かれのおもかげ 弐
僕と妙子さんは、目を見交わした。そうして、どちらとも無く玄関へと小走りに駆け出した。幽霊。怪異。僕は先日の関と遭遇した謎の人影を思い出す。あれ以来特におかしな事は起こってはいなかったが——。
「お留守ですかね。おかしいな……」
戸惑った様子の声が帰らぬうちに。僕らは戸を思い切り引き開けた。
「うわっ!?」
声の主、編集者の菱田明彦君は、丸い目をさらに丸くして驚愕の声を上げた。突然戸が開いた事もあろう。そして、僕らが揃いも揃って焦り顔で、神妙にしていたからでもあろう。
「ええと、どうかなさったのですか?」
眼帯姿の青年は、僕らを不思議そうに見つめる。何と言っていいのかわからず、僕は少し言い
「出た」
「えっ、未発表の傑作でも発見されたのですか! それは凄い」
「違うよ! 発掘作業は途中だ。出たのは……先生の幽霊だよ」
妙子さんもこくこくと頷く。僕はまだ、遺憾ながら少々この手の事態には慣れがあるが、尋常の神経ではただただ恐ろしいばかりであろう。
「幽霊」
「あちらの部屋の隅に、こう、ボンヤリと影のようなものが居る。僕は話し掛けられたんだ」
「それはそれで凄くはありませんか」
「何?」
僕は眉を
「
僕は妙子さんと顔を見合わせた。どうも、駄目だ。この若者はどこか発想の
「案内して貰えませんか。是非一度
「君、そうは言っても幽霊だよ」
「何か恨んでいたりとか、そういうのがあったらどうするの」
妙子さんが遠慮がちに口を挟む。その通りである。彼らは時に、恐るべき行動に出る事がある。僕は良く知っている。
「恨まれるような事をなさったのですか?」
「それは……無いとは思うけど」
「それなら平気でしょう。失礼。こちらですか?」
菱田君は、靴を脱ぐととうとう率先して歩き出した。どうも彼は段々酷くなるな、と思いながらも僕と妙子さんは恐る恐る後ろに付いて行く。やがて
「山路先生……いや?」
無謀にも声を掛けようとした菱田君の声が
「……この方、山路先生ではありますが……幽霊ではない様ですよ」
「え?」
妙子さんが声を上げる。
「だって、確かに雄二郎さんで、声も」
「幽霊ってもっと……しゃんとしている様な気がします。この方、全然動きませんし」
「じゃあ、何なんだい」
ふむ、と菱田君は腕を組む。
「喋ったのなら、少しは意思はあったのかなあ。でも、僕らがこうしていても反応しません。それに、少しずつ薄くなっている様にも見えませんか」
言われてみれば、影は先程よりゆらゆらと、薄暗い空気に紛れて
「多分、本体ではない、残留思念の様な物……ではないかと、僕は思います」
「君、随分慣れた様子だね」
「この目の
頼りになるのかならぬのか、わからぬ事を言う。
「お二人が荷物を出したから、
「……雄二郎さん本人では、ないのね」
「切れ端の様な物かと。その内消えます」
「それでも、お話は出来るかしら?」
まあ、
「御免なさい。逃げたりして。怖くなってしまって、私」
それはそうだろう、と思った。死者が帰って来て、動揺しない菱田君の如き反応の方がおかしいのだ。
「私、ちゃんとあなたを看取れた自信が無くて。酷い事を言ったかも知れない、もっと出来る事があったのかも知れないと思うと……」
独り言の様に、妙子さんは呟く。女給上がりの若い女に騙されただの、地位と財産が目当てだろうだの、ふたりの短い結婚には、中傷が飛び交った。僕とて、何も思わなかった訳ではない。弟子の中で、女にしかなれない位置にするりと飛び込んだ彼女に、僕らは少しばかり嫉妬していた。
だが、それでも、と思った。妙子さんの真摯な横顔を僕は見る。それでも、この夫婦には、確かな絆があったのだと、そう思った。
「妙子」
先生は……先生の残留思念は、また微かに揺らぎ、声を発した。それは、先に比べるとぼそぼそと、呟く様な物であった。
「————なさい」
妙子さんの目が、大きく見開かれた。僕には何を言ったか知れない。何か、ふたりだけに通じる
先生は一陣の風に吹かれる様に、ゆらゆらと流れて消えた。妙子さんは、それを目で追い、息を吐き、そして、妙にスッキリとした顔で我々を見た。
「居なくなっちゃった」
「矢張り、原稿に憑いた思念だったのですかね。少し勿体無い……」
僕は菱田君を肘でつついて黙らせた。先生は、
「大久保さんたら、また泣くんだから」
「泣いてなどいません」
僕は飽くまで突っ張った。妙子さんは、柔らかな顔で僕を見て、笑っていた。
それから、打ち合わせの後、山路邸を辞した僕は菱田君と少し飲んで、
僕は電気の消えた、冷えた部屋に転がり込み、畳に寝転ぼうとした。その時だった。僕は目を瞬かせる。何だか、そこらにボンヤリとした淡い霧の様なものがちらついている様な気がしたのだ。
僕はそれを、仕事の疲れか酒の影響か、或いは虫か何かであると直ぐに結論づけ……例えば、先日遭遇したあの神田の怪異と関連づける事もなく、そのまま寝てしまった。
これが後々、厄介な物を呼ぶ事になるなど、気づきもせずに。
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