第16話 お母さん!

「悪いが、一旦は帰らないといけない」


 朝から寺を留守にしていた信高は食事を終えると帰ってしまった。なので、酒井の家には智章と蓮の二人だけが残る。


「なぁ、あの庭の洋館もここの持ち物なん?」


 裏で草引きをしていた智章が表に回るまで、蓮は庭や屋敷を眺めていたらしい。


「そうだよ。祖父が診療所として使っていたけど……」


「見せて貰っても良いかな?」


 二人でぼんやりしているより、蓮が興味を持った洋館を見せている方がマシだと腰を上げる。


「わぁ、良い雰囲氣やなぁ。天井も高いし、何? この飾り漆喰は!」


 コーナーの飾り漆喰を食らいつくように眺める蓮が意外に感じる。


「蓮は近代的なデザインをすると思っていたけど……」


「ああ、俺の家は落ち着かんからなぁ。あれは親父の趣味なんや。俺は石や漆喰が好きなんや。格好ええからな」


 そう言うと、スマホの写真を開いてデザインしたマンションを見せてくれた。自信があるからわざわざ開いただけあって、スタイリッシュでありながら洗練された落ち着きのあるデザインになっている。


「格好良いなぁ」


「良いやろ? でも、値段が高くなるのが問題なんや。ところで智章兄さんは?」


 言いにくかったが「失業中」と答える。


「えっ、大きい会社に就職したと聞いていたけど……」


 全く蓮がどうしているか知らなかった智章とは違い、別れた家族の消息も把握しているのに驚く。


「この設計机、良いなぁ。俺も欲しくなった」


 次々と興味の対象が変わるスピードの速さは中学生の頃から変わっていないと、智章は苦笑する。頭の回転が早いのだ。


「椅子に座ってもええ?」と許可を取ると、座り心地や設計図の引きやすさなどをチェックする。


 そしてまたすぐに棚にいい加減に並べてある建築関係の本に興味を示す。


「えっ、この写真集! 俺も欲しかったんや。いい本を揃えているけど、この並べ方はあかんで!」


 智章も無茶苦茶だとは思うが、他にもしなくてはいけない事がいっぱいあるので、後回しにしていたのだ。


「いやぁ、昨日引っ越して来たばかりだから、段ボール箱から出しただけなんだ」


「あかん! 俺はこんなのには我慢できんのや。並べ直してええか?」


 父親が亡くなったが、今は警察が犯人を見つけるまで待つしかない。検死が終われば遺体は返してくれるのだろうが、それまでは葬式もできないのだ。


「じゃあ手伝って貰おうかな?」と応えたものの、蓮のこだわり具合には智章はついていけなかった。


「ちょっと、智章兄さん! その本の横にそれを並べるの?」


 いちいち文句をつけてくる。智章は、大雑把に写真集、建築関係の専門書、法律関係、一般の本、ぐらいに分けて並べたら良いと思ったのだが、蓮は考えが違うみたいだ。


「こんな素敵な表紙を飾らへんやなんて、信じられへんわ」


 壁一面の棚を有効に使ってデコレーションしていく蓮に、この作業は任せることにする。


「今日は裏庭の草引きをしようと思っていたんだ。あともう少しだから、やってしまいたいんだけど良いかな?」


 蓮はレイアウトに夢中で「ええで」と智章を見もしないで答える。


 父親を亡くしたばかりだけど、何かしている方が良いのかもしれないと思って、自分も草引きをプチプチして過ごす。




 しかし、そんな平穏な時間は長く続かなかった。青海波の若女将や中居から、前日に小松原と元妻の薔子が会っていたと聞いた安田刑事が訪ねて来たのだ。


「酒井さん、お母さんと連絡が取れなくて困っているのです」


