第弐話 こねこどこのこ

こねこどこのこ 壱

 姉の家では、知り合いから猫を貰ってきたらしい。白地に黒のぶちが、鼻面に少し間抜けな感じにかかった、まだ弱々しい子猫である。


「それがね、見せて貰うとどれも可愛らしくて、迷ってしまったのだけれど、みどりがこう、スッと指を差してね。これがいい、この子にしたい、って言うのよ」


 姉は、猫をチラリと見る。猫は箱の中で布と戯れている。


「中でもあまり器量が良い方じゃなかったから、どうしようかと思ったのだけれど、この子、言い出したら聞かないでしょう」


 セーラー服姿の姪は涼しい顔で、お下げを暇そうにいじっている。この姪も時折、不思議な物事に感応する癖があり、今回もその癖が発揮されたのではないかと推察された。もしかすると、この猫も何か尋常の物では無いのかも知れない。


「翠ちゃんの勘かい」

「何となくそう思っただけ。可愛かったから」


 ほら、と箱に近寄り細い指を差し入れると、子猫は乳を恋しがるようにしがみついて、小さな口で吸い付く。


「成る程、いじらしい物だね。良いな。僕の家にも一匹欲しいよ」

「誰が世話をするんです」


 姉は血縁の遠慮のなさで、僕にいつでも一撃を食らわせていく。


ずはお嫁さんでしょう。先のお話が纏まらなかった所為せいで、もう打つ手が何も無くなってしまったわよ」


 僕は見合いにかけては不名誉な記録持ちである。誇る心算つもりは無いが、特に恥じてはいない。りのままの僕を見て頂きたい。ともあれ、有りのままの僕はごそごそと立ち上がる。


「散歩ついでに猫じゃらしを取ってこようかね。空き地にでも生えているだろう」

一寸ちょっと、逃げるんじゃありませんよ」

「私も行きたい」


 ほとぼりが冷めるまで退散しようとすると、姪が玄関まで僕を追いかけてくる。この家では僕の孤独は、こうやって直ぐに踏みにじられるのだ。


「夕飯の準備がありますからね。遠くまで行くんじゃないわよ」

「はあい」


 姪は革靴のつま先をとんとんと打ちつけながら優等生の返事を返し、そうして、僕らの散歩が始まった。



「この間聞いたのだけど、叔父さんは今、菱田さんと他所よそでお仕事をしているのでしょう」


 道へ出ると、開口一番にこれである。恋と言う物は、全く度し難い。


「まあね。世話になった先生絡みの仕事があってね」

「良いなあ。流石さすがにそちらにお手伝いには行けないもの」

「菱田君に会いたいのはわかるが、それは……」

「違う」


 少しむっとした様な声が返ってきた。


「違わないけれど、それだけでもないの。叔父さんの先生……山路さんのお話を借りて読んだの。とても面白かった」


 僕の本と何方どちらが面白かったかね、等とれようとして、止めた。畢竟ひっきょう、惨めになるだけである。先生と言う山は、僕の前に尚限りなく高くそびえ立っている。


「それで、どんなお仕事をしているのか気になって」

だ遺跡の発掘の様な物だよ。気が遠くなる程だ」

「でも、直筆の原稿だの、お手紙だの、沢山あるのでしょう。羨ましい」

「まあ、仕事でなければ早く一枚一枚ゆっくり眺めたいところだよ。菱田君も同じ気持ちだろうね」


 良いなあ、と姪はしみじみ呟いた。ひとつに向けられた言葉では無いのであろう。好きな本と、好きな人と、大人の世界と、自分の未来と、全てに対して純粋な憧れを向けた、透明に少し桃色の曇りの入った、水晶のような呟きであった。


 近くの河原には猫じゃらしが山ほど生えていて、猫の尾の様に揺れていた。僕らはそれを少し取って行って、子猫と戯れ、手を掻かれ、そうして少し疲れた様子の姉の小言を聞き流した。



「猫はね、昔飼って……飼ってはいないかしら。まあ、たまに上がって来ていたわね」


 発掘作業の合間の休憩時間に、妙子さんは団扇うちわで襟元を仰ぎながらそう言った。辺りは紙だらけ、時折紙魚しみがちょろちょろと歩く酷い有様である。


「ああ、あの雉虎きじとらですか」

「良く馴れていたから、半野良だったのでしょうね。雄二郎さんが原稿の言い訳に使っていたっけ」


 名も無い猫だったが、時折勝手に上がり込んでは客間にやって来る、妙な猫だった。先生も気まぐれに可愛がり、こいつが用紙を汚したので書き直しだだの、膝を退かないので進まないだの、子供の様な言い逃れを試みていたのを覚えている。


