kitchen


 キッチンは俺のテリトリーだ。

 と、言うのも、一緒に住むお前がまったくと言っていいほど料理をしない。簡単なことは頼めば手伝ってくれるが、自主性に任せて何か作らせれば、大抵は失敗作になる。食材を切るところからして大雑把で、千切りは大きい短冊切りになるし、乱切りはただのぶつ切り、ふざけて千六本で頼む、と言ったら本気で一本ずつ数えながら切っていた。

 そんな姿をj眺めて含み笑うのも結構楽しいが、基本的に料理は俺がする。

 じっくりと含め煮するはずの煮物を、強火でがんがん煮立たせて焦がされたら、もう任せようなんて思わないだろう。

 そんなお前と一緒に暮らし始めて約一年が経つが、初めて会ったときのことを時々思い出す。

 あの時はこんな風に一つ屋根の下で生活するなんて、思ってもいなかった。

 ましてや、毎回毎回、同じテーブルで食事をするたび、俺の作る料理を片っ端から食い尽くしていく、なんて、誰が想像しただろう。そのひょろりと細い身体の一体どこにその料理たちは入っていくんだ?


 初めて会ったのは俺がまだ20代の後半で、お前は20代の半ばに差しかかったとき。お前は俺の働く会社のそばにあるカフェでウェイターのバイトをしていた。

 行きつけ、と言うほどでもないが、そのカフェには世話になっていた。仕事の合間、昼休み、仕事終わり、ちょっと一息ついたり、軽い食事をしたり。そんな風にぽつぽつと通っていた場所だった。

 お前はあまり愛想のいい方ではなかったが、するんと細身の身体に、やたらきれいな顔が乗っていて、女性客には結構騒がれていた。確かに、ウェイターの制服とギャルソンエプロンがよく似合っていて、目を引いていたのは認める。一杯のコーヒーでぼんやり時を過ごしながら、にこりともせずに真面目に仕事をしているお前をよく見ていた。

 別に、始めから下心があったわけじゃない。だって、片手分も年下の若い男に手を出すような度胸はなかったから。こっちはさして二枚目とは言えない、ごくごく普通のサラリーマンだ。きらきらと輝きを放ちながら女性客を虜にする、ノンケか同類かも分からない男を、一体どうしろっていうんだ。

 お互いの存在を認めてはいたが、会釈するだけの挨拶を交わすようになるまで約一年、形式的な会話を交わすようになるまではさらに半年かかった。

 別にそれでいいと思っていた。相変わらずお前は笑顔を見せずに接客し、俺はそんな姿を眺める。たまに女性客に話しかけられているところを見たが、相手にしていないのは明らかだった。そっけなくそれをかわし、何事もなかったかのように仕事に戻る。

 あれだけ女が意識しているんだから、普通は愛想の一つも振りまかないか? ちょっとは喜んだりしないのか?

 ──あいつ、どうしたら、笑うんだ?

 多分、それが始まり。


 初めて会ってから2年目、偶然スーパーで鉢合わせた。俺は夕飯の食材をカゴに入れ、お前はミネラルウォーターのボトルやらインスタント食品やらを買い込んでいた。

 ばったり、という感じで向かい合ったとき、俺の顔と同時に、お前は俺の手のカゴをも一緒に確認した。とても素早く。

 その日、俺は仕事でちょっとしたミスをして、イラついていた。このストレスを解消するために、とにかくうまいものでも作って、ひたすら食ってやろうと思っていた。その頃から料理は俺の趣味みたいなもので、ストレス解消の特効薬でもあった。

 ぺこりと頭を下げられて、俺は慌ててそれに倣った。

 お前の持つカゴの中のインスタントラーメンを見て、意外だと思った。

 この均整の取れた細身の身体や、つるりと色艶のいい肌や、無愛想だがとても綺麗に整ったこの顔が、こんなもので出来上がっているのだとはとても考えられなかった。

 ──なぜか。

 唐突に。

 天気や、最近どうですか、なんて、中身のない会話しかしたことのないお前に、俺は声をかけていた。

「飯を食いにこないか?」

 そのときのお前の顔にはなぜか驚きの色は見えなくて、はい、という返事に狼狽したのは俺の方だった。

 気がつけば俺のワンルームのアパートにお前がいて、俺は狭いキッチンにいた。

 訳が分からない。どうして俺はとっさにあんなことを言ったのだろう。そしてどうしてこいつは大して親しくもない俺の誘いをすんなり受け入れて、挙句部屋にまでやってきたのだろう。そしてなぜキッチンで作業する俺の手元を、さっきから隣で穴の開くほどじっと見つめているのだろう。