 この家に被害者の家族である蓮が居るのに少し驚いた安田刑事だが、単刀直入に話を切り出す。


「スマホの番号なら」と教えるが、それが通じないのは智章が一番よく知っている。


「出ませんなぁ」と不満顔の安田刑事に、智章は同居している上原翔平の美容院の名前を教える。


「上原さんの携帯とか家の電話番号はご存知ないのですか?」


 わざと教えないのではと疑う安田刑事に「母とは疎遠なものですから。同居している相手のことは殆ど知りません」と言い切った。


「冷たいんやなぁ……」ボソッと蓮が呟いた言葉が、智章の胸に突き刺さる。


 確かに冷たいと非難されても仕方がないのだが、母との関係は一方的に冷え切っている訳ではないと内心で愚痴る。


「少し、質問させて頂いてもよろしいですか?」


 全く宜しくない! 特に蓮が居る前で、母と小松原が会っていたなんて話したくなかった。


「いえ、今日は疲れているので勘弁して下さい」


 しかし、断る態度に蓮は不審感を持つ。


「何で? 警察の人の質問に答えてくれや。そうせんと、犯人が見つからへんやんか」


 確かに協力したいのは山々なのだけど、母と連絡が取れてからにしたかったのだ。


「良いですけど……」


 渋々、安田刑事とお供の警察官を前の間に上げる。蓮には席を外して貰いたかったが、当然の如くそこに座っている。


「小松原さんは青海波に水曜から宿泊されています」


 その日は智章が鞆に帰って来た日だ。母が急に大阪に帰ると百合に言い残して出て行った日でもある。


「そうなんですか……私は、その日の夕方に鞆に着きました」


 問い詰められたら、信高が福山駅まで迎えに来てくれたことを話そうと思ったが、それは聞かれなかった。事件の前々日は関係ないらしい。


「そして、木曜に女の方と食事をされているんですよね。それは、どうやら酒井薔子さんのようなんですが……」


 蓮がハッとする様子と、安田刑事が智章をジッと見つめる目に、智章の背中に冷や汗が一筋流れる。


「そうなんですか? 大阪に帰ったものとばかり思っていましたが、俺は母とは直接会っていないのでわかりません」


 嘘では無いが、本当でも無い言葉が古い屋敷に吸い込まれていく。


「お母さんと小松原さんは今でもお付き合いされているのですか?」


「そんなの知りません! 知りたくもありません」


 智章の本音に安田もこれは知らないと確信する。


『駄目だ! 俺は上手く答える事ができない!』


 いずれ、早朝から散歩していたことや、何故、小松原の死体だと知っていたのか、安田刑事に質問されたら、どう答えたら良いのかわからない。


 精神的に不安定になると、智章の目は現実と幻とが入り混じってくる。


「お母さん!」


 突然、大きな声を出した智章に全員が驚く。警察の二人は、もしかして探していた酒井薔子がのこのこ帰って来たのかと、期待して玄関の方を振り向くが誰もいない。


「何なんですか?」


 少しぼんやりしている智章に安田刑事が厳しい声をかける。


「何だ……無事だったのか」


 呑気に翔平と映画館から出てくる幻が見えて、ホッとしたが、安田刑事や蓮の怪訝な顔に気づいて『やっちゃった!』と頭を掻く。


「安田刑事、母のスマホに電話してみて下さい」


 こうなったら、母の口から説明して貰おうと智章はパスすることにした。


 朝から心配していたのに、呑気に映画なんて見ていた母に腹が立ったし、小松原を殺していないのは明らかに思えたからだ。いくら何でも人を殺して映画を見に行くほどの心臓ではないだろう。


