kitchen~another eye~
hiyu
some as you ~another eye~
髪の毛を乾かしていたドライヤーを止めらたら、急に静けさが広がった。
ぱさり、と額に落ちた前髪はまだ完全にいつもの感触ではない。適当に大雑把に乾かしただけのなので、きちんと整ってはいなかった。
熱風、冷風、そして再び熱風。
繰り返すうちに紙の表面はツヤを増し、指どおりと手触りがすべるようになる。
彼に、その髪を撫でられるのが、好きだ。
くしゃりと、あの少し骨ばった長い指が入り込み、まるで子猫でも撫でるかのように優しく。
誰かを好きになったのは、初めてだった。
大学を卒業したばかりで、就職浪人。なんとなく始めたカフェでのウェイターのバイトは、割と性に合っていた。元々コーヒーは好きだったし、食べることも好きだった。だから、何度か立ち寄ってコーヒーのおいしさに惹かれていたその店にバイト募集のチラシを見つけ、すぐに応募した。短い面接のあと、割とすんなり採用が決まった。
昔からあまり人と接するのは好きじゃなかった。親しくなれば足元をすくわれる。仲良くなれば余計なことまで露呈する。
物心ついたときには女には興味がなかった。だからと言って、開き直って男が好きだと周りに言える勇気も持ち合わせていなかった。だから、深く付き合う人間を持たなかった。
知り合いならいくらでもいた。表面的に付き合うだけならいくらでもできる。
いつから自分が笑わなくなったのか、もう覚えていなかった。
接客業なのに、俺はほとんど笑顔を作ることができなかった。長年そうしてきたせいだろう。店長は困ったような顔をして、バイト仲間は怪訝そうにし、厨房スタッフまでが口を挟んだ。けれど、俺の見た目はこの仕事に合っていたようで、知らず知らずのうちに来客数が増えていた。笑わない俺でも、需要はあったらしい。
自分のことは自覚していた。だからいつも、必死で努力する。周りから浮かないように、嫌われないように、少しでも付け入る隙を与えないように。
仕事は真面目にやった。それこそ誰にも負けないくらいに。絶対に手を抜くことだけはしなかった。話しかけられればきちんと対応し、付き合いが悪いわけでもない。店の中で、笑わない俺でもちゃんと認めてもらえた。いい職場だった。
毎日のように女性客に声をかけられること以外は、充実していたと思う。
けれど、俺は一生このままなのかな、と思っていた。
誰にも本心を見せず、笑えず、秘密を抱えて生きていくのかな、と。
始めのうちは夜と昼の両方にまんべんなく入れていたシフトを、昼だけに変えた。やっぱり、アルコールの入った客は少し大胆に、そしてしつこくなって、誘いをかわすのが大変になったからだ。
毎日開店から、バーにチェンジするまでが俺の勤務時間になった。その代わり土日は休み。休日の客層は平日と変わるので、さすがに愛想のない俺では対応が限られた。店長の心遣いもあったのだろう。それは嬉しかった。
平日の日中は、常連が多いことも知った。毎日同じ時間に通う人、決まった曜日にやってくる人、そして、曜日も時間もばらばらだけど、たまにその顔を見かける人。
彼も、そんな一人だった。
近くにオフィスがあるのだろう。常連とはいえないけれど、ランチの時間や、仕事終わりのひと時を過ごしていく。スーツ姿で、とても背が高かった。
一年くらいはただ、顔を合わせるだけだった。話をするでもなく、ただの客と店員でしかなかった。
一年。
常連は何人かその姿を見せなくなり、新しい常連ができた。こういうことにも入れ替わりはあるのだな、と思った。けれど彼は相変わらず来たり、来なかったり、通い詰めるとはいえない回数だけやってくる。
会計時に向かい合って、その背の高さを知った。多分185センチに少し足りないくらい。髪は短く、でもその髪質は柔らかそうだった。きりっとまっすぐに伸びた形のいい眉と、切れ長の鋭くも見える目、鼻筋は通り、口元は締まっていた。細いとは言えない身体には筋肉がついていて、多分スポーツをやっていたか、今でもやっているんだろうと思わせた。
