38.5℃


 熱を出した。

 しかもかなりの高熱。一時は39℃まで上がった。死ぬかと思った。

 こんな高い熱を出したのは小学生以来で、熱を出すこと自体ももう何年もなかった。

 最後に熱で寝込んだのは確か、学生時代だったと思う。インフルエンザにやられて以来だ。あの時は病院に駆け込んで、薬をもらってなんとか症状を抑えた。体温計は持っていなかったから正確な数値は分からないが、たいして身体が辛くなかったことを考えれば、今よりも熱は上がらなかったのだろう。それとも年のせいで、弱くなっているのか、俺。

 そんなわけで今、俺は自室のベッドでうなされている。

 多少下がったとは言えまだ38℃を超えている。

 耐性がないからか、単に久しぶりで身体が慣れないだけなのか、さっきからふらふらとめまいを起こしている。世界がぐらんぐらん揺れている。まるで立ちくらみだ。横になっているのにそう思った。やばい、くだらないことを考えてしまっている。熱のせいだ。

 喉も痛い。つばも飲み込めないほどに。

 声はかすれ、せきも出る。頭が痛い。

 ああ、死にそうだ。何かやばい病気なのかもしれない。

 このまま治らず俺は死ぬのか。

「いや、ただの風邪だから」

 俺の考えを読んだのか、枕元で額の冷却シートを交換してくれていたお前が言った。

「薬飲んで寝れば治る」

 ぴしゃりと言い放ち、体温計に目をやった。

「でも、ちょっと熱、高いね」

 体温計を差し出された。さっきまで俺が口にくわえていたものだ。表示を確認しようとしたが、目元がわんわんしてよく見えない。

「寒くない? 毛布もう一枚出す?」

 俺は力なく首を振る。

「汗は? 着替える?」

 また首を振る。

「気持ち悪かったら、身体拭くからね」

 その申し出にはちょっと心が動いた。下心つきだが。

 しかし今の俺にはそんな余裕はない。指一本を動かすのだってしんどい。

「──本当に辛そうだね」

 なんて、心配そうに俺の顔を覗き込んでくるお前を引き寄せてキスする気力さえない。

 そんなことしたら風邪うつっちまうか。

「とにかく休んで」

 そう言われたことは覚えているが、気付けば眠りに落ちていて、そのあとの記憶はない。


 夢の中でも、やっぱり俺は風邪をひいていた。

 ベッドでうんうんうなってた。

 何だ、現実と同じじゃないか。そう思ってうんざりする。

 なんて独創性のない夢だ。クリエイティブな才能の欠片くらいはあったと思っていたんだがな。

 仕方がないので、夢の中でもうなされながら眠った。

 いつまでも眠った。

 頭と喉が痛くて、身体中きしんで、世界が揺れていた。

 思い切りせき込んだ。

 苦しい。

 どうして俺は、夢の中でまでこんな苦しい思いをしなくてはならないのだろう。

 ぬるくなった冷却シートがぬるりと気持ち悪かった。はがそうとしたけど、腕が重くて額まで届かない。身体中汗びっしょりで、布団の中は蒸れていた。貼り付くパジャマも脱ぎ捨ててしまいたい。

 なのに身体はいうことを聞かない。俺はベッドの上でただ、耐えていた。

 泣き出したくなるくらい辛かった。


 目を開けると、お前の顔が目に入った。

「あ、起きた」

 そう言って、ちょっと笑った。

「いっぱい寝てたよ」

 聞けば、もう夕方だと言う。と、言われても、その前に目が覚めていたのが何時だったのかすら分からない。だから何時間寝ていたのかなど見当もつかなかった。

 覚えているのは、いやな夢を見たということだけだ。

 そう、いやな夢だった。

 あんなに苦しんでいたのに、お前がいなかった。

 俺は一人でベッドに縛られ、何もできずにただうなされるだけだった。

 目が覚めてよかった、と心から思った。

 だって、お前がいる。

「汗拭こう」

 ぐっしょり濡れたパジャマを脱いだ俺の背中を、腕を、お前がぬらしたタオルでやさしく拭う。

 すうっと暑苦しさと不快感が消えていく。

 新しいパジャマを渡された。着替えている間に手早くシーツも替えてくれた。

「お腹すかない?」

 すいた、と答えると、うなずいてお前が部屋を出て行く。俺はおとなしくベッドに戻り、また目を閉じた。けれどさっきの夢の続きを見るのが怖くて、眠れなかった。

 しばらくしてからお前が部屋に戻ってきた。トレイに乗った小さな鍋が、湯気を立てている。

「おかゆ。食べられる?」

 うなずく。

 それはシンプルの極みともいえるおかゆで、いつも味噌汁を作るために使われる一番小さな片手鍋に、真っ白に煮えた米が入っているだけだった。

 もちろん、その横には食塩の小瓶。それをぱっぱと適当に鍋にふりかけ、レンゲでぐるぐるかき混ぜると、お前はそのレンゲをさしだす。

 あーん、ってやつ?

 普段なら絶対やってくれないだろうな、と思っておかしくなる。

「身体、だるそうだから。レンゲも持てないんじゃないかと思って」

 言い訳しながらレンゲを向けるお前はかわいかった。

 だから黙って口を開けた。

 容赦ない熱さが、荒れた口内に沁みた。

「あ、ごめん」

 顔をしかめた俺に気付いて、慌ててふうと息を吹きかけ、おかゆを冷ます。そして再びこちらに差し出す。

 一口。もう一口。

 多分、冷凍庫の余りご飯をただ水とともに鍋に入れて煮ただけなのだろう。ぺこぺこのアルミ鍋で作られたそれは、きっとあまりよくできているとはいえない。けれど普段料理をしないお前には、精一杯だったのだと思う。

 シンクの下の引き出しに入っている一人用の土鍋の存在も、米からとろ火で炊くおかゆの作り方も、そういえばきちんと教えていなかった。

 なのに、食塩をぱらぱらふられただけの雑な味のするこのおかゆを、とてもおいしいと俺は思った。

 鍋の底に焦げ付いてくっついた部分も全部食べてしまいたいと思うほどに。

 時間をかけて食べ終え、薬を飲んだ。

「じゃあ、また眠って」

 部屋を去ろうとしたお前を、俺は手をつかんで引き止めた。

 強く引くと、ベッドの上に乗り上げた。

 俺はその身体を抱き締める。

 熱はまだ高くて、平熱のお前の身体がとてもひんやりしているように感じた。

「レンゲも持てなかったくせに」

 お前がつぶやく。

 レンゲが持てないなんて、俺は一言も言っていない。お前が勝手に、そう思っていただけだ。

 確かに身体はだるいけれど。

 お前は俺を振り払おうとはしなかった。同じように俺の身体に両手を回して、ぎゅっと抱き締め返してくれた。

 ──ああ、夢でよかった。

 あの世界にお前はいなくて、俺は一人でうなされていた。

 けれど現実は優しくて、苦しむ俺を心配してくれるお前がいて、下手くそなおかゆを作ってくれて、こうして俺を抱き締め返してもくれる。

 もしかしたらいつか、一人でうなされる日が来たとしても──今日のこの一瞬を覚えているだけで、俺は生きていけるような気がしていた。


 了

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