「さっき電話したが繋がらなかったが……」


 怪訝な顔をしながらも安田はリダイヤルする。


 するとプルルルル……と数回鳴っただけで「はい? どちら様でしょう?」見知らぬ番号に不審そうな声が応えた。


「こちらは福山署の安田と申します。酒井薔子さんですね」


「福山の警察ですか? まさか智章が事故にでも逢ったんですか?」


 全く小松原の事件など知らなそうな声に安田刑事は首を捻る。


「いえ、今回連絡させて頂いたのは、小松原俊明さんの件です」


「小松原さん? まさか違法な弁護とかして捕まったんですか? でも、もう別れて八年も経ちますし……何故、わたしに?」


「その八年も前に離婚された小松原さんと、木曜日に会っていましたね。どういった要件だったのでしょう?」


「元旦那と会ったらいけない法律は無かったでしょ」


 智章は、まだ小松原が殺されたのを知らせない安田刑事にヒヤヒヤする。もしかして、母を疑っているのかもしれない。


「小松原さんが金曜の早朝に鞆の浦で亡くなられたのはご存知ですか?」


「えっ? 俊明さんが……嘘やろ? あんな人、殺しても死なへんような人やのに……まさか、ほんまに?」


 そのまま応答が無くなり「酒井さん! 酒井さん!」と何度かの安田の呼びかけに男の声が応えた。


「何すんじゃワレ! 薔子さんが倒れたやんけ! しばくどボケ」


 突然の怒鳴り声に、安田刑事が耳からスマホを離したものだから、その場の全員に聞こえた。


「関西弁ってガラが悪く聞こえるなぁ……ところで、あれが逃げた男?」


「いや、逃げた男とはすぐに別れたよ。あれは上原翔平さん。あれでかなり我慢強い性格なんだ。母と八年も暮らしているんだから」


『しばくどボケ』と罵られた安田刑事は、我慢強いとは思えないと内心で毒づく。


「もしもし、こちらは福山署の安田です。小松原さんが亡くなられた件で連絡をさせて貰っているのですが……」


 通話は切れていないが、どうやら翔平は倒れた薔子の手当に忙しくてスマホはほったらかしているらしい。


「大丈夫か?……ほら、水を飲んで……」などの言葉が雑音混じりに聞こえる。


「かけ直した方が良いのでは?」


 お供の警察官が見兼ねて口を挟むが、安田にひと睨みされて口を閉じる。


 何分か経つとガサゴソ! と大きな音がした後で、薔子がスマホに出た。


「もしもし……本当に小松原さんが亡くなったのですね。今から鞆に帰りますから、詳しく教えて下さい」


 後ろで「前の旦那なんかほっておけ!」と翔平の焼き餅も露わな声が聞こえたが、薔子は無視して話を進める。


「うるさいなぁ! 新大阪駅まで送って貰いたいのよ。ごちゃごちゃ言っている暇があったら、車を回してきてよ」


 キツイ口調で命じられた翔平を気の毒に感じる智章だったが「女王様に弱い男は多いんや」と蓮は頷いている。


「えっ、もしかして小松原さんも?」


「そうや! うちの親父は女王様に尽くすのが趣味やねん。だから、プライドが高くて美人で気儘な薔子さんは理想の女神様やってん」


 蓮の生みの母親はそこが理解できていなかったと残念がる。


「事情はこの家でお聞きする方が良いですよね?」


 警察で話すより母も楽だろうと、智章は渋々頷く。できたら、不機嫌な母親と一緒の屋根の下に居たくない。


「いやぁ、薔子さんとも久しぶりに会えるなぁ」


 倒れるほどショックを受けた薔子が事件とは無関係らしいと、蓮は呑気に構えているが、智章は『何故、会っていたのか?』まだ分かっていないので、神経が休まらない。


「晩御飯の買い出しに行ってきます」


 安田刑事と警察官は、福山駅には覆面のパトカーで迎えに行くみたいだが、まだ時間に余裕があるので居座っている。


 二人と蓮にお茶を出すと、逃げ出すように鞆の町へ降りて行く。



「喪中になるのだから、肉とか魚とか駄目なのかな? いや、お通夜にお寿司を食べていたぐらいだから大丈夫だろう」


 鞆の浦には新鮮な魚を売る店もある。どうせなら美味しい魚を食べさせてやろうと、鰆を一匹買い求める。


「多いけど、西京漬けにしたり、調味料漬けにしたら、かなり保つし……お母さんも一緒に食べるんだよなぁ」


 蓮だけなら鰆の造りと焼物で喜んで食べてくれそうだが、自分では調理しないくせに母親は口煩い。


「何か野菜を炊こう!」


 八百屋に回って筍とサラダ用の野菜を買う。


「普通はお母さんが作ってくれるものなんだけど……うちは無いよなぁ」


 家に帰ったら、警察の人はまだ早いというのに福山駅へ迎えに行っていた。


「おっ、凄い荷物やね」


 蓮も腰が軽く、荷物を台所に運ぶのを手伝ってくれる。


「先ずは筍を湯がして、芋を剥かなきゃいけないな」


 大きな鍋に八百屋で貰った糠と水を入れて、縦にエッャと切った筍を湯がく。


「芋を剥くの手伝うよ」


 二人で台所の椅子に座って里芋を剥く。


