第参話 いとをたどらば

いとをたどらば 壱

 山路やまじ邸に向かうまでは、駅からしばらく歩き、待宵坂まつよいざかという坂の細い階段を登る必要がある。ぼくはその日、約束の時間より大分早めに電車を降り、少し散歩でもしようか、それとも天気が崩れぬうちに先に到着すべきだろうか、などと考えながらぶらぶらと、坂の入り口へと差し掛かった。


 坂の入り口には赤い郵便ポストがあり、静かに手紙を待っているのだが……その更に陰に、人が居た。しゃがんで、頭を隠して、何やら縮こまっている様だが、どう見ても淡い藤色の着物がはみ出している。女性である。もしや、と思いチラリとのぞいてみた。目が合った。


 妙子たえこさんだった。


 妙子さんは顔を上げると、しいっ、と人差し指を立て、それから僕を手招いた。僕は不可思議に思いながらも近寄る。


「今日は……どうされました」

「丁度良かった。絶体絶命なのよ。大久保さん、そこに立っていて下さらないかしら」

「そこ?」


 絶体絶命とは、何をそんなに追い詰められているのかと思った。


「ポストの横、私の前よ。追われているの」


 妙子さんの目が悪戯っぽくきらめいた。追われているとあらば致し方無い。僕は彼女を隠す様に腕を組んで立ちはだかった。身体が大きいと、こう言う時には多少は役に立つ。


「追っ手は何名です」

「ふたり。かなりの手練れよ」


 ヒソヒソと話をする。やがて小さなパタパタと言う足音が聞こえて来る。僕は無表情を装い、妙子さんは口を噤んだ。現れたのは、八歳と六歳程だろうか、良く似た女の子供がふたり。姉妹なのだろう。キョロキョロと辺りを見回し、僕に気づくと少し緊張した顔でぺこりと頭を下げる。そうして、姉だろう方があっ、と声を上げた。


「妙子ちゃん、見っけ!」


 僕の後ろの妙子さんは、ええー、と脱力した声で言った。


「おかしいなあ、見つかっちゃった」

「だって、たもとが見えてるんだもの。駄目よ、ずるよ、人の後ろに隠れるのは」


 はいはい、御免なさいね。彼女は立ち上がる。


「今度は妙子ちゃんが鬼よ」

「それがね、お客さんがいらしたから、また今度ね」


 ええー、と今度は小さい方が不満げに言う。姉が遮った。


「妙子ちゃんは大人の人なんだから、忙しいのよ」

「そう言う事。また次に遊びましょうねえ」


 はあい、またね。子供達は手を振り、またぱたぱたと走り去って行った。


「人は石垣作戦、失敗ね。場所が悪かったわ」


 僕は半分笑いそうになり、半分笑っては悪い様な気持ちになりながら、信玄公が如く物々しくうなずく彼女を見、細い郵便ポストを見た。


「幾ら何でもこの陰には無理でしょう」

「逃げる方向を間違えたのよ。この辺、良い場所が無くって」


 そうして、妙子ちゃん……妙子さんは少し恥ずかしそうに相好を崩した。


「……いらっしゃい、大久保さん」


 僕が彼女の子供好きを知ったのは、この時だった。



「随分可愛らしい追っ手でしたね」

「この辺の子よ。時々ああして遊んでいるの。引っ越してぐで、お友達が居ないみたい……あまり大人が構い過ぎても良くはないのでしょうけど」


 僕らは並んで、山路邸までの道を歩いた。妙子さんは少し憂い顔になって言う。


「私も昔、ひとり遊びばかりしていた口だから、何だか気になってしまって」

「菱田君も子供が好きだったな」

「そうなの? 大久保さんは」

「僕は苦手です」


 この世に僕の苦手な物は数多いが、子供は昔から……僕が幼い頃からことに不得手な物のひとつである。理由を述べてはキリが無いが、兎角とかく迫害されがちな人生であった、とだけ言っておこう。同じくひとり遊びの徒である僕と妙子さん、何が根の明暗を分けたのかはわからない。


