ放しだ」


 しゅんと肩を落とした『しずちゃん』は、舌足らずな声で言う。


「だって、お姉ちゃん、お友達が出来て、ひとりで遊びに行っちゃったの。妙子ちゃんを誘いに行ったら、今日もお客様だって言うし、寂しくって」

「糸は?」

「その時ね、見つけたの。妙子ちゃんのお手手のところに……引っ張ってみたけど何も無くて、妙子ちゃんも気づかなくて、それで、うんと伸ばしていたら」


 この、小さな妙子さんが出てきて、遊びに付き合ってくれたのだと言う。もしや無邪気に引っ張られて魂が抜けてしまったのではないかと、今更ながらにゾッとした。


「しずちゃんとかくれんぼするの、楽しかったよ」


 妙子さんは笑った。


「また呼んでね」

「……今度は大人の妙子さんにしなさい」


 こくりと頷く。僕は怒ったり叱ったりが苦手であるから、言い含めはして置きそこで済ませる事にした。関であれば、拳骨のひとつでも食らわせていたかも知れぬが、まああれは蛮人の類だ。参考にはならない。



 少々抱いていた危惧は幸い外れ、妙子さんは無事にまつ毛を震わせ、目を開いた。連れてきた小さな妙子さんが、糸がほどける様に消えてしまってぐの事だ。僕の顔を見ると、ハッとして辺りを見回す。陽は少し傾き、西の空が薄く橙に溶けつつあった。


「えっ、えっ、私、嫌だ。寝てしまっていた?」


 僕は胸を撫で下ろした。どうやら何事も無さそうだ。同時に、今迄いままでの事を覚えているようでもなかった。


「お疲れだったかと思って、そのままにして置きました」


 そう言う事にした。僕ももう疲れたし、糸の説明など面倒である。知らないでいるのならそれが一番だ。


「とんだところを……御免なさいね。嫌だわ……本当に……」


 両手を顔に当てて恥ずかしがっているのが何だか可笑しく、微笑ましかった。妙子さんはそうして、照れた口調で言う。


「少し、夢を見たわ。大久保さんが出てきていた様に思うの。普段の三倍位大きかったわね」


 それは、あなたが小さかったのですよ、と言いたかったが、噛み殺す。


「よく覚えていないけど、楽しかった」


 それも多分、僕の力ではなく、子供に返って遊んでいた事による物ではないか、と感ずる。だが、あの少し辛そうだった、小さい妙子さんの楽しい思い出に、僕が少しでも色を添えられたのなら、何よりだ。子供は苦手だが、たまには肩入れしてみるのも良い。


 妙子さんは髪を軽く整え、今日はもう終わりかしら、と言った。その声音と表情に、僕はあの子の面影を見る。ああ、あの子は今もここに居る、そう思った、その矢先。妙子さんの指先に、細く、短い糸の端が未だほつれて見えているのが目に入った。



「餓鬼の頃? 前に言ったろうに。虐められっ子から大将に下剋上だ。善政を敷いてやったとも」


 バー『アトラス』。関は水の入ったグラスを卓に置く。平日とは言え、良く一杯目で止められるものだと思う。


「それで、何だ。君の事だ、何だか話があって、それで持って回った言い方をしているんだろう。俺にはお見通しだ」


 眼鏡を押し上げ、千里眼の演者の様な事を言う。見通された僕は、本題を述べた。


「指から糸がほどける様になっている人と言うのは、どう言う事になっているのだろう」

「指?」


 おい、君は話し下手にも程があるぞ。餓鬼と指だの糸だのと何の関係がある、と詰られる。僕は関連性を説明しようとし、頭の中で糸玉が絡まって口籠もった。


「先のは忘れてくれ。兎も角、そう言う人が居たんだ。こう、指の端から糸が垂れている」

「糸、糸ねえ。玉の緒、魂の緒、なぞと言う言葉もあるが」

「魂……あり得る。命に関わるのか?」

「知らんよ。言って置くが、見たってわからんからな。俺は怪しい事の専門家ではないぞ」


 わかっている。僕は、時に関にこう言った問題に関して頼り過ぎているのだ。


「ただ、まあ、魂の糸とすると、何だか心が草臥くたびれているのじゃないのか、と想像は出来るな。想像だぞ、参考にするなよ」

「草臥れて、か」


 まあ、考えられる事ではあった。如何にも辛そうな子供時代。周囲との反目。夫の死……。


いたわってやって悪い事は無いだろうが、おい、大久保」


 関が目つきを悪くしてこちらを睨む。妙子さんが猫なら、さながら神社の狛犬の様だ、と思った。


「前から言っているだろう。妙な事にあまり同情して深入りするなよ、と」


 君はどうも影響されやすいんだからな、気鬱持ちの癖に。我が頼り甲斐のある軽薄な友人殿はそう続ける。だが、僕は酔いに揺れる視界の中、妙子さんの事を考えていた。魂の糸にぐるぐる巻きにされて仕舞われた、小さな子供の妙子さんの事を。



 その夜遅く、僕がふらふらと自宅に帰ると、部屋の隅に、黒い霧の様な物が凝っているのが見えた。僕は目を細め、電気を消す。部屋は闇に包まれた。


 見ない事にすれば、無いのと同じだ、何故か僕はそう思ったのだ。そう、霧の中にチラリと見えた、あの神田の夜に遭遇した、赤い、皮の無い顔の事など。

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