いとをたどらば 弐

 僕は外に出、走って、走って、妙子さんの糸の先を追いかけた。糸は陽にきらきら輝いて、時には消え、時にはもつれながら、どうにか僕に場所を教える。迷い迷い進んで行くとその内に、透明な糸は僕の腰の辺りの位置に伸びて行った。


 昼の市街は、人気があまり無い。少し離れたところに学校か空き地かがあるのだろう、そちらから子供達の声が聞こえる。糸は、その声とは反対方向に伸びていた。そうして、やがて、湿った土の道の端をとことこと歩く、小さな女の子を僕は見つけた。


 僕は目を見張った。糸は、その子供の左手の指先から伸びている。妙子さんと同じだ。そして、良く良く見れば反対の手からは、同じ様に透き通る糸が先に伸びていた。


「君は」


 僕は、声を掛けあぐね、半端な呼び掛けを行った。女の子は僕の方を不思議そうな顔で見上げる。少し、頰のあたりが汚れていた。


「その手の糸は、どうしたんだい」

「糸?」


 彼女は己の手をジッと眺める。そうして首を傾げた。


「糸なんて無いわよ。変な小父おじさん」


 僕は、胸に短剣をえぐり込まれる様な心地で、その声を聞いた。小父さん呼ばわりの所為せいでは無い。あどけない声、おかっぱの頭、猫の様な黒い目、そして本人には見えていないらしい、繋がった糸。


「君、名前は」


 恐る恐る尋ねる。


「妙子よ」


 ああ、と目が眩む思いがした。僕は子供の頃の彼女を知らぬ。だが、目の前の女の子は確かに、本人の言う通り、妙子さんだとそう感じたのだ。


「ええと」


 僕はあまり回転の良くない頭の中、状況を整理しながら言葉を選んだ。お陰で妙な猫撫で声になった。


「君は今、何をしているのかな」

「かくれんぼ。私が鬼の番なの」


 先日のやり取りを思い出す。確か、あの時も彼女は見つかって、鬼になっていた。


「でも、しずちゃんが見つからないの」

「家に……お家に帰るのはどうだろう」

「嫌」


 口をへの字に歪める。どう言う事だろうと思った。


「お父さんに怒鳴られるもの。怖いのよ。絶対嫌」


 その時僕は、彼女の着物の襟元、袖口が随分と擦り切れて、草臥くたびれている事に気づく。長さも短くつんつるてんだ。言葉にも、普段気づかない、少し北の方の訛りを感じた。


 妙子さんは確か、身ひとつで遠い親戚を頼り、上京して女給になった人だ。それで、先生との式は内々で済ませ、元の親族ともほとんど付き合いはないと聞いた。僕の中で、微かに透明の糸が繋がりかけた気がした。


「お父さんは、そんなに怖いのかい」

「……時々、ぶつの。とても痛いわ」


 彼女は過去、故郷と家族から逃げ出して、今ここ、帝都東京に居るのではないか。そうして、この小さな妙子さんには子供の頃の記憶しかなく、結果、状況認識に齟齬そごが生じているのではないか、とそう感じたのである。


「誰も怒りはしないよ。僕は心配をしているんだ……。あのね。君は……あなたは考え違いをしている。お父上は家には居ないし、あなたはもう子供ではないし、結婚もされて、立派に暮らしている女性なんですよ」


 訳がわからない、と言う顔をされた。僕だって訳がわからない。誰かどうにかしてくれ、と思った。


「多分、君が帰れば妙子さんは元に戻るか、少なくとも良くなると思うんだ。どうか心変わりしてくれませんか」


 どう言う口調で話して良い物かもわからず、僕は子供向きと丁寧語とをごた混ぜにして頼んだ。小さな妙子さんはまだ難しい顔で居る。そして、ぽつりと呟いた。


「私が大人なら、どんな人になってるの」


 僕は瞬きをした。遠くで鳩の鳴く、間抜けな声がした。


「きっと、あんまり幸せにはなってないのじゃないかと思うの」


 そんな事は無い、と言おうとした。あなたは年は離れているけれども、尊敬できる、立派な先生と結婚して……。そこで、僕は言葉を飲み込んだ。そうして、十年も経たぬ間に、先生とは死に別れてしまうのだと、見た目だけとは言えこんな幼子に、どうして言えようか。


「矢っ張りそうなの?」


 妙子さんは、ジッと真面目な顔をしていた。自分の先を諦めた様な、色の無い表情で、僕は、子供にこんな顔をさせてはいけない、と思った。子供だけではない。誰にだって、こんな顔をさせてはいけない。そんな事が出来るはずは無いのだけれども。


「君は、多分、沢山辛い思いをすると思うよ」


 僕は道の端にしゃがみ込み、彼女の小さな肩に手を置くと、ゆっくりと語りかけた。僕は、妙子さんの半生に詳しい訳ではない。だが、僕の同輩のひとりが廊下ですれ違い様に妙子さんに投げつけた、酷い言葉の事は良く覚えている。それを止めなかった、弱い自分の事も、少し目を伏せて黙った妙子さんの姿も。


「それでも、それ程辛い思いをしても良いと思える位、大事な人にも会えるんだ」


 僕は先生が、妙子さんの写真を紙入れに入れて持ち歩いていた事を知っている。妙子さんが、客間にいまだ先生の写真を飾っている事もだ。


「何より、僕があなたに戻って欲しいと思っているんですよ、妙子さん」


 小さな妙子さんは、こくりと頷いた。何か、彼女の中で踏ん切りがついたのだろうか、と思う。


「戻っても、良いわ」


 そう言った瞬間、右手から伸びる糸が、ぴんと張った。どこかから引っ張られたのであろうか。妙子さんは再び混乱した顔になる。


「でも、しずちゃんを見つけなくちゃいけない」


 その子が、今回の事象の原因なのであろうか。僕は糸の先を睨む。


「見つけるのは、多分、簡単なのじゃないかな。お兄さんが手伝ってあげよう」

「小父さんが?」

「お兄さんが」


 僕は小さな妙子さんの手を取って歩き出した。糸は角を曲がり、坂の方にまでずっと伸びていた。

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