chicken breast fever


 確かにお前が怒っていたことは知っていたけどな。

 その理由がいまいち分かっていない俺にも反省すべきところはある。

 でもな、だからってこれはないだろう。嫌がらせにもほどがある。

 俺はキッチンで途方に暮れる。

 鶏のササミ50本って、何考えてるんだ、お前?


 お前は朝から機嫌が悪かった。

 それは俺が昨日しこたま飲んで帰ってきたことが発端で、夜中にがんがんと玄関のドアを叩いてぐっすり眠っていたお前を起こしたことから始まった。

 ちゃんと自分で鍵を持っているのに、どうしてそれを使わなかったかって?

 そりゃ、あれだ。酔ってちょっと甘えたかったからだ。

 玄関を開けたお前に抱きついて、酔っ払っちゃったよーなんて言いながら、水の一杯も差し出してもらいたかったからだ。

 ついでに俺より背の低いお前にずるずる引きずられてベッドまで運んでもらって、重いんだよなんて文句の一つも言われながら、無理やり同じベッドに引きずり込んで、そのまま一緒に眠りたかったからだ。

 いつもは別々の部屋で寝ているけれど、たまにはそんな風にぬくもりを感じたくなることだってあるだろ? 酔っていれば尚更さ。

 不機嫌そうな顔で玄関を開けたお前は、俺の腕をぐいっと引っ張って家に入れると、そのまま玄関に倒れこんだ俺を放置して自室に戻っていった。

 ──そりゃないよ。

 足元ふらふらでなんとかタクシーを降りた俺に、立ち上がる気力はなかった。だからそのままずりずり匍匐前進して何とかキッチンまでたどり着き、ミネラルウォーターのボトルを取り出そうとした冷蔵庫の前で力尽きた。

 朝、キッチンの真ん中で潰れたカエルのようになっていた俺を、お前が踏んだ。それで、ぐえ、と声が漏れて目が覚めた。

 普通踏むか、恋人を。

 お前の覚めた視線が、とても痛い。

「邪魔」

 そう言って俺を転がしてスペースを作ると、冷蔵庫を開けた。昨日俺が手にできなかったミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、ごくごくと飲んでいる。上下する喉に、俺はつばを飲む。限界まで乾いているのは俺なんだけど。

 変な格好で眠っていたからか、身体がだるい。お前に転がされたまま、しばらく動けない。だから視線で訴えてみた。

 けれどちっとも気付かない。

 もしもし、お前の愛しい恋人が、水を欲していますよ。

 根気がないんで視線で訴えよう作戦はやめた。素直に呼びかけてみる。

「俺にもくんない?」

 お前はじろりと俺をにらみ、多少の逡巡のあと、飲んでいたボトルを渡してくれた。

 俺は冷蔵庫に背中を預けるようにして身体を起こし、それを受け取る。一口飲んだら止まらなくなって、残りを一気に飲み干した。

 生き返った。

「サンキュー」

 お前は空になったペットボトルを受け取り、水道で軽くゆすぐと、水切り籠に逆さにした。

「で?」

 それから振り向いてそう言った。だから俺は聞き返す。

「で?」

「言うことは?」

「えーっと」

 何かあったか? そう思って考え込む。お前が目の前にしゃがみこんで、俺と目線の高さを合わせた。寝起きなのに、きれいな顔してるな、と思う。多分俺は駄目だ。二日酔いだし、潰れたカエルだし、髪も格好もぐちゃぐちゃだ。同じ男でも、朝から小ぎれいなお前とはずいぶん違うよな。

 ああ、そういえば朝だった。だから言った。

「おはよう」

「おはよう。──で?」

「で?」

「何か他に言うことは?」

「えーっと」

 また、考える。

「ああ」

 ぽんと手を叩き、納得する。

「愛してるよ」

 本気だったのに、殴られた。

 しかも右ストレート。

 お前さぁ、本当にひどいんじゃないか、今日は。

「謝って」

 立ち上がったお前の顔は、まるで地獄の閻魔のようだった。蔑むように見下され、ぞっとする。

「な、何を?」

「反省して」

「えーっと、だから」

「もうしないって誓って」

 感情のこもらない淡々とした口調が、逆に怖い。

 大体、こいつの怒りはいつものは静かだ。口げんかになっても根気がなくすぐ黙る俺に合わせてか、同じようにだんまりになる。けれどぴりぴりした空気はいつまでもまとったままだし、視線も射るように鋭い。こうやってじりじりと追い詰めてくるのはかなり本気で怒っているときで、俺が何を言おうと、何をしようと無駄である。

