第壱話 かれのおもかげ

かれのおもかげ 壱

 秋雨の湿った空気の中、山路やまじ家を訪れると、小綺麗な玄関で妙子たえこ夫人が出迎えてくれた。青磁の花瓶に名も知らぬ花が活けてあるのが目についた。


「いらっしゃい、大久保さん。お待ちしてたわ」


 まだ若い、僕よりも少し年下なくらいの夫人……と言うよりは、気安く妙子さん、と呼んだ方が慣れ親しんでいる。断髪を少し伸ばして肩の辺りに揺らした、鈴を付けた三毛猫のような雰囲気の女性だ。先日お会いした時は沈んだ色の喪服であったから、水色の単衣ひとえが清々しい。


「編集の方は夕刻にいらっしゃるそうよ。まずは、あの人に挨拶していって頂戴ちょうだいな」


 僕はもそもそと、失礼します、と礼をする。そうして、この後何度も訪れることとなる家に足を踏み入れた。



 僕、大久保純が師事していた、作家にして歌人の山路雄幸やまじゆうこう先生が亡くなられて、もう二年になる。


 先日三回忌の法事もつつが無く執り行われ、その後の食事会で隅の席に陣取り、酒をちびちびと飲んでいると、秋風社の方に仕事の話を持ちかけられた。何でも全集の出版の話が持ち上がっているから、編集作業の補助をやっては貰えないか、という事だ。


 これでも不肖の弟子として、協力出来る事はないかと大人しく聞いていると、どうもこの編集補助と言う仕事、大量の未発表原稿の発掘と、それから内容の解読であるらしいと言う事が段々とわかってきた。


 山路先生は多作で知られる方だが、独自の速筆法を身につけており、平たく言えば、まあ、大層な悪筆なのである。弟子の僕も達筆とは言い難いが、それ故にか先生の筆跡を判別すると言う応用の効き辛い能力を身に付けていた。それを活かさないかと言う申し出であり、要は雑用係である。


 それでも三回忌の少々しんみりとした空気に当てられて、僕は承諾した。そうして先生のお宅、今は妙子さんがひとりで暮らしている小さな借家にお邪魔したところだった。


 白髪混じりのいかめしい顔をした遺影に手を合わせてから、妙子さんの出してくれた茶を啜る。かなり年の離れた夫婦で、当時は色々と言われた物だったと記憶している。これでも女性の独り暮らしに押しかけるのは、僕にとっては勇気の要る事なのだが、酒の匂いをさせて訪問するのは流石に憚られたため、どうにか我慢してここに至った。


反故ほごだけれど、出してみるともう大変。沢山あったから大仕事になると思うわ」

「それでも、先生は物持ちが良くて助かりました。どうも良い加減な奴らが多くて、手紙類は大分散逸してしまった様です」

吝嗇けちなのよ。さて」


 腰に手を当て、妙子さんは少し気合を入れるような顔をした。獲物に飛びつく前の猫が、大体あんな顔をしているな、と思った。


「始めますか」



 十畳程の座敷に置かれた、幾つかある行李こうりの中には、先生の作家人生が詰まっていた。何度も赤を入れた下書きの類や取材記録が主のようだったが、一先ず僕らは紙類を取り出し、並べて分類する事に決めた。勿論、僕が主導で妙子さんは手伝い程度である。私があまり手を入れては、何だか偏る様だから、と彼女は言う。そう言う物だろうか、と思った。


 然しこれが中々の労働で、彼方此方あちらこちら順番が紛れていたり、あるいは破れ汚れて良くわからない物があったりと一筋縄では行かない。帳面に記録していくうちに、昼が過ぎ、夕方に差し掛かり、終いには恥知らずな僕の腹がぐうと音を立てた。


「あら」


 妙子さんが目を丸くする。


「嫌だわ、お菓子を買って置いたのに、私ったらすっかり忘れてた」


 お構いなく、と言いたいところであったが、僕は腹が減っていた。菓子でどうにか誤魔化せるかは疑問であったが、無いよりはましだ。


 ぱたぱたと足音を立てて台所に行った妙子さんを待ちながら、障子越しに外の光を仰ぐ。酒が飲みたいな……と思った。


「酒が飲みたいな……」

「あら、お仕事中は駄目でしょう」


 声に出ていたらしい。僕は流石に赤面し、熱い茶と金鍔きんつばを用意してくれた妙子さんにもごもごと様にならぬ弁解をした。


「大久保さんは、まだお酒が好きなのね」


 ふっと、妙子さんの視線が過去へと戻る様に揺れた。僕も口の中を甘味で一杯にしながら思い出す。先生には良く、身体に毒だから止め給えと忠告されていた物だが、そこは不肖の弟子。守る気はさらさらなかった。お陰で僕は何度か失敗をし、にも関わらず、今も変わらず酒浸りである。


