as ever~another eye~
キーマカレーが食べたい。
とにかく、無性に。
出勤途中に突然発作のように襲ってきたそれと戦いつつ、仕事をこなし、昼休憩のときに出されたまかないはインディアンピラフ。カレーの香りに誘われて、満足できるかと思いきや、ますますキーマカレーへの想いを強くするだけだった。
ピラフはおいしい。
厨房スタッフである友人が大盛りのそれに、更に素揚げしたいんげんとジャガイモに、カレーパウダーで作ったとってもスパイシーな調味料を振りかけたものを添えてくれた。これも、シンプルでまた、おいしい。
キーマカレーの気分が抑えられなくて、と言ったら、料理上手の愛しい恋人に作ってもらえよ、とからかわれてしまった。
彼のことを話してからというもの、友人はいつもそんな風に軽口を叩いて、俺が表情を崩すのを見るのを楽しんでいるフシがある。今まで、一切の愛想を排除した無表情だった俺だから、明らかに違いが分かるほどに反応することが、よほど楽しいらしい。
大盛りピラフをさらにお代わりして昼休憩を終えた俺は、仕事に戻った。いつも通り、不愛想で接客する俺の頭の中が、キーマカレー一色だったことなど、客の誰にも分りはしないだろう。
仕事を終えてロッカーで着替える前に、彼にメールを打った。
どうしてもキーマカレー。何が何でもキーマカレー。とにかくキーマカレーが食べたい。
友人がひょっこりと顔を出して、明日、どんな味だったか教えてくれ、と言った。最近では、彼が作った料理がどんなものか、どんな味かを根掘り葉掘り聞かれている。調理師である友人は、元々食べることと作ることが好きで、世界中食べ歩きの旅をして、この仕事に就いた人間である。ただ食べるだけの俺とは全く違って、研究熱心で、頭が下がる。
家に着いて、スマホを見たら、彼からの了解の返事が届いていた。帰りにスーパーに寄る、と書かれていたので、待ち合わせすることにした。
朝干していった洗濯物を取り込んで畳み、部屋の掃除をした。
どちらかというと細かいことにはこだわらない大雑把な性格の俺だけど、掃除と洗濯は好きだ。対して彼は、男らしくてさっぱりとした性格なのに内実はとても繊細な質だが、そういうところは結構ずぼら。つまり、彼は、おおらかで繊細。俺は、大雑把で潔癖。……潔癖は言い過ぎかも知れないが、そういうことだ。
お互い、好きな家事が分かれているから、暮らしやすさは格別。俺は料理がとにかく苦手で、包丁を握ることすら彼に心配されるような腕前だし、彼は掃除を毎日しなくても別にいい、というタイプ。
うまくできている。
掃除を終えてもまだ時間があったから、米をといだ。カレーに合わせていつもよりかなり多め。炊飯器に入れて、しばらく吸水させておく。
まだかなまだかな、とうきうきしながら、ついでにソファカバーまで取り替えてみた。それでもまだ時間がある。
彼のワイシャツにスプレーのりを吹き付けながらアイロンをかけて、きちんとハンガーにかけた。革靴もピカピカに磨いてみた。
こういう作業は、とても楽しい。彼がそれに気づいて、笑顔でありがとう、と言ってくれるのを見るのがとても好きだ。
ラフな格好でくつろいでいる彼も、スーツ姿でぴしっとしている彼も、どちらもとてもかっこいい。頼まれているわけじゃないけれど、時々、スーツとワイシャツとネクタイをきちんとコーディネートして用意してみたりする。それを着た彼が、さらにかっこよく見えてしまうのは、俺のひいき目だけじゃないと思う。
俺って、本当に、彼のことが好きだよなあ、なんて、苦笑してみる。
襟元に指を入れ、ネクタイを緩める。そんな仕草に毎回どきりとしてしまう。