お釣りを渡そうとしたときに少しだけ触れた指が、とても長かった。指先は四角く、男らしい手だと思った。その手に意識が行って、ほんの少し、間ができた。慌てて手を引いて彼を見上げると、目が合って、その顔が笑顔になった。
口の端が持ち上がり、鋭い目が柔らかく下がった。
──ああ、この人は、こんな顔をして笑うのか。
そう思ったら、俺の身体がどくんと揺れた。
彼はもう店を出て行ったあとで、俺はいの奥がぎゅっとわしづかまれたような苦しさを、その場に立ち尽くしたままで感じていた。
それから、彼が来るのが楽しみになった。
オーダーを取り、カップを運ぶ。そんなことが、人生の中でも上位に入るくらいに緊張した。
俺の愛想のなさは相変わらずで、彼に対してもそれを崩すことはできなかった。彼は時々俺に笑いかけてくれるようになったが、いつもぎこちなく会釈を返すことしかできなかった。
それだけで、手が震えるくらいに緊張している自分がいた。
それからしばらくして、ある日、窓際の席の彼に、本日のランチであるロコモコを運んでいったら、突然窓の外で大きな雨音がした。ロコモコの入ったボウルをテーブルに置いた俺に、彼が言った。
「すごい雨だな」
俺に話しかけているのか、独り言なのか、判断できなかった。けれど、俺は答えた。
「そうですね」
すると、彼が窓の外から俺にぱっと顔を向けた。少し驚いたような顔をしていた。俺が返事をするとは思わなかったのかもしれない。そして、その顔が、くしゃりと笑顔になった。
彼はそれで満足したのか、食事を始めた。半熟の目玉焼きにスプーンを突き刺し、とろりと流れ出る黄身をくるりとかき混ぜた。
ああ、もう、駄目だ。
俺はこの人を好きなんだ。
俺は一礼してカウンターに戻り、胃をわしづかまれていたわけじゃなく、胸が痛かったのだと知った。
それから、店にやって来た彼とは挨拶を交わすようになった。余計な話はしなかった。天気のことや、今日のランチの説明や、コーヒーの種類のことを、一言、二言。
それで充分だった。
それ以上を望みはしなかった。
俺の気持ちは永遠に封印しておかなければいけない。
ばれたら、終わり。
もう二度と笑ってくれないのだ、と思った。
だから俺は、無愛想なカフェ店員を続けた。
それからは、彼と短い言葉を交わすことだけが俺の人生のすべてになった。
食べることは好きだった。おいしいものを食べると幸せになる。だからと言って、いつもいつもそんな食事にありつけるわけじゃない。食べることは好きでも、俺に料理の才能は皆無だった。一人暮らしの食事は外食かコンビニ弁当、インスタント。味気ないが、現実なんてそんなものだ。
知り合いに誘われて食事や飲み会には参加する。そこで出される食べ物もおいしいとは思う。けれど、満たされない。
カフェのまかないはおいしいので、昼は必ずお願いしている。量は多め、というのもいつの間にか定着していた。ホントよく食うな、と厨房スタッフに呆れられたこともある。
気心知れた仲間と働くことは楽しかった。俺が無愛想でも、彼らは受け入れてくれた。
そして、俺はこのカフェに正式採用され、社員になった。大きなチェーン店ではなかったが、満足していた。他のスタッフともうまくやっていけると思った。
彼と出会って2年目、夕食を買いに入ったスーパーで、彼にばったり会った。
俺は面倒でカップ麺を買っていて、味気ない食事に内心うんざりしていた。
たまには、おいしいものでも食べに行こうかな、と考えていたときだった。
鉢合わせた彼は、驚いたように俺を見ていた。俺は動揺を隠すためにぺこりと頭を下げた。彼も慌ててそれに倣う。
彼の持っていたカゴには山ほどの食材が入っていた。
料理、するのかな。
そんなことを考えた。
その材料は一人暮らしにしては大量で、俺はそのとき初めて、彼が結婚しているのか、恋人がいるのか、そんなことを一度も考えたことがなかったことに気付いた。
人を好きになったのは初めてだったから。
急に恥ずかしくなった。
きっと、彼には待っている人がいるのだろうと思った。
そんな感情を知られたくなくて、その場を去ろうとした俺に、彼が言った。
「飯を食いに来ないか?」