 妙子さんは、元々先生の行きつけのカフェーの女給で、先生が引っ張る様にして、勝手に歌の弟子にしたそうだ。ここしばらくはご無沙汰であったが、付き合い自体はもう十年来になる。僕の若気の至りも、色々と知られている相手だ。


 遺影の厳しげな顔とは打って変わって、先生は笑い話が好きな人であった。僕も散々内気癖を笑われたし、妙子さんと籍を入れると言い出した時も、先生一流の冗談かと思った物だ。そうだ。あの時は、結構な人数の御友人弟子一同が集められていたのだった。そうして、宣言に皆が大笑いしたところを、先生は不意に真面目な顔になって……。


「大久保さん?」

「……いえ」


 僕は慎重に菓子を咀嚼そしゃくした。そうして、ゆっくりと口を開く。


「先生の事を、思い出していました。最後の数年は中々お会い出来なくて……本当に、残念でした」

「あの人、とこで大久保さんのご本は読んでいてよ。予言が当たったと嬉しそうだった」

「予言?」

「その内必ず怪談を書くと思ったって。怖がりは大抵怖い話を書き出すんだって得意げだったわよ」


 クスクスと笑う声に、僕は少々呆然としていた。確かに昔そんな事を言われた。そして怪奇物を書く度に思い出していた、僕だけの言葉だったのだ。


 目頭が熱くなり、僕は慌てて手で押さえた。先生が亡くなった時は、泣き虫で有名なこの僕が、何故か泣かず、只管ひたすら淡々と事務をこなしていた。ただ、こうして思い出を人と共有した途端にこうだ。人付き合いは、これだから、嫌だ。


「大久保さん、随分と買われていたのよ。怠け者の起き上がり小法師こぼしみたいな奴だから、いつかちゃんと立つはずだって」

「それは褒められているのかな……」

「怪談もね。読むと、何だか遠くに行くのが怖くなくなるようだって」

「それも褒められているのかな……」


 全体先生は、弟子に対する言葉が酷い。怖くない怪奇物とは何だろう、と思う。妙子さんは優しく言った。


「泣かないで」

「泣いてなどいません」


 僕は肩の震えをどうにか押さえながら、虚勢を張った。


雄二郎ゆうじろうさんに笑われてよ」


 山路雄二郎とは先生の本名で、およそ妙子さんの口からしか呼ばれるところを聞いたことのない名だった。その柔らかい響きが、僕をさらに悲しくさせ、ぐずつかせる。


「僕は、先生に顔向け出来る様に、なれているのかと、それを……」

「全く、大久保君は変わらんな」


 よく聞き覚えのある、低く太い声が不意に響いた。僕は混乱したまま反射的に答える。


「先生は黙っていて貰えますか! 僕は……」


 ハッとした。顔を上げる。おかしい。この声は、ここに居てはならない筈の声で、その主は。


 妙子さんは猫が初雪を見た様なきょとんとした顔で固まっていた。そろそろと、視線の先を辿る。


 部屋の奥、傾いた日に暗く澱んだ影のところに、黒い、霧の様なもやもやとした蟠りがあった。陰翳いんえいをジッと見つめると、人の顔がある。身体がある。それは確かに見覚えのある、懐かしい、あの——。


「……雄二郎さん?」


 妙子さんはぽつりと呟く。陰翳は、確かに口の端を吊り上げ、くらく笑った。


 僕は腰を抜かしかけ、柱にぶつかり、がたんと音を立てた。陰翳は……人影は消えない。ただゆらゆらとそこに在る。


 どん、と玄関から戸を叩く音が二度聞こえた。


「失礼します。秋風社の菱田です。何方どなたかいらっしゃいませんか」


 どん、とまた戸は叩かれる。その音と能天気な声を背に、僕はガタガタと震え、まるで動けずにいたのだった。


 二年前に亡くなった筈の、山路先生がまさに今、僕らの目の前に現れたのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る