 料理をしながら、頭の中はぐるぐるとそんな考えがめぐる。手は勝手に動くが、思考はついてきていない。

 ああ、なぜ。どうして。

 ともかく肉だ。

 鶏モモ肉を皮目からカリカリに焼いて、一口大にスライスする。なんだかこれだけでも充分メインだが、もちろんただの前菜。ベビーリーフとサニーレタス、スライスオニオンのサラダに乗せ、マスタード多めのドレッシングをかけてピンクペッパーを散らす。

 茹でた砂肝はレモン汁とオイルに絡め、おろしにんにくと好みのハーブを加えて塩コショウし、マリネにする。このまま冷まして味を馴染ませておく。

 ジャガイモはすりおろしたものと千切りにしたものを半々で混ぜ合わせる。決して水にさらしてはいけない。ここに小麦粉と牛乳少々、塩を加え、混ぜる。フライパンで適当な大きさに薄く伸ばして焼き色がつくまで火を通してポテトパンケーキ。そのままでも充分うまいが、サワークリームとはちみつは好みで。

 冷蔵庫につまみにしようと思って買っておいた明太子があったので、ほぐして茹でたパスタと混ぜ、裏ごししたクリームチーズと加えて余熱で少しとろりとさせ、生クリーム少々。たらこのクリームパスタも作る。

 魚も食っておこうかな、というわけで、いわしはシンプルに、手開きして香草パン粉をまぶし、オリーブオイルで焼く。

 メインは豚肉。塊のそれに包丁でぶすぶすと穴を開け、生のローズマリーを差し込み、塩コショウ、おろしにんにく、少量のはちみつ、それに好みのドライハーブをもみこむようにすりつける。俺はオレガノたっぷりが好みだ。そのまま半分の切った玉ねぎや、適当に切ったにんじんとともにオーブンに放り込む。焼きあがったら好みの厚さにスライスして、ブラックペッパーを粗挽きでふりかける。

 料理が出来上がる頃には、俺のストレスはどこかへ吹っ飛んでいた。

 その間、飽きることなくお前は俺の姿を見ていた。

 狭い部屋に似合いの、小さなテーブルに並びきらない料理。ウェイターらしくスマートにそれらを運ぶと、お前は伺うように俺を見た。

 ビールを開けて形だけの乾杯をする。食えよ、と促すと、遠慮もせずに食いついた。

 一口食べて、少し止まる。

 口に合わなかったのか、と思った次の瞬間、お前がすごい勢いでそれらを食べ始めた。

 呆気にとられた。

 済ました顔でコーヒーを運ぶお前の姿しか知らなかったから、まるで万年欠食児童のようにがっつく姿なんて想像もしなかった。けれどその食べ方はマナーの悪いものではなかった。

 姿勢も、カトラリーの使い方もきれいで、いい男はものを食べている姿もさまになるもんだな、なんて思った。

 とにかく、こんな風に食べてくれるなら、作ったかいがあったというものだ。

 なんだか捨てられていた犬を拾って餌付けしている気分になった。だから少し、笑った。そうしたらお前がこちらを見て、目が合うと、別に責めていたわけでもないのに食べる勢いを自重した。

 あんなにあった料理が、どんどんなくなっていく。おいおい、一体どこにそんなに入るんだよ? お前の身体、ブラックホールにでもつながっているのか?

 ようやく落ち着いた頃、俺は訊ねた。

 うまかったか、と。

 お前はまっすぐ俺を見て──笑った。それはもう、いい笑顔で。

 ああ、こいつが笑うと、こんな顔になるのか、と思った。いつもの無愛想な顔からは想像もできない、幼い顔だった。まるで子供みたいに、花が咲くような、満面の笑み。

 その瞬間、俺は左腕を伸ばしてお前の後頭部を自分の方に引き寄せ、キスをした。

 たまらなかった。

 その顔は反則だった。

 お前はなぜか、抵抗しなかった。


 まあつまり、そういうことだったのだろう。

 あれだけ女性客にモーションをかけられていても冷たくあしらっていたのは、こっち側の人間だったからで。

 多分あの日、お前は俺に餌付けされてしまったんだろう。

 俺はキッチンで夕食の支度をしながら、あの日のことを思い出す。久しぶりに食べたい、と言うお前のリクエストでチキンサラダとローストポーク。あの日のメニュー。どちらも肉なのは、こいつが肉食だからだ。まあ、基本的に好き嫌いはないので助かってはいるが。たまにはこんな風に偏ったメニューになることもある。