 とりあえず、謝ることにした。どうせけんかになっても、折れるのはいつもこちらだ。今さら意地を張っても仕方がない。

「ごめんなさい。反省してます。もうしません。誓います」

 頭を下げると、お前は一つうなずいて、キッチンを出た。去り際、お腹すいた、と言い残して。だから朝飯を作ることにした。それで機嫌がよくなるなら万々歳だ。

 ボイルしたソーセージにスクランブルエッグ、作り置きしていたゴボウのサラダ。それにトースト。面倒だとも思ったが、いつもは電子レンジで温めるだけの牛乳を、ミルクパンできちんと沸かしてカフェオレも入れる。

 テーブルを挟んで二人で黙々と食べる。

 お前の眉間にはまだ少ししわが寄っていて、完全に怒りが消えたわけではなさそうだ。だからなるべく明るく話しかけてみた。

「いやー、昨日は久しぶりに学生時代の仲間と会ってさ」

 さくさくさくさく。トーストをかじる音だけが返ってきた。めげずに話す。

「週末でどこも混んでるだろうと思ってたのに、運よく予約取れてさ。ほら、前に、今度行ってみようってお前とも話してた鶏料理の店」

 ぴくりとお前の肩が揺れたが、気にせずに続けた。

「やっぱ正解。めちゃくちゃうまかった。お前、ササミのたたき、食ったことある? あれ、最高だな。酒にも合うし」

 ビールから始まった飲み会は時間を深めるごとに飲む酒のアルコール度数も高くなっていった。お湯割とかウーロン割だったはずの焼酎がいつの間にかロックになって、そこに日本酒も加わって、何がメインで何がチェイサーだか分からなくなった。

 気付けばべろべろに酔っていて、やたら浮かれていたような気がする。

「あー、あれ、ササミ、新鮮じゃなきゃ駄目なんだろうなー。もっと食いたかったなー。スーパーのパックのじゃ作れねーよなー」

 店で出てきたのは表面を炙ったものだったが、家で作るなら湯引きの方が楽だろう。煮立ったお湯にさっとくぐらせて、氷水に。表面は白く引き締まり、中は柔らかく生。それをスライスして、万能ねぎの小口切りなんて散らしたら、充分見栄えする。

「あー、食いたいな、ササミ。うまかったなー。生でも食えるササミって、どこで売ってんのかな。この辺で買えんのか? 調べてみるかな」

 味付けはどうしよう。わざび醤油か柑橘酢醤油、酢味噌や梅肉ソースなんかもいけそうだ。

「ササミササミ。あ、薬味もちょっと凝ってみたいりするかなぁ」

 まだ新鮮ササミが手に入ると決まったわけでもないのに、そんな思いを馳せる。

 だってさ、お前と二人で日本酒傾けるのも、悪くない。そう思わないか?

 ところが。

「──さっきから」

 地獄の底から響いているのか、ってくらい、低く押し殺した声がした。

「ササミササミってうるさいんだよ!」

 テーブルを叩きつけ、お前はぴりぴりを通り越したびりびりとした空気を身にまとって、ずしんずしん音を立てんばかりにして去っていった。自室のドアがばたんと大きく音を立てて閉まった。

「──え?」

 怒鳴られた理由が分からない。

 なんにせよ、どうやら俺はまたやらかしたらしい。完全にあいつを怒らせた。

 しかし、テーブルの上の食器に目をやると、それはすべてきれいに空だった。怒っていても俺の作った料理はきちんと食べるんだな、と思ったら、思わずにやけた。


 せっかくの土曜日なのに、俺は完全に二日酔いだった。だから朝食の後片付けのあと、自分の部屋に戻って、今度はちゃんとベッドで眠った。寝入りばな、お前が玄関の扉を乱暴に閉めて外に出て行ったのに気付いたが、見送る余裕はなかった。

 たっぷり夕方近くまで惰眠をむさぼった。酒臭い身体を清めにバスルームに行くと、朝目を覚ました時よりもひどい状態の自分の姿が鏡に映っていた。目は充血、頬にはよだれとシーツの跡、髪は爆発、服はしわしわのよれよれ。