俺は呆然とし、けれど、なぜかはい、とうなずいていた。
彼はアパートに一人暮らしだった。買い物袋を置いて背広を脱ぎ、ネクタイを緩めた。その指先に、どきんとした。ネクタイを抜き取った彼は狭いキッチンに入った。買ってきた食材を広げ、手馴れた様子で仕分けていく。俺は、迷惑かもしれないと思いつつも、キッチンに入って彼の手元を見ていた。この指がどんな料理を作るのか、とても興味があった。彼は気にしていないかのように料理を始めた。
鶏肉はサラダになった。焼いた鶏肉にナイフを入れるとき、ぱりっといい音がした。ジャガイモはパンケーキになった。明太子のパスタを作り、鰯がまるで嘘みたいにするするとあの指先で開かれていく。大きな豚肉の塊にハーブや調味料をすり込んでいるのを見たとき、俺は完全に欲情していた。
その考えを無理矢理閉じ込め、できるだけそんな目を向けないように注意した。
けれど俺は彼の手を、指先を舐めるように見つめていた。
触ってほしい、と思った。
料理が出来上がる頃には、俺は完全に思考を乱されていた。
この人が、好きだ。
けれど、それは告げることのできない気持ちだった。
テーブルに並んだ料理を食べたときの感動は、今も忘れない。こんなにおいしい料理を食べたのは初めてだった。
勢いよくそれを食べた。
おいしい。
止まらなかった。ふと彼を見ると、ふっと笑った。急に恥ずかしくなって、料理を飲み込むのに苦労した。
ああ、この人が好きだ。
この人の作る料理がこんなにおいしいのも、きっと──
泣きたくなるくらい、苦しかった。気付かれないように、俺は料理をひたすら食べ続けた。彼はそんな俺を見て満足そうに笑っていた。
ほとんどの料理を、俺が食べ尽くした。食べている間、彼がぽつりぽつりと話していた。料理を作るのは趣味なんだ、とか、ストレス解消なんだ、とか。
ようやく人心地ついて、俺はふぅ、と息を吐き出した。
食事が楽しかったのは、こんなにおいしいと感じたのは、一体いつぶりだったんだろう。
彼は缶ビールを飲んでいて、そんな俺をじっと見ていた。なんとなく目を合わせられなかった。
斜め横に座る彼が、ビールの缶をテーブルに置いた。
その指先が、目に入る。
触れて。
そんな思いは胸の奥に閉じ込めた。
彼が言った。
「うまかったか?」
俺は顔を上げ、笑う。久しぶりに心から笑った。
たとえ叶わなくても、俺はこの人が好きだ。
一緒にいられただけで、一緒に食事ができただけで、俺はもう、苦しくなるくらい幸せだった。
「────」
彼の顔から、笑顔が消えた。
そんな彼に、俺は一瞬不安になった。
──俺は、何か間違った?
そう思った瞬間、彼の左手が伸びてきて、俺の後頭部を引き寄せた。
ビールのにおいと、わずかな苦味。俺の舌はそれを感じ取った。俺の唇を彼の舌がなぞった。
「そんな、顔──」
彼のつぶやきは、俺の耳に届く前に掻き消えた。
がらんとしたキッチン。
俺はぱちんと電気をつけた。
一人の夕食は味気ない。
彼の食事はいつも、おいしい。料理の腕はもちろんだが、理由はそれだけじゃない。俺はもうそれを知っていた。
彼と一緒だから。
向き合って、笑い合って、食事をする。
そんな毎日が、こんなにも幸せだなんて、知らなかった。
胸に閉じ込めて封印することを決めたはずの気持ちを、解放した。そうしたら急に楽になった。今はもう、昔みたいに悩まない。
彼が好きだ。
誰にも知られないように日々を過ごしていたのに、今はそんなことすらどうでもいいと感じていた。
俺が食べたコンビニ弁当の空き容器が、水切りカゴに立てかけられている。
俺はキッチンの電気を消して、そこを出た。
彼は今日、会社の人との飲み会だ。だから、夕飯は一人で適当に済ませた。見たくもないテレビを見て、胃に詰め込むだけの食事をした。雑誌を見たり、パソコンをいじったりしてみたが、どうも時間が余ってしまうので、ベッドのシーツやカバーも取り替え、彼のワイシャツや俺の制服にアイロンをかけた。あまりに暇だったので、ついでに取り込んだ洗濯物にもアイロンをかけた。靴下や、下着まで。そんなことをしている自分に笑えた。
俺はソファに座って膝を抱える。
