こねこどこのこ 弐

「大した事無いと言うのに、んなが騒いだだけです」


 そう言う姉の顔はしかし、くまが出来て色を喪っていた。いつもの頑健な様とは大違いである。


「お医者様は過労だと言うから、栄養を取って寝ていれば良いの」

「寝ていないから怒ってるのに」


 姪が眉を吊り上げる。姉は医者が帰るとぐに布団から起き、夕飯を作ろうとしてまた倒れかけたのだ。


「私がやるから、お母さんはしばらく休んでなさい」

「なあに、その言い方は……あら」


 剣呑けんのんな声が、ふと緩んだ。にい、と小さな声を上げて、白黒ぶちの子猫が部屋に滑り込んで来たからだ。後から坊主頭の勝治かつじ君が追いかけて来る。


「箱から出したわね。仕方ない事」


 子猫は布団のところに差し掛かり、ふと目を大きく見開く。そうして、全身の毛を逆立て、おびえる様に姉を見上げた。


「……どうしたの?」


 伸ばされた姪の手に、一筋薄く鮮血が走った。子猫は小さな爪を立て、彼女を引っ掻いたのだ。姪は手を引き寄せ、顔をしかめる。勝治君が、こら、お前、と声を上げた。


「痛い」

「ああ、空気が悪いから興奮しているんだよ、きっと。ほら、姉さんも猫も、休むと良い。僕も手伝うから」


 僕は場を和ませる為にそう言った心算つもりであったのだが。


「純が何をどう手伝うの。いつもボンヤリ立っているだけの癖に」

「叔父さんは台所の事は何もわからないのだから、大人しく座っていて」


 どうも女性陣には不評の様だった。



「……叔父さんは、お母さんの体調の事、どう思う」


 結局、僕は台所に取り敢えず立って、姪の指図するあれこれを取って渡す係と言う事になった。時々間違えて妙な物を渡しては怒られる。


「どうって。そりゃ心配だよ。殴っても倒れない人だからね」

「そう言う意味じゃなくて……それもあるけど」


 姪は、絆創膏ばんそうこうを貼った先の傷に、チラリと目をやった。


「あの子……猫が来てから、お母さん、具合が悪くなった様な気がするの」

「猫の毛に弱い人は時々居るが、そんな風だったかなあ」

「そう言う意味でもなくて! ……ね、叔父さん。あの子、何か悪い物だったりしないかしら」


 芋の皮を剥きながら、深刻な声音で姪はうつむく。


「私が選んだでしょう。指先の勘で良い物だと思ったけど、逆かもしれない。もしそうなら、私の所為せいだ」

「何か力を持って、姉さんに悪さをしていると、そう言う事かな」

「そう。叔父さんは詳しいから、何かわかったりしない?」


 残念ながら、僕は大して怪奇現象にいては詳しくはない。勝手口の戸にめられた、曇り硝子ガラスを横目で見る。薄く映る僕の影は、現実の僕とは無関係に動き、手元の出刃包丁を持って自分の喉首に突き刺そうとしていた。僕が見るのは、あれだけ、無力な幻のみだ。


「悪いが、わからないね。猫の事は気を付けて見てみるよ。何、直ぐに姉さんも良くなる」


 そう言ってやる事位しか、僕には出来なかった。



「大久保さん」


 声を掛けられ、ふと手が止まっていたのに気づく。ひとつ目の行李こうりようやく片付きつつあるところだった。僕は生返事をして、眉間を指で摘んだ。


「なあに、今日は元気が無い事。悩み事でもあるのかしら?」


 僕に元気がある日など、元々そう無いのだが、今日はこと胡乱うろんであったのだろう。謝ってから彼女に向き直った。


「いえ、少し……姉の具合が良くなくてですね」


 あれから数日、姉は中々床から起き上がれずにいると言う。あら、と妙子さんは揶揄からかい調子からたちまち真面目な顔になった。


「それはいけないわ。心配でしょうに」

「元が丈夫な人ですから、過労と言っても何だか妙な気がして。どうも子供達の様子も良くない様だ」


 姪は、益々あの子猫を疑っている様であった。優しい子であるから虐めるなどはしないが、構うのは勝治君だけになっているらしい。


「それは……駄目よ。ちゃんと別のお医者様に診て貰うのが良いわ」


 何なら神田に良い病院があるわよ。妙子さんは何時いつになく真剣な調子でそう言う。先生の件がいまだ心残りであるのだろうか、と思った。


「何の病気があるか、わかった物ではないわ。早いなら早い方が良い」

「……尋常の病気ではないかも知れない」


 姪の様子に当てられたのだろう。ふと僕は、そんな事を呟いてしまった。


「それは、どう言う?」

「わかりません。何か、悪い病魔の様な物が取り憑いてはいないかと、それが気にかかって……」


 はた、と気づく。先日の残留思念の件があったとは言え、妙子さんはこう言った話題に良く遭遇する人ではない。僕にとっては自然な思考の流れであったが、正直なところ、理解して貰えるかは、怪しい。非科学の徒と思われる可能性もあった。事実、彼女はジッと僕の方を見詰めているので、ああこれはしくじった、と目をつむりたく思った、が。


「大久保さんは、そう思うのね」


 彼女はふんふんとうなずく。拍子抜けする程だった。


「それなら、そう言う事もあるんだわ」

「笑わないでいてくれるのですか」

「だって、こういう怪しい件に関しては大久保さんが先輩で……あらやだ」


 妙子さんはくしゃっと顔を顰めた。


「良く考えたら、そもそも大久保さんの方が年上じゃない。何でそんなに堅苦しい喋りなの?」

「え?」


 矛先が妙な方向に向いた。十年越しに何を言っているのかと思いつつ、僕は狼狽ろうばいしながら答える。


「それは、先生の奥様ですし、こう、距離感だの何だの」

「わかった。大久保さん、女の人が苦手なんでしょう」


 クスクスと笑われては、もうこちらは申し開きのしようが無い。不肖僕、大久保純、女性に関して良い思い出と言う物が殆ど無いのは確かであるのだから。


「それはまあ良いけど、お医者にはちゃんと連れて行って差し上げてね。念の為、と言うのはあるんだから」

「それはもう、そうします」

「何なら今日は切り上げたって良いわよ。無理するお仕事でも無いのだし」

「きりが良いところまではやりますよ」

「それと、そのうち普通に喋ってね」


 はあ、と普通に答えた心算がまた笑われた。そう言うところが、女性はわからないのです、と言うのを止めたのは、賢明な判断であった様に思う。それとも、こう言う事も話せる仲になった方が良いのだろうか。例えば、僕と関の様に。


 いやいや、と首を振る。反故の上で、銀色の紙魚しみが一匹、当てもなくうごめいていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る