kitchen

hiyu

アーリオ・オーリオ


 けんかの原因は些細なことで、も思い出せもしない。

 どうせ意味のないことだ。緒も出すまでもない。

 そんな風に考えてみるのに、心が落ち着かない。

 原因さえ思い出せば、けんかを止められるわけでもないのに。

 簡単なのはたった一言、ごめんと告げるだけ。それだけでいい。

 いちいちけんかの発端をほじくり返して、いちから考える必要などない。それは分かっているのに。

 折れるのはいつもこちらからだった。

 単純なことだ。根気がない。

 向こうが思うよりずっと、怒りは俺を縛り付けるのに、どうしてこうも簡単にそれを介抱できるのか。我ながら不思議でしょうがない。

 多分もう少し。

 持って一時間。

 それが限界だ。きっとまた、こちらが頭を下げる。


 さっきあkらずっと床に胡坐をかいたまま、微動だにせずにキッチンを見つめる姿を、何度も確認する。

 ぱらぱらと興味のない記事を飛ばし読みしつつ雑誌をめくり、すでにぬるくなったコーヒーを時々すすり、あくびの一つも挟みながら、さりげなく。

 腹が減ったな、と思う。

 時計を確認すると、もう昼飯時はとっくに過ぎていた。

 そういえば、昼飯を作る予定だった。

 お前が甘えるようにパスタが食べたい、と言ったから、じゃあ作るか、なんて気をよくしてうなずいて。

 それで──

 思い出してしまった。

 こいつが一言も口を聞かずにキッチンをにらみつけている理由を。つまりはけんかの発端を。

 ああ、ばかばかしくて頭を抱えたくなる。

 俺は雑誌をぱたんと閉じておもむろに立ち上がった。カウンターの中身は。特売していた卵と小ぶりなジャガイモひと袋。それに奮発して買った塊のベーコンだった。


 久しぶりにパスタ。一緒にのんびり二人きりのランチ。

 シンプルなものがいいよな、と決めたペペロンチーノ。

 冷蔵庫に張り付けられたマグネットタイプのフック。底にぶら下がるネットの中にコロンと収まるにんにく。透明な小瓶にストックされた輪切りの唐辛子。買い置きのパスタ。

 必要なものはほとんど揃っていたが、散歩がてら買い物に出かけた。

 目が伸びてきた玉ねぎがひとつ残っていたから、コンソメスープの具にでもしようかな、とか。全体的にシンプルなメニューを追及して、付け合わせはマッシュポテトにしようかな、とか。そんなことを考えながらの散歩──もとい買い物は楽しかった。

 帰り道、なんとなく見つめ合って、いい雰囲気になったりしながら、でも気付かないフリをして、いつものように微妙な距離感で並んで帰ってきた。

 ドアに鍵を駆けたら──部屋の中でなら、この距離を詰められる。

 だからほんの少し速足になった。

 だって、そうだろ?

 荷物を持つお前の手に、外では触れられない。


 塊ベーコンについて語り出したのは確かに俺だが、もとはと言えばお前が悪い。

「パックのベーコンでもよかったんじゃない?」

 なんてのんきに訊ねてきたからだ。

 ベーコンというものは、分かりやすく質が出る。

 別に最高級を求めているわけではない。ただ、一枚ずつスライスされ、ほんの少量だけぴたっと真空パックされたそれより、きちんとブロックで切り売りされたものを俺は好む。

 なぜって、答えは簡単。

 パックのものは、カリカリベーコンにはならないのだ。

 水っぽく、柔らかいそれは、いつまで経っても脂が抜けた硬い食感に仕上げることができない。多少値段は張るが、いい物を買えば、フライパンの上でじっくり火を通しているうちにじわじわと脂がしみだしてきて、美しく色付いたかりっとした食感のそれが出来上がるのだ。

 もちろんあの油は捨ててはいけない。ここからが大事なところだ。

 その講釈をたれようとしたとき、ふいにお前が言った。

「カリカリにして、どうするの?」

 とりあえず、無視した。

 カリカリベーコンはひとまず取り出し、適当に切る。ナイフを入れるときにぱりっと音がするのも気持ちがいい。

「──残った脂にオリーブオイルを足して、スライスしたニンニクを入れて、こちらもカリッと揚げ焼きする。それも取り出しておいて、いったん熱くなったオイルを少し冷ます。この時点でベーコンとニンニクの香りがオイルに移っている。そこでみじん切りにしたニンニクと赤唐辛子を入れて──」

「ちょっと待った」

 問いかけを無視したことには文句を言わなかったくせに、なぜここで食いついてくるのだ、と思う。

「まさかとは思うけど、それってペペロンチーノの作り方?」

「ほかに何がある?」

 当然、というように答えてやったら、お前が途端に不機嫌そうな顔をした。

「ペペロンチーノは、ニンニクと唐辛子だけって決まってる」

 は?