 山路邸の玄関口に差し掛かったところで、丁度雨がぽつぽつと降って来た。僕はほんの少し目を細め、少し物思いをして水玉模様の地面を眺める。あの子供達も、走って家に帰った事だろう。ややあって菱田君が時間通りに訪れ、僕らはひとつ目の行李こうりの中身の整理を終えた。



「へえ、妙子夫人、そんな事をされてたのですか」


 この仕事の時は飲まない様にしているのだから、帰りに一杯やる位構わないだろう、と粘ったところ、菱田君はどうにか了承してくれた。お陰で僕は、煤けた居酒屋で有難く水割りを腹に流し込んでいる。


「君なども一緒に遊びたいんじゃないのか」

「まあ、たまに童心に返るのは良い事ですよ。野球なんかの方が好きですが」


 彼は、良い父親になるだろうな、と考え、少し姪の事を思った。それから、少々下世話な事を口にする。


「先生方にはお子さんが無いから、それで子供が恋しくなると言う事もあるのかね」


 先生は流石に妙子さんとが初婚ではない。だが、それまでに確かふたり、奥方を早くに亡くしており、お子さんはひとりも居ない。


「まあ、そう言う事もあるのかも知れませんが」


 菱田君は酒に少し顔を赤くして、こんなロマンチックな事を言ってのけた。


「作品がおふたりの子供なのではないですかね。ほら、『白粉花おしろいばな』の連作なんてあれは夫人の歌ではないかと思っていますが」

「『硝子戸ガラスどの』と言う奴か」

「そうそう」


 先生の代表歌のひとつを口ずさむ。僕も昔、歌を志さない事もなかったが、どうも得意とは言えず、あまり形にした事はない。


「それはそれで、お幸せそうな御夫婦だった様に見受けられます」

「まあ、君は当時のごたごたを知らないからね」

「知りたい様で、知りたくないなあ」


 作家の印象なんて、本を通して勝手に思っている位が丁度良い、と言うと、それでも僕はこの仕事ですから、そうも行きません。先生の飲酒癖だって出来れば知りたくなかったですが、止めずにはいられない、等と答える。まあ、そうであろうかと思った。


 それでも、あのかくれんぼをする妙子さんからは、ずっと抱いていた作家・山路雄幸やまじゆうこうの妻と言うだけの印象ではない、山路妙子さん本人の顔が見えた様な気がした。


 平たく言えば、僕はその時妙子さんその人に親しみを感じたのだ。



 それから次の週に、僕はまた山路邸を訪れていた。先は長い。行李はまだある上、整理整頓を終えた後は選別と解読作業と清書が残っているのだ。


「それを考えると、気が遠くなりますね」

「本当にねえ。沢山残した事」


 妙子さんが、行李のひとつに愛おしげに触れる。僕は先日の菱田君との会話を思い出し、それから気を取り直してまた中身を取り出す作業に戻る。


「大久保さんには、お手間を、かけ……」


 その時だ。急に、妙子さんの口調が覚束なく揺らいだ。僕は蚯蚓みみずの這った様な文字から目を上げる。妙子さんはかくんとこうべを垂れ、目を伏せ、深く寝息を立てていた。一瞬の事だ。


 酒を入れていない肝が冷えた。人前で突然眠る様な人ではない。何より、それまでそんな兆候は無かった。これは、何処か悪くでもしているのではないかと顔を覗き込み、失礼して脈を取る。おかしな様子はない。ただ、手に触れられても何も動かず、反応は無い。


 医者を、と思った、その時だった。蜘蛛の糸よりは太いだろうか。薄くきらきらと虹色に光る、透明な糸の様な物が、小指の先からスッと伸びている事に気づく。それは、どこまでも長く伸び、細く開いた障子の隙間から外へと向かって続いていた。

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