 これでも一応、きちんとしているときは見られるんだぜ。なんて自分で自分を慰めてみる。

 朝からさわやかに小ぎれいなお前には負けるけどな。それとも単に年のせいか? お前はまだ20代で、俺はもう30過ぎだからな。

 シャワーでさっぱりして、きれいな服に着替えてリビングに行くと、お前がソファで雑誌をめくっていた。地元情報誌である。なぜかこいつはこれをよく買う。おいしいレストランとか、イベント情報とか、デートスポットとか、そんなものがたくさん載った雑誌を、飽きることもなく眺めている。

 ああ、そういえば、昨日行った鶏料理の店も、この雑誌で知ったんだったな。

 二人でソファに座って、一冊の雑誌を覗き込んだ時のことを思い出す。今度はここに行ってみよう、なんて言いながら指を差すお前に、触れたり、キスしたり、時々ちょっかいを出しながら。

 ──まあ、たまにはそんな甘い雰囲気の時もあるのだ。

 今はとても近づけやしないけどな。

 ははは。自嘲してみる。空しくなっただけだった。

 溜め息をついてから、コーヒーでも入れようかとキッチンに入った時、何か違和感を感じた。その違和感に目をやる。、

 キッチンの作業スペースに、それはあった。

 ラップがけされた無数の食品発泡トレイ。

 ──ええと?

 俺はカウンターの向こう、ソファの上のお前を見た。もちろんこちらを見てくれたりはしない。ただ無言で雑誌をめくっている。

 それはすべて、鶏のササミだった。

 仕方ないから数えてみた。合計50本。

 気を利かして買ってきてくれた新鮮ササミではない。普通にスーパーに売られている、解凍ササミだ。つまり、生で食うなんてできない代物である。

 これを俺にどうしろと?

 また、お前に目をやる。さすがにこれは黙っていられなかった。だから、おい、と声をかける。

 俺が、何考えているんだ、と言う前に、お前が先制した。

「あーあ、俺もおいしいササミ食べたいなー」

 内容に反して、その口調に甘えなど欠片もない。棒読みのような台詞だった。

 まだ、怒っている。しかも、かなり。

 ──ああ、また俺が折れるのだ。

 久しぶりに会った友人と飲むのがそんなにいけないことなのか? 二日酔いって、そんなに罪なことなのか?

 うなだれながらササミを見つめる。

 2、3本入ったものや、少し多めに5、6本入ったもの。トレイの大きさは様々だ。一つのスーパーだけでは足りなくて、何件かハシゴしたことは、表示シールの店舗名で分かる。つまり俺が眠っている間、お前はこれをあちこちのスーパーに買いに行っていたのだな?

 その根性に敬服する。ササミばかりを買い占める20代後半の男を、レジの人はどう思っていたのだろう。自棄なのか意地なのか、お前はとことんやってくれるよな。

 俺の根気のなさと足して2で割れば、かなりいい感じなんじゃないか?

 考えていても仕方ない。俺は腹をくくった。

 怒っていたのに俺の作った朝食はきちんと平らげてくれたお前に、敬意を表することにした。

 まあ、ただ単に腹が減っていただけなのかもしれないが。

 でも、俺だって多少は頭にきている。だから少しだけ嫌がらせのつもりで、メニューを決めた。

 50本のササミフライである。

 ひたすらササミフライを食わせてやろうじゃないか。

 ふははははは、とこみ上げてくる笑いをなんとか抑えた。

 そうと決まったら準備である。俺は冷蔵庫だの戸棚だのを開けまくり、フライの間に挟む食材を探しまくった。何せ50本だ。ただのフライじゃ飽きてしまう。

 ああ、しかしちょっと待て。50本のササミの筋取りって、考えただけで気が遠くなる。

 少しめげた。

 でも涼しい顔でソファに座るお前を見たら、めらめらと燃えた。

 たまには根性見せてやる。

 開いたササミに挟むものをとにかく考えまくる。

 定番ぽくチーズとしその葉、梅肉としその葉、柚子味噌なんかもいい。

 プチトマトと柚子胡椒なんてのも合いそうだ。だったら塩とオリーブオイルを絡ませた豆腐や、スライス玉ねぎと作り置きのピクルス、ドライトマトにバジルペーストなんてのもいけそうだ。

 カレー用のらっきょうとか、タルタルソース、えのき、今朝も食べたゴボウサラダ、常備菜のきゃらぶき、つまみ用のブラックオリーブ。ああ、スライスした豚肉を挟むなどという暴挙に出るのもありかもしれない。