俺は別にスーツ好きというわけじゃないけれど、彼が着ているととてもときめく。
カバーを替えたばかりのソファの上で、俺はひゃああと頭を抱えてごろごろ転がった。
びしっとしていても、疲れてくたびれていても、かっこいいものはかっこいい。恋は盲目、あばたもえくぼ。どんな言葉も甘んじて受け入れてしまおう。
俺はやっぱり、彼に惚れすぎているのかもしれない。
定時からはかなり遅くなってから──まあ、彼が定時で帰れることはあまり多くないのだが──今から電車に乗る、という連絡が来た。俺はスーパーではなく、駅の前で彼を待ち、改札を抜けた彼に手を振った。
「お前なあ」
並んで歩きながら、彼が呆れたように言った。
「何なんだ、あのメールは」
仕事を終えた俺が彼に送ったメールは、これ。
『キーマカレーキーマカレーキーマカレーキーマカレーキーマカレーキーマカレー』
どれだけ食べたいか、を表したものである。
「気が狂ったのかと思ったぞ」
「だって、今朝、電車で突然カレーの神が俺に神託してきたんだよ。お前は今日、キーマカレーを食するのです、って」
「んな馬鹿な」
「ピーマンと、ナスが入ったやつ! とろとろの! トッピングつけて! フライドオニオンと、ガーリックと、白身カリカリで黄身は半熟の目玉焼き!」
「……それも神託か」
「そう」
スーパーで、必要な材料を買い揃える彼の後ろをついて行きながら、俺はちょくちょくお菓子だのデザートだのをカゴに忍ばせていく。もちろん彼は気付いているが、やれやれ、という顔をしただけで何も言わなかった。
「カレー粉……どのくらい残ってたかな」
「買う?」
「いや、業務スーパーで大袋買うから、ここでは買わない。──足りない分はルー足すか」
「辛いのにして」
「分かった」
スーパーで売っている小さな缶のカレー粉では、すぐになくなってしまうので、彼が購入するのは、いつも業務用のものだ。一般的な赤い缶のものではなく、袋入りのもので、辛みが強い。その辛さに慣れてしまっているので、市販のルーはいまいち物足りない。
もちろん、彼が集めている沢山のスパイスのせいもあるかもしれないが。
「サラダはどうするかな……トマトの甘いサラダと、きゅうりのヨーグルトサラダ、どっちがいい?」
「どっちも」
「……お前に聞いた俺が馬鹿だったよ」
そう言いつつも、青果売り場に戻って、きちんときゅうりとトマトを購入してくれる彼は優しい。
家に帰って、彼が材料の準備をしている間に、家を出る前に準備しておいた炊飯器のスイッチを押した。炊きあがるまでは一時間弱。俺はカウンターでいつものように見学。
玉ねぎをみじん切りにし、はちみつとお酢をかけてよく混ぜ、塩少々。スライスしたトマトの上からかけてそのままラップして冷蔵庫でしばらくマリネしておく。トマトのサラダ。
きゅうりは拍子木切りにして、水気を軽く切ったヨーグルト、ニンニクすりおろし、塩、コショウ、レモン汁、オリーブオイルを混ぜたソースであえる。こちらは、きゅうりのサラダ。ちゃんと両方作ってくれた。
深さのあるフライパンで、細切りにした玉ねぎを多めの油で揚げ、茶色く色づいてちりちりになったら引き上げ油を切る。油を減らし、今度はスライスしたニンニクを揚げる。こちらも、色づいてカリカリになったら油から上げてキッチンペーパーの上に乗せて油をきっておく。
玉ねぎ、ピーマン、ナス、多めのニンニクとショウガをみじん切りにして、さっきのフライパンにニンニクとショウガを加えて火にかけ、木べらで炒めて少しだけ焦げ目をつけ、玉ねぎを加えてさらに炒める。強火のまま、色づくまでしっかりと。ひき肉を加えて色が変わるまで炒め、ピーマンとナスを加える。ナスが油を吸って柔らかくなったら、カレー粉をベースに、様々なスパイスを加えていく。シナモン、ナツメグ、クローブ、クミン、ターメリック、パプリカ……途中から、知らない名前のものま出てきたので、確認するのはやめた。ガラムマサラを振りながら、