毎日は幸せで、おいしい料理を食べて、彼と一緒にいられる。
それがとても嬉しい。
玄関で鍵の開く音がした。俺が顔を上げると、リビングに彼が入ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま。まだ起きてたのか?」
ネクタイを緩めながら問う。その指先を見て、俺は笑う。長い、骨ばった指。俺の好きな指。
「もう、寝るよ」
「そうか」
「楽しかった?」
「いや、上司がねちねち部下を説教して、俺は板ばさみ」
溜め息混じりにそう言って、スーツを脱いだ。洗濯物が畳まれていることに気付いて、サンキュ、と言った。そしてそこから部屋着を引っ張り出した。
「なんじゃこりゃ」
やたらきっちりとした部屋着を着て、彼は他の洗濯物も確かめる。下着を持ち上げ、呆れたように俺を見た。しわ一つなくぴしりとプレスされたそれを、どうしたものかと考えているようだ。
「暇だったから」
「暇でもこれはちょっと変だろ」
これじゃだらけられねーよ、と着ているスウェットを見下ろす。それでも仕方ないな、と溜め息をついて、キッチンに向かった。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、飲む。
「コンビニ弁当か?」
「うん」
「うまかった?」
「まあまあ、の、下」
「──それは、うまいのか、まずいのか?」
「詳しく突っ込まれると困るくらいの味」
ふうん、と彼が言って、しばらくペットボトルを傾けていた。
「何か、食う?」
俺はぴょこんと顔を上げ、にこりと笑ってみせる。
「今日の飲み会は、どうも食ったそらなくてな。──昨日酢の物にした残りのタコがあるから──」
そう言いながら冷蔵庫を覗き込んでいる。
俺はカウンターのスツールに腰掛けて、彼の姿を特等席で見物だ。
タコは細切れ、万能ねぎは小口切り、にんにく少々はみじん切り。フライパンでにんにくとタコ、万能ねぎをいためて余りご飯を入れ、上から溶き卵を回しかけて手早く炒める。塩コショウで調味し、鍋肌からしょうゆをじゅっと回しかけて、タコチャーハンの完成。
ついでに、と、瓶詰めの塩うにを酒でとき伸ばし、千切りにしたかまぼこと万能ねぎの和え物を作る。
彼の手が好きだ。
手早く、無駄なく、料理を作る。
チャーハンを盛り付け、梅干を添える。俺がそれをテーブルに運んでいると、とろろ昆布としょうゆ、味の素で簡単なお吸い物まで作ってくれた。
「いただきます」
俺は両手を合わせて言った。
もちろん、おいしかった。
それらをすべて平らげてから、俺は彼の隣にすり寄り、抱きついた。彼はしょうがないな、というような顔で俺の頭を撫でた。
「ちょっとぱさついてるな」
優しく、柔らかく、ゆっくりと。彼の手が俺の髪を撫でる。
この手が、指が、そして彼のことが、大好きだ。
俺が初めて好きになった人は、俺をとても幸せにしてくれる。
「ちゃんと乾かしたのか?」
俺の髪を触りながら、彼が訊ねた。けれど俺はその手の動きと彼の声の心地よさに飲まれ、そのままうとうとと眠りに引き込まれていた。
「──寝たのか?」
彼の問いかけに、答えることはできなかった。
本当は先に寝ていてもいいと言われていた。けれど、待っていたかったのだ。
ひと目だけでも顔を見たかったんだよ、と告げたら、彼はどんな顔をしたんだろう。
結局、それを告げることも、その顔を見ることもできなかったけれど──
「愛してるよ」
眠りに落ちる前に、彼の言葉だけは、しっかりと、聞き取った。
了
「kitchen」シリーズ(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884132567)の「kitchen」(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884132567/episodes/1177354054884132716)とリンクしています。
よろしければそちらもどうぞ。
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