第参話 いとをたどらば
いとをたどらば 壱
坂の入り口には赤い郵便ポストがあり、静かに手紙を待っているのだが……その更に陰に、人が居た。しゃがんで、頭を隠して、何やら縮こまっている様だが、どう見ても淡い藤色の着物がはみ出している。女性である。もしや、と思いチラリと
妙子さんは顔を上げると、しいっ、と人差し指を立て、それから僕を手招いた。僕は不可思議に思いながらも近寄る。
「今日は……どうされました」
「丁度良かった。絶体絶命なのよ。大久保さん、そこに立っていて下さらないかしら」
「そこ?」
絶体絶命とは、何をそんなに追い詰められているのかと思った。
「ポストの横、私の前よ。追われているの」
妙子さんの目が悪戯っぽくきらめいた。追われているとあらば致し方無い。僕は彼女を隠す様に腕を組んで立ちはだかった。身体が大きいと、こう言う時には多少は役に立つ。
「追っ手は何名です」
「ふたり。かなりの手練れよ」
ヒソヒソと話をする。やがて小さなパタパタと言う足音が聞こえて来る。僕は無表情を装い、妙子さんは口を噤んだ。現れたのは、八歳と六歳程だろうか、良く似た女の子供がふたり。姉妹なのだろう。キョロキョロと辺りを見回し、僕に気づくと少し緊張した顔でぺこりと頭を下げる。そうして、姉だろう方があっ、と声を上げた。
「妙子ちゃん、見っけ!」
僕の後ろの妙子さんは、ええー、と脱力した声で言った。
「おかしいなあ、見つかっちゃった」
「だって、
はいはい、御免なさいね。彼女は立ち上がる。
「今度は妙子ちゃんが鬼よ」
「それがね、お客さんがいらしたから、また今度ね」
ええー、と今度は小さい方が不満げに言う。姉が遮った。
「妙子ちゃんは大人の人なんだから、忙しいのよ」
「そう言う事。また次に遊びましょうねえ」
はあい、またね。子供達は手を振り、またぱたぱたと走り去って行った。
「人は石垣作戦、失敗ね。場所が悪かったわ」
僕は半分笑いそうになり、半分笑っては悪い様な気持ちになりながら、信玄公が如く物々しく
「幾ら何でもこの陰には無理でしょう」
「逃げる方向を間違えたのよ。この辺、良い場所が無くって」
そうして、妙子ちゃん……妙子さんは少し恥ずかしそうに相好を崩した。
「……いらっしゃい、大久保さん」
僕が彼女の子供好きを知ったのは、この時だった。
「随分可愛らしい追っ手でしたね」
「この辺の子よ。時々ああして遊んでいるの。引っ越して
僕らは並んで、山路邸までの道を歩いた。妙子さんは少し憂い顔になって言う。
「私も昔、ひとり遊びばかりしていた口だから、何だか気になってしまって」
「菱田君も子供が好きだったな」
「そうなの? 大久保さんは」
「僕は苦手です」
この世に僕の苦手な物は数多いが、子供は昔から……僕が幼い頃から
山路邸の玄関口に差し掛かったところで、丁度雨がぽつぽつと降って来た。僕はほんの少し目を細め、少し物思いをして水玉模様の地面を眺める。あの子供達も、走って家に帰った事だろう。ややあって菱田君が時間通りに訪れ、僕らはひとつ目の
「へえ、妙子夫人、そんな事をされてたのですか」
この仕事の時は飲まない様にしているのだから、帰りに一杯やる位構わないだろう、と粘ったところ、菱田君はどうにか了承してくれた。お陰で僕は、煤けた居酒屋で有難く水割りを腹に流し込んでいる。
「君
「まあ、
彼は、良い父親になるだろうな、と考え、少し姪の事を思った。それから、少々下世話な事を口にする。
「先生方にはお子さんが無いから、それで子供が恋しくなると言う事もあるのかね」
先生は流石に妙子さんとが初婚ではない。だが、それ
「まあ、そう言う事もあるのかも知れませんが」
菱田君は酒に少し顔を赤くして、こんなロマンチックな事を言ってのけた。
「作品がおふたりの子供なのではないですかね。ほら、『
「『
「そうそう」
先生の代表歌のひとつを口ずさむ。僕も昔、歌を志さない事もなかったが、どうも得意とは言えず、あまり形にした事はない。
「それはそれで、お幸せそうな御夫婦だった様に見受けられます」
「まあ、君は当時のごたごたを知らないからね」
「知りたい様で、知りたくないなあ」
作家の印象なんて、本を通して勝手に思っている位が丁度良い、と言うと、それでも僕はこの仕事ですから、そうも行きません。先生の飲酒癖だって出来れば知りたくなかったですが、止めずにはいられない、等と答える。まあ、そうであろうかと思った。
それでも、あのかくれんぼをする妙子さんからは、ずっと抱いていた作家・
平たく言えば、僕はその時妙子さんその人に親しみを感じたのだ。
それから次の週に、僕はまた山路邸を訪れていた。先は長い。行李はまだある上、整理整頓を終えた後は選別と解読作業と清書が残っているのだ。
「それを考えると、気が遠くなりますね」
「本当にねえ。沢山残した事」
妙子さんが、行李のひとつに愛おしげに触れる。僕は先日の菱田君との会話を思い出し、それから気を取り直してまた中身を取り出す作業に戻る。
「大久保さんには、お手間を、かけ……」
その時だ。急に、妙子さんの口調が覚束なく揺らいだ。僕は
酒を入れていない肝が冷えた。人前で突然眠る様な人ではない。何より、それまでそんな兆候は無かった。これは、何処か悪くでもしているのではないかと顔を覗き込み、失礼して脈を取る。おかしな様子はない。ただ、手に触れられても何も動かず、反応は無い。
医者を、と思った、その時だった。蜘蛛の糸よりは太いだろうか。薄くきらきらと虹色に光る、透明な糸の様な物が、小指の先からスッと伸びている事に気づく。それは、どこまでも長く伸び、細く開いた障子の隙間から外へと向かって続いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます