こねこどこのこ 参
その日の帰りに姉の家に寄ると、どうも沈んだ雰囲気で、早めに帰宅をしていた義兄に、
感心にも母親の代わりに家事を取り仕切っている姪は、台所で僕の顔を見ると、泣きそうな表情になって
「ねえ、矢っ張りあの猫が何かあると思うの。時々、何も無いところを見て脅かしているのが、何だか怖い」
捨てようと思った、と彼女は言う。
「でも、普通にしているところを見ると、可愛くて、とてもそんな事は出来ないし、勝治が可愛がっているのも何だか申し訳ないし。どうすれば良い?」
僕に言われても困る、とは言いかねた。気を張っている少女の、近くに頼れる相手が僕ひとりなのだ。父親や弟に語ってもどうかと思われる様な話である。
「明日、総合の病院に行くと義兄さんは言っていたから、それで安心しなさい。何もなくて病気が続いたら、僕がどうにか……まあ、頼めそうな人を連れて来る」
「本当に?」
「関に声を掛けておくよ」
こくりと姪は
その時、何だか叫ぶ様な、甲高い猫の鳴き声が響いた。あの子猫だ。どうした、と義兄の声がする。姪が、僕の袖をぎゅっと掴んだ。僕は一度深呼吸すると、声の方へ……姉の寝ている部屋の方へと歩いて行った。
小さな子猫が、
「お母さん」
勝治君が制止する僕の腕の下を潜り、襖を開けた。馬鹿、止めなさい、と姪が叱る。寝室の様子が明らかになり、僕は、息を呑んだ。
布団に横たわる姉の身体の上に、薄っすらと白い、大きな山椒魚の様な影が
子猫が威嚇の声を上げた。影が……顔の無い扁平な影が、確かに僕らの方を見た。僕らは、金縛りにでも遭ったかの様に動けずにいた。猫がまた鳴いた。
「……チヨ?」
額に汗をかいた姉が、ゆっくりと此方に顔を向け、弱々しく声を発した。
猫が、小さな弧を描いて跳躍した。
それから、様々な事が起こった。金縛りが解けた姪は落ちていた枕を拾って影に投げつけた。猫は何者かと格闘する様に畳を転がった。義兄は姉に駆け寄り、勝治君がそれに続いた。僕はただポカンとして、その様を見詰めていた。
そうして、
「お母さん!」
家族が心配そうに見守るが、姉は少し血色の戻った顔で、大丈夫、大丈夫、と言った。声は確かに、それまでよりは余程力が篭っている様であった。
「チヨが助けてくれたから」
「チヨと言うのは……」
視線が、
「昔ね、隠れて猫を飼っていた事があるの。そのうち逃げられてしまったけどね。その子の名前」
「初耳だな」
「純にばれたら独り占め出来ないじゃない」
少し大儀そうに笑う。
「
「ずるい!」
甥が声を上げる。義兄は未だ飲み込めない顔のまま、兎も角良くなったのなら良かった、と呟いた。姪は——。
「お前、お母さんを助けてくれたの」
ゆっくりと、チヨと名付けられた子猫に近寄った。
「悪い物を退治しようとしてくれていたんだね」
「
抱き上げられたチヨは、小さな舌でぺろぺろと姪の手を舐めた。
「成る程、名前の力だな」
相変わらず行きつけのバー『アトラス』で、僕は関と並び強いコックテールを口にしていた。お互い、神田の夜以来特に不審な事も無かったらしいが、まあ無事を祝うと言う程の事もなくだらだらと飲んでいる。
「元々力のあった猫が、名前を付けて貰って家族の一員となった、それが戦いの最後の一押しとなった、と言う筋はどうだ」
「まあ、良いんじゃないのか」
姉はその後
「
「それがね。近くで病気に倒れた人間は居ないか聞いたところ、心当たりは無いと——ただ、あの子猫の母親と兄弟猫の一匹が、貰われる直前に原因不明で死んでいたらしい」
「それが君の姉さんに取り憑き……おい、それじゃあ、凄いじゃないか。その猫、親兄弟の仇を討ち、主を救った事になるぞ。とんだ忠孝の徒だ」
「まあ、そうなる」
関は、こう言うのが欲しかったんだよおい記事にさせろ、と興奮するが、僕は少々苦笑いでいた。
「ところで、君の手はどうした」
彼は僕の、
「その忠孝猫にやられた。チヨの奴め、僕は家族と
正確には、皆何度か引っ掻かれてはいる様だが、僕のは特に酷かった。遊ぼうとすると直ぐに一撃が来るのだ。……そう言うところは、姉に似ている。
「おいおい、そんな
関はニヤニヤと笑っている。僕は肘をつき、放っとけ、と悪態をついた。
子猫には名前と首輪が与えられ、妙子さんの部屋の壁には珍妙な太郎猫の絵が掛かった。僕ひとりの手がしくしくと痛むまま、秋の空は低く雲に覆われていた。
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