 お前はあの頃の俺と同じ年になり、俺は30を超えてしまった。相変わらずどれだけ食っても太らないお前に対し、俺は注意しないと腹回りが気になる年だ。まだその兆候はないが、注意するに越したことはない。

 そして今もお前は料理する俺の手元を見ている。

「楽しいか?」

 お前がうなずく。

「うん。ぜんぜん飽きない」

 一緒に暮らそうと決めたとき、カウンターのあるキッチンはいいと言ったのはお前だった。キッチンは確実に俺のテリトリーになるはずなのに。

 その理由が、これだ。

 料理をする俺を見ていたいから。いや、料理する俺の手元を、かな?

 そう言ったら、あはは、と笑って、

「そんなの、どっちもに決まってるじゃん」

 それは単純に、嬉しい。手元だけ、と言われていたら、なかなかのショックだ。

 俺が料理をしているとき、お前の定位置はカウンターの向こう側で。微妙に離れたその距離が少しもどかしかったり、逆に安心したり。

「料理してる姿はね、すごく、かっこいいよ」

 そういってふわりと笑うから。こう、もやもやと湧き上がる下心。

 なのにカウンターに挟まれて、しかも豚肉相手に格闘している俺の両手は、にんにくとハーブとはちみつと塩コショウでべたべただ。

 自重。

 精神統一してそれらを豚肉の塊にすり込む。

 あとはオーブンの仕事だ。焼きあがるまではたっぷり時間があるから、調理道具の後片付け。お前も手伝って鍋やらバットやらを洗ってしまう。

 今は二人用になり、広さを増したテーブルに料理を運ぶ。向かい合って、並んだ料理にひゃーと感嘆するお前とビールで乾杯する。丁寧にいただきます、と両手を合わせ、今日もお前は料理をぱくつく。

 俺も一緒に食べ始めるが、お前より食う量は少ない。だからお前より早く食事を切り上げ、正面だった席を隣り合う角越しに移してビールを飲む。何でって、まあ、ちょっと近づきたかっただけだ。

 俺の左側、テーブルの角を挟んで、お前がおいしそうに料理を平らげていく。だから、どこに入るんだ、その料理。

「あの時さ」

 そう言うと、お前は料理を食べる手を休めずに俺を見る。

「何でついてきたんだ、お前」

「お腹へってたから」

 なんとも簡潔な答えだ。そして即答だ。

 つまりあれか、俺の顔と買い物カゴを同時に見たときに、俺が何か作るのだと分かっていたってことか。俺は、レストラン代わりにされてたわけだな。

「そーかよ」

 俺は投げやりにつぶやく。

「──ま、あれがきっかけだったからもう今さら何も言わないけどさ。ああ、そういえば、あれだな。お前、あんだけ店の客に声かけられてたのに、ちっとも誘いに乗らなかったの、女に興味なかったからだったんだな」

 俺と同じ側の人間なら、どんなに女に誘われようと、うるさいだけだ。恋愛対象が異性ではないのだから。

 お前はぴたりと食べる手を止め、はあ? と眉をひそめた。

「何言ってるの?」

 怪訝そうな顔をして──それからローストポークを一口食べる。それ、一体何枚目だよ?

 それからおもむろに深い溜め息をつき、

「そんなの、あんたのこと好きだったからに決まってるでしょ」

 ああ、やられた。

 完全に。

 俺はその言葉を聞いたあと、尋常じゃないくらい赤面した。お前がぽかんとしてそれを見て、次の瞬間、腹を抱えて大笑いした。

 あんなに無愛想だったカフェ店員は、今は俺の前で簡単に笑う。

 俺はその赤くなった顔を、飲んでいたビールのせいだと言い続け、はいはいそうですね、なんて少しも思っていないくせにお前が言い、俺の顔を見てからさらに涙を流しながら笑い続けた。

 テーブルの上の料理はきれいに食べ尽くされ、俺はそっぽを向いてビールを飲む。

 ふて腐れている俺の唇を、ようやく笑いの止まったお前が奪いにくるまで、あと数秒。

 俺が再び赤面し、お前がまた大笑いするまで、あと数十秒。

 仕返しに俺がお前を押し倒して、散々笑ったことを後悔させてやるまで──あと何秒?


 了



 「kitchen~another eye~」シリーズ(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884132930)の「some as you~another eye~」(https://kakuyomu.jp/works/1177354054884132930/episodes/1177354054884132943)とリンクしています。よろしければそちらもどうぞ。

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