「途中でどこかに居なくなって、流石に少し寂しそうにしていたわ。そうしたら、そのうち雄二郎さんが寝付く様になって……」


 ふと、睫毛まつげの奥の瞳がくもる。そうして、あの子、家を守ってでもくれていたのかも知れないわね、とまた笑った。


「猫がそんな忠義じみた事をしますかね」

「そうやって混ぜ返す。少しはひたらせて頂戴ちょうだいな」


 もう、と口を曲げるところは、矢張やはり機嫌を損ねた猫の様でもある。先生も、さぞ可愛かったろうな、とそう思った。とは言え、あなたは猫に似ていますね、なぞと言って喜ぶ人間と言うのも珍しかろう。僕は言葉を飲み込み、そうして行李こうりの中を漁る作業に戻り——。


「おや」


 中から一枚の半紙を見つけた。それは文字の原稿や覚書ではなく、筆で気紛れに描かれた、戯画化ぎがかされた猫の絵であった。


「成る程、先生、確かに猫がお気に入りだった様だ」


 妙子さんが吹き出す。それは伸び伸びとした素人筆の、目つきの悪い、実に珍妙な良い顔をした猫だった。


「これ、取って置いて額に飾りたいわ」

「守りになるかも知れませんね」


 横にはあの難解な字で、「ねこ 太郎」と書いてあった。先生はどうやら、あの猫に名前を与えていた様であった。



「名前、そう、名前よ。中々決まらないの。皆んなが言い合いするんだもの」


 姪は僕の家の壁に寄り掛かって座り、本のページまくりながらそう言う。僕は盃を傾けながら、その繰り言を聞いている。


「女の子だから、私は欧米の名前が良いと思うの。メグとか、ベスとか」


 『小婦人リトル・ウィメン』を読んだのだな、と思った。


「お父さんはタマだのブチだのが良いと言うし、勝治かつじは兎に角強そうなのが良い、ふねの名前をつけようって」


 信じられない、という顔で姪は首を振る。勝治君は彼女の少し年の離れた弟で、大概なやんちゃ坊主であり、僕とはあまり反りが合わない。


「姉さんは何派だい」

「お母さんは……最近、少し元気が無いの。調子が悪そう。だから、何でも良いから早く決めなさいって」

「ふむ」


 姉はずっと丈夫なのが売りで来た人間であるが、そうなると少々心配である。食事だの何だの、世話になっている身だ。久しぶりの姉孝行に、水菓子でも買っていこうかと思った。


「それなら、見舞いに行こうか、翠ちゃん。一度商店街の方に行って、ついでに何かお菓子でも買ってあげるよ」


 やったあ、と顔を輝かせる。頑固で難儀なところのある姪だが、こうすると年相応に可愛らしい少女だ。贔屓ひいきのし甲斐がある。僕は立ち上がって外へと出ようとし、そうして、突然響いた戸を叩く音に驚いて足元がよろけた。慌てて玄関に駆け寄る。庭先からでなく玄関からやって来る相手は、礼儀正しい客か物売りである。そして引っ切り無しに戸を叩く音は、物売りにしては随分性急に聞こえた。


 曇り空の下、外に立っていたのは、顔を見かけた事のある中年の婦人であった。


「突然、済みません。羽多野さんのところの翠ちゃんが来てらっしゃるでしょう。いえ、大久保さんにもお伝えしないとなんですけれど……」


 何やら焦り顔で、まごまごと言う。いつの間に来ていたのか、姪が僕の後ろからひょっこりと顔を出した。


「中田さん、今日は。何かありましたか」

「ああ、翠ちゃん。早くお家に帰ってあげなさいね」


 思い出した。彼女は姉の……羽多野家の隣人で、折にふれて挨拶をした事がある。


「お母さんが急に倒れなさったのよ。勝治君が家に駆け込んで来てねえ。今寝かせてお医者さんを呼んでます」


 姪の顔がサッと青くなった。僕の背筋にも嫌な物が走った。


 空は彩りのない灰の色に染まり、ぞわぞわと雲が湧き出していった。

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