 全部に具が挟んであると見せかけて、何も入っていないフライも作ろう。

 作り始めたら楽しくなってきた。筋取りは骨が折れたけれど、いざ作り始めれば、普段の料理と変わらず、楽しいものだった。

 衣を着けて油に落とし始める頃、お前が近づいてきた。どうやら料理が気になるらしい。

「フライ?」

 さすがに50本のフライを作るなどとは思っていなかったに違いない。衣をまとい、揚げられるのを待つだけになったササミたちが、ステンレス製のバットの上に鎮座している。その数にお前がぎょっとした。

「まさか、全部フライ?」

 俺はうむ、とうなずく。

「本気?」

「もちろん」

 ぽかんとして、しばらく俺の顔を見ていた。それからお前ははあ、と肩を落とした。そしてくくくと笑い出す。

「まさかそうくるとは思わなかった」

 おかしそうに笑い続け、ひとしきり笑って、涙目で俺を見る。

「降参」

 両手を上げる。

「さすがにちょっと、嫌味だと思ってたから」

「そうだな、この数は、ひくな」

「だって、頭にきたから」

 カウンターに肘を着いて俺の手元を見ている。じゅわっと音を立てて綺麗なキツネ色に上がるササミたちを、次々に引き上げる。飲食店じゃあるまいし、50本ものササミフライを揚げたのは初めてだ。揚げるだけの作業も、結構疲れる。

「昨日は二人でゆっくりご飯食べられると思ったのに」

 そういえば、今週はずっと、仕事が忙しかった。お互い時間が合わず、朝、顔を合わせるだけの生活が続いていた。二人で向き合ってのんびり夕食を食べたのは、いつが最後だっただろう。

「なのに、急に遅くなるってメール一本でさ」

 ああ、そういえばそうだった。飲みに行く、遅くなる。そんなそっけないメールを夕べ、お前に送った。

「久しぶり、だったんだよ」

 すねたように口を尖らせる。やばい、キスしたくなるじゃないか。

「ちょっとでも顔見たかった」

 そういって上目遣いで俺を見上げる。だから、やばいって、その顔。

「なのにぜんぜん帰ってこないし。挙句の果てに寝てるところを叩き起こされるし。しかもべろべろに酔って、俺なんか目に入ってないし」

 いや、目に入ってなかったんじゃなくて、焦点が合ってなかっただけなんだ。第一、抱きつこうとした俺を玄関に放って行ったのはお前じゃないか。まあ、何を言ってもあとの祭りだけどな。

「それに」

 ぽつん、と言葉を切った。

 言おうか、言うまいかどうしよう、そんな顔をしている。

 俺はササミを揚げ続け、合間にわかめと油揚げのシンプルな味噌汁を作った。ご飯はさっき、タイマーで炊き上がっている。

「あの店、行っちゃうから」

 油がはねる音で、聞き逃すところだった。俺は目を見開いた。

 鶏料理の店。

 お前が雑誌を指差して、行ってみようと言った、あの店。

 なんだ。

 つまり、それは。

「初めて行くのは、俺とにしてほしかった」

 ああ、だから、かわいすぎるんだ、お前は。

 今すぐに菜箸を放り出して、抱き締めてやりたい。けれどあいにく揚げ物の間は火から離れられないし、お前の身体はカウンターの向こうである。

 ああ、くそ。タイミングの悪さに、10回くらい舌打ちしてやりたい。

「悪かった」

 俺は頭を下げる。

 どう考えたって、俺に非があった。間違いなく。

「分かればよし」

 急に偉そうに胸を張り、お前が笑った。久しぶりに見た笑顔だった。

 それから二人で夕食を囲む。今度こそ、ゆっくり二人きりの夕飯だ。

 お前が食卓を整えて、二人でテーブルについた。お互いの手がぶつかって、ちょっと照れた。赤くなった顔がますますかわいい。そんなことで赤くなるなんてガキみたいだと思ったけれど、多分俺も赤くなっていたのだろう。お前がおかしそうに笑ってたので、照れ隠しで頬を撫でてやった。

 くすぐったそうなお前を押し倒すのはあとのお楽しみにして、とりあえず食事を始めよう。

 いただきます、と両手を合わせて、フライをかじるお前がとにかく嬉しそうだった。

 しかし──

 50本のフライの中に、実はたった一つ、外れがある。これでもかと塗りたくった辛子。50分の1のロシアンルーレット。

 せっかくの甘い雰囲気に、言い出すタイミングを逃した。

 ああ、願わくばそれがお前に当たりませんように。

 その笑顔をしばらく俺だけのものにしていたいのです。


 了

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