「うちの親父も里芋が好きやったんや……何で殺されたんやろ?」


「それは警察が調べてくれると思う……」


 智章は母親が小松原と何故会っていたのか? その理由が事件の原因じゃなければ良いけどと思いながら、里芋を六角形に剥いていく。


「えっ、丸く剥くんじゃないんだ。へぇ、六角形だと料亭みたいで格好ええなぁ」


 酒井の家では祖母が里芋は六角形に剥いていたが、小松原が丸く剥いていたのを思い出す。


 そうしたら、どんどん小松原との生活が押し寄せてきて、智章は蓮に何もかも打ち明けたくなった。


「あのなぁ……信じるかどうかは蓮次第だけど……小松原さんが俺の夢枕に立ったんだ」


 里芋を六角形に揃えていた蓮が手を止めて、智章の顔を真剣な目で見つめる。


「智章兄さんは憑座の血を引いていると、親父は言っていたから……それで、何か話したんか?」


 母が再婚する時に話したのだと智章はホッとする。これで説明し易くなった。


「蓮をよろしく! と頼まれたけど、俺よりしっかりしているもんな」


「親父も夢枕に立つぐらいなら、あともう少し頑張って俺の夢枕に立たんか! 大阪ぐらい魂ならあっという間だろ! 根性なし!」


 少し涙ぐんだのを恥じるように、乱暴な啖呵を切る。


「それで」と続きを促す蓮に、ぽつぽつと話していく。


「目覚めた時は夢枕に立たれたことで動揺していたから気づかなかったけど、鞆の浦の常夜灯が背景に見えていたから……で、警察が来ていたので名前を教えたんだ。凄く不審に思われたみたいだけど……」


 蓮は芋を剥きながら「そりゃ、そうやな」と小さく笑った。


「いきなり死体の知り合いが現れたら、犯人と間違われるで」


「それはアリバイとか聞かれた時に思ったよ。一人暮らしなんだから、何もアリバイなんか無いんだから……でも、それより俺は母が何か関係しているんじゃないかと不安だったんだ」


 六角形に剥きなおした里芋をボールに置いて「違うやろ」と蓮が言ってくれた瞬間、智章も心の底からホッとする。


「だよなぁ~! 母が犯人とか関係しているなら、息子の俺の夢枕になんか立たないだろうと考えていたんだよ」


 小心なところが前からあったと蓮は笑ったが、他には何か無かったのかと問いただす。


「野次馬もだけど……小松原さんの服装でヤクザかなんかと思っていたみたいなんだ。俺が凄腕の弁護士ですと言ったら、小松原さんが『よく言ってくれた!』と褒めてくれたけど……犯人とか教えてくれたら良かったのになぁ」


 蓮は「親父らしい」と爆笑し、少し涙を零した。


 その涙を指て払いながら、「なぁ、犯人とかほんまにわからへんのか?」と尋ねてくる。


 期待にそえたら良いのだが、智章は憑座としての修行もしていないし、本気でこの特殊な体質とは縁を切りたいと思っている。


「無理だなぁ」


「まぁ、あとは警察に頑張って貰わないといけないか……何故、薔子さんは親父と会っていたのかな? 復縁は無さそうやけど……鬱陶しいぐらい世話を焼いている男が側にいるみたいやしなぁ」


 高校三年の男子には上野翔平との暮らしは地獄だったと、その当時のベタベタ振りを思い出して眉を顰める智章を「苦労してるなぁ」と蓮は笑った。


「まさか、翔平さんが嫉妬して小松原さんを……」


 今まで考えもしなかったが、男女関係のもつれから殺人事件に発展することもあるのだ。


「まぁ、それならうちの親父も本望やろう。女王様を争って亡くなるやなんて、なかなかできへんもん。でも、翔平さんは大阪におったんやろ? このロマンチックな展開には無理があるわ」


 大阪に上野翔平が居たかどうかも警察は調べるのだろうと、智章は「大変な仕事だなぁ」と少し同情する。


 鰆を捌いて、調味料に漬けたり、芋を炊いているうちに、薔子が安田刑事と共に到着した。しかし、その後ろに茶髪の上野翔平も付いてきていた。


「蓮くん、この度は御愁傷様でした……小松原さんが鞆に来たんは私が相談したいことがあったからなんよ。鞆でこんなことになるとは思ってもみなかったけど……」


 母のこんな殊勝な態度は初めて見た智章は『まさか事件に関係しているのか?』とドキドキしてくる。


「何で、小松原になんかに相談するんや? 俺では頼りないんか?」


 いちいち嫉妬する翔平をキッと睨みつけ「法律の問題だったのよ。これから刑事さんに説明するから、その間に貴方は晩御飯でも用意しといて!」と言いつける。


「わかった」と翔平は、薔子に何か命じられたのが嬉しい様子だ。


「台所はどこなんや?」と智章に案内を求める。


「これが女王様とM男の関係や」


 コソッと蓮が智章の耳元で囁いたものだから、プッと吹き出しそうになって困る。


「翔平さん、此方です」と案内しながらも、母が安田刑事に何を話しているのか? 耳がダンボになりそうな智章だった。

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