「まあ、大抵はこれで補えるけどな」
なんて言い出して、俺はええー、と思わず声を上げてしまった。
「じゃあ、それだけでもいいんじゃなの?」
「趣味と、気分だから」
「おいしいなら、いいんだけどさ」
よく炒めて、つぶしたトマトとヨーグルトを加えてさらに炒める。ローリエを入れ、水を注いでコンソメを落とす。やっぱりカレー粉が足りなくて、ルーを足した。割りいれたルーが溶けたら塩コショウで調味して、少し煮込む。
部屋中カレーのいい香りが漂っている。
まだ時間あるな、などと言いながら、彼がボウルにヨーグルトとレモン汁、はちみつを入れてよく混ぜ、牛乳を注いだ。そのまま冷蔵庫で冷やして、簡単にラッシーまで作ってくれた。
ご飯が炊ける音がして、俺はいそいそと水で濡らしたしゃもじを持って炊飯器のふたを開けた。きらきら光る白米をかき混ぜて、思わず顔がにやける。
「──何合炊いたんだ」
後ろから覗き込んだ彼が、顔をしかめている。
「5合」
「……炊きすぎだろ」
「明日冷たいご飯で食べるから」
熱々キーマカレーを、冷えたご飯にのせて食べるのも、俺は好きである。
「明日の分もあるよね?」
「2~3日分はゆうにあるよ。──お前が暴食しなければな」
フライパンの中、くつくつと煮込まれたキーマカレーに、にんまりしてみる。
「おいしそー」
彼は、小さなフライパンで卵を焼いていた。俺のリクエスト通り、白身はカリカリ、黄身は半熟、とっても完璧な焼きあがりだった。
「さあ、食うぞ」
「はーい」
俺は大きなカレー皿にたっぷりとご飯を盛りつけた。カレーは、フライパンのままテーブルに運ばれた。鍋敷きの上に乗ったフライパンから、好きなだけご飯に乗せることができるというスタイル。素晴らしい。
まあ、単に洗い物を減らすためなのもしれないけれど。
カレーのあとの洗い物って、油が多くて何もかもカレー色に染まって、大変だからね。
トマトときゅうりのサラダ、昨日の残りのイカと玉ねぎのマリネ、それに手作りラッシー。
ご飯の上にたっぷりキーマカレーを乗せ、目玉焼きを乗っけて、フライドオニオンとフライドガーリックを散らす。用意されていたシュレッドチーズも乗せたら、カレーの熱でとろりと溶けていく。
「いただきます」
スプーンを突っ込んで、一口食べた。
「おいしー」
とろけるようなナスの触感と、ピーマンのほろ苦さ、わざと焦げるくらいに炒めた玉ねぎの香ばしさがベストバランスだ。ルーが入っているからか、いつもより少しどろりと粘度があるが、これも悪くない。
「しーあーわーせー」
「カレーの神の神託が聞き入れられたな」
「うん、神も満足でしょう」
俺の言葉に、彼がおかしそうに笑った。
辛みの強いそれを食べて、ラッシーを一口。口の中の辛みが消え、さわやかな風味が広がる。
「俺、これ、好きだな」
「ああ、うまいよな」
「もっとある?」
「冷蔵庫に残ってる」
甘いドレッシングのかかったトマトも、ニンニクの香りがほのかにするヨーグルトのさわやかな味のきゅうりも、どちらも辛いカレーによく合う。ひき肉たっぷりのボリュームのあるこってりしたカレーだから、さっぱりしたこの二つのサラダは格別だ。
俺はご飯をお代わりして、カレーをかけた。
「おいしいなあ」
「お前は、何が入ってる、どんなカレーが食いたいって言ってくれるから、いいよな」
そういって彼が笑ったのには、理由がある。彼は、カレーが原因で、昔付き合っていた人に愛想をつかされたことがあるからだ。