 今度はこちらが、同じような表情になってしまった。

「ベーコンなんて入れたら、味がぼやける」

 これから怒涛の仕上げを解説するところだったというのに、少しむっとした。

 ──フライパンの上でじわじわと泡立つニンニクと唐辛子の上にゆで上がったパスタを投入し、ゆで汁少々を加えて手早く炒め、塩とブラックペッパーで調味する。さらに盛り付けたら、さっきのカリカリベーコンとニンニクを散らし、ブラックペッパーを挽く。

 どうだ。

 そこまできちんと言わせてほしかった。

「ベーコン入りなんて食べない」

 さっきまでのいい雰囲気はどこへやら、早く二人きりになりたくて足早になっていたはずなのに、イラつきが原因で競うように足を速めている。

 ようやく玄関の前までたどり着き、鍵を開けて部屋に入れば、並んで歩いてときよりもずっと、二人の距離は離れていた。

 黙って鍵をかける。持っていたエコバッグをカウンターに置いて、不機嫌そうに肩を怒らせるお前の後ろ姿が目に入った。

 それからは文句の欧州。お互いの些細な違いで、許せないことを次々にあげつらう。

 本当にくだらないことだ。けれどなぜか止まらない。今までなら何とも思っていなかったはずの小さな問題まで、もしかしたら無理して我慢していたのかもしれない、と思うほどに。

 コーヒーを入れたときに、テーブルに置かれたコーヒーカップの取っ手の位置が向かって右か左かを議論したところで、俺が黙った。

 さっきも言ったように、俺は根気がない。

 だから、言い合いも続かない。

 億劫だった。

 それで、わざとコーヒーを入れた。もちろん自分の分だけだが、自分にはベストである向かって左側に取っ手を向けて、これ見よがしにテーブルに置いた。そして、手近にあった雑誌を──地元情報にあふれたタウン誌だ──引き寄せ、見るともなしに開いていた。

 そして、冒頭に至る。


 エコバッグを無造作に畳んで放ると、ジャガイモを取り出して皮をむく。水からゆでている間にスープ用の湯を沸かす。玉ねぎ少々と、けんかの原因になったベーコンを少しと、コンソメキューブを放り込んで、塩で調味。スープの完成。

 ネットから外したニンニクを3片、2つはスライス、もう一つはみじん切りにする。

 スタイスしたニンニク少々と残っていた田面木の薄切りをじっくりと飴色に炒め、大きめの拍子木切りにしたベーコンも加えてさらに炒め、固めにゆでたジャガイモをくわえて塩と強めのブラックペッパーで味付けし、ジャーマンポテトを作る。

 もうこうなったら大盤振る舞いだ。

 鍋に湯を沸かし、酢を入れて卵を割り入れ、ふわふわと固まっていくそれを丁寧に寄せてまとめる。この手順が結構好きだ。優しく形作るようにして、好みの固さに仕上げれば、ポーチドエッグの完成。さっきのジャーマンポテトの上にのせて、これでもかというほどブラックペッパーを挽く。

 パスタがゆで上がるまでの時間を計算しつつ、フライパンを火にかけた。スライスしたニンニクをカリカリにし、取り出す。みじん切りのニンニクと唐辛子の輪切りを入れて再び火にかける頃には、胡坐をかいていたはずのお前が、カウンター越しにフライパンを覗き込んでいた。

 目が合うと、一瞬困ったように視線を外し、放ったままになっていたエコバッグに今更のように気付いたフリをして、それを丁寧に畳んだ。

 畳み終えたエコバッグは元の小さな塊になっていた。ぐるりとテープを巻き付けるようにしてコンパクトに畳めるそれを、結構重宝している。

「ベーコン」

 お前がまたこちらを見たので、俺はおう、とうなずく。

「入れないでくれてありがと」

 まだ少し怒っているような顔をして、そっけなく言うのは、テレカクシだと俺は知っている。

 タイミングばっちりでゆで上がったパスタをフライパンに投入。ここからは時間との勝負である、手早く仕上げて盛り付ける頃には、テーブルにはすでにあとは食べるだけになったほかの料理が並んでいた。

 サンキュー、と言うと、お前が小さくうなずいた。

 ベーコン抜きのペペロンチーノも、上出来だった。

 空腹だったので、二人で黙々と食べた。

 ポーチドエッグを崩したとき、はしゃいだように笑った顔がかわいくて、思わずキスした。

 ニンニクくさい、と俺の顔を押しやったけれど、その表情はさっきまでと違い、とても柔らかだった。

 買い物帰りに、不自然に開く二人の距離を早く縮めたくて足早になった。

 触れたいと思うのは、自然なことで。

 けれどそれができないのは俺もお前も男だからで。

「ごめんな」

 やっぱり折れたのは俺の方。

 それはいつものことで──

 外では手をつなぐことすらできないけれど、二人きりのこの部屋なら、ペペロンチーノを食べたあとにキスだってできる。

 いつもよりにんにく増量なのは、多分、愛なんじゃないかな、なんて考えた。


 了

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