俺からしてみれば、相手の男が馬鹿なんだと思わずにいられない。
あんなに沢山の種類のカレーを選ぶ楽しみなんて、人生の中でも結構上位に入る選択だと思う。
「この前のタイカレー、おいしかったよ。お魚のレッドカレー。今度は、グリーンかイエローだね。鶏肉の入った、イエローカレーとか、食べたい」
「そうだな、イエローは、なかなか作らないな」
「グリーンが定番ぽいもんね」
「タイカレーペーストで炒めご飯作ってもうまいぞ」
「う、選択肢増やさないで。食べたくなるから」
「かなり辛いご飯に、フライドオニオンと、さっきのみたいな目玉焼き乗っけて、黄身を崩して混ぜながら食べると、辛みがマイルドになって、オニオンの香ばしさが相まって──」
「あーあーあー、駄目、食べたくなる!」
「今度、作るよ」
彼が嬉しそうに言った。
5合も炊いたご飯は、半分以下になっていた。まあ、明日の俺の朝ご飯には充分間に合う量である。明日もこのおいしいキーマカレーが食べられると考えるだけで、とっても楽しみだ。
片づけを終えてコーヒーを入れると、彼があれっと声を上げた。
「ソファのカバー、替えてくれたのか」
「うん、さっき」
「そろそろ新しいカバー買いに行くか」
「そうだね。──あんたの新しいネクタイも買おうよ。この前買ったカラーシャツに合う色、選ぼう」
「そうだな」
「あと、布団カバーも買いたい。俺の部屋の、もう、かなり長く使ってるやつだから」
「引っ越してくる前から使ってるんだったな」
「うん」
「じゃあ、週末」
俺はうなずいて、彼の隣に座って寄りかかった。
「おなかポカポカする」
「辛かったからな」
「何か、幸せ」
「お前の幸せは単純だな」
彼が苦笑する。
「食いたいものいっぱい食って、満足だもんな」
「それだけじゃないよ」
「?」
彼が首を傾げたので、俺はカップを置いて彼に抱きついた。
「こうやって、あんたが隣にいることも、大事なんだよ」
「そうか」
俺の頭をくしゃりと撫でて、彼が笑った。
「リクエスト通りの料理を作ってくれて、俺を愛してるって言ってくれて、優しいキスをくれるあんたが好き」
彼は一瞬意表を衝かれたように目を丸くし、それから俺の言わんとすることが分かったのか、俺を抱き寄せ、耳元で囁くように言った。
「愛してるよ」
それから、優しいキスを一つ。
うん、満足。
俺は彼の胸に顔を押し付けるようにして、思う存分甘えるようにその手をねだる。彼の大きな手は柔らかに俺の髪を撫でた。相変わらず、そして、いつものように、とても優しく。
「次は──」
俺はその手に身をゆだねながら、冗談ぽくつぶやいた。
「エスニックの神が俺に神託を下すでしょう」
彼の手が止まり、ひょいと顔を上げてその表情を確認したら、呆れるような目をしていた。
「その次はフレンチの神か? イタリアンの神か?」
「南米料理の神かも」
「そうかよ」
彼はぐしゃぐしゃと俺の髪をかき混ぜ、ちらりと俺を見下ろし、深い溜め息をついた。
「分かったよ──もう、どんな神託だって受け止めてやるよ」
諦めたようにそう言った彼に、俺はあはは、と笑って再び強く抱きついた。
了
作中のカレーについての一コマは、前出「華麗なカレーの顛末~another eye~」(https://kakuyomu.jp/my/works/1177354054884132930/episodes/1177354054884167023)に書かれています。気になるお方は、お読みになってみてください。
kitchen~another eye~ hiyu @bittersweet
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