第3話 瀬戸の夕日

「やれやれ、やっとお弔いの人も落ち着いたみたいね」

 接待をしていた百合が台所に茶器を下げると、苦手な場から解放された智章もホッとして伸びをする。

『智くん、ごめんね』

 祖母はこんな迷惑を掛けたくないから親族だけの通夜と葬式にして欲しいと考えていた筈だ。智章は『良いんだよ』と育ててくれた祖母との別れをしようと、手を合わせた。

 しかし、台所から姉妹喧嘩のエキサイトした応酬が聞こえる。祖母の顔も何とはなく、そわそわと心配そうに見える。

「ああ、もう! ゆっくりとお別れもできないじゃないか! おばあちゃん、大丈夫だからね。どうせどうでも良いことなんだから」

 智章は、新しい線香を立てて、席を立った。ふと、開けはなたれた座敷から瀬戸内海が見えた。

『前は松が邪魔で海は少ししか見えなかったのになぁ』

 百合が酒井家の象徴のような松の古木が枯れたのをあっさりと認めた理由が、智章にも少し理解できた。巨大になり過ぎた松で母屋は影になっていたが、今の方が風通しも良くなったきがした。

 しかし、今はそんな感慨に耽っている場合ではない。姉妹喧嘩が勃発しているのだ。

 二間続きの控えの間の先に台所で、お客に出した茶器を洗いながら百合が薔子のマニュキアに文句をつけていた。

「お姉さん、親が亡くなったのに、そんな真っ赤なマニュキアだなんて、非常識でしょう」

「そんなこと言っても、お母さんが亡くなるだなんて知らなかったのよ。大阪から取るものも取り敢えず駆けつけたのだから仕方ないじゃない」

 しゃあしゃあとした態度に百合が腹を立てているのは、智章にもわかった。

 薔子はお弔いに訪れた客の接待もしないで台所に引っ込んでいたくせに、茶器も洗わずに放置していたのだ。

 かなり大量の茶器を洗う叔母を手伝おうとともしない母親に智章も呆れるが、今更マニュキアが真っ赤だろうとおばあちゃんは気にしないだろうとも思う。

「お姉さん、兎に角マニュキアを落としてよ!」

 百合は水を止め、振り向いて、姉に向かい合って言い切った。

「身内だけのお通夜と葬式なんだから、マニュキアをしてても問題ないでしょ。あんたの保科への面子の為にマニュキアを落としたりしたくはないわ」

 その太々しい言い草は、息子の智章でも聞いていて腹が立った。

「親不孝者! お姉さんのせいでお母さんはどれほど悲しんだのか、それもわからんの!」

「なんやて! あんたも保科の顔色ばかり見て、お母さんをほっぽらかしていたくせに」

 口では薔子を負かせる者は居ない。確かに福山の市内に嫁いでいる百合だが、鞆の家には足が遠のいていた。

「それは……お母さんは元気だったし、保科の両親はかなり弱ってきていたから……」

 智章は、くだらない母の意地っ張りで祖母との別れを邪魔されたのかと溜息をつく。

「お母さん、マニュキアぐらい落としたら良いじゃないか。百合叔母さんも叔父さんへの手前もあるだろうしさ。こんな風に姉妹喧嘩していると、おばあちゃんも悲しむよ」

「偉そうに!」

 フン! と鼻から煙草の煙を吐き出して、薔子は横を向く。でも、言い返しはしなかったので脈ありなのだと智章は感じる。この母の扱い方には、十五歳から三年間苦労したのだ。

「除光液は無いかなぁ?」

 どうやら姉がマニュキアをおとしてくれそうだとふんだ百合が、母親の鏡台へと向かおうとする。

「これは落とされないのよ。ソフトジェルやから、ネイルのお店に行かんと無理やわ。福山にもあるやろうけど、予約できるかな?」

「お姉さん、落とされんのやったら、どうするの?」

 落とされないジェルネイルなら、初めからそう言えば喧嘩などしなくても良かったのではと、智章は台所の椅子に脱力して座る。

「あんたが煩う言うから……あっ、この上に地味なベージュとか塗ったらええんちゃうかな? お母さん、マニュキアなんか持っていたかな?」

 どうやら、ジェルネイルとかは専門の店で落とすみたいだと、智章はいつ使うかわからない知恵を一つ学んだ。

 二人が台所でぼんやり座っていると、まめな百合が祖母の鏡台を捜索して、手ぶらで帰ってきた。

「駄目だわ、お母さんはマニュキアなんか持ってない。あっ! そうだ! 港の近くの化粧品屋になら置いてあるでしょう。智くん、買って来て」

「えっ、俺が?」

 智章は、当然だが二十五歳になるまで、マニュキアなんか買ったことが無い。『無茶を言わないでくれ!』と内心で叫んだが、横着な母親は動きそうにないし、百合はお弔いの人が来た時に留守にしたくないみたいだ。


 こうして、マニュキアを買うという初めてのお使いに智章は向かった。

「なんだかなぁ~! まぁ、これもおばあちゃん孝行だと割り切るか!」

 えいや! と湿る気持ちを奮い起こして、坂道を駆け下りる。そろそろ納棺の時間も迫っているので、とっととお使いを終えて、おばあちゃんにゆっくりと別れを告げたかった。

 十五歳までこの小さな港町で暮らしていた智章なので、うねうねと続く道の緩やかなカーブの先にある化粧品屋にはすぐに着いた。

 大きく深呼吸して店に入り、きょろきょろと見渡す。誰もいないみたいだ。

「いらっしゃい」

 後ろから声を掛けられて、ドッキン! と飛び上がりそうになる。店の入り口から、店主らしき婦人が入って来たのだ。

「あのう、ベージュか地味な色のマニュキアはありませんか? 不透明なタイプがいいみたいですが……」

 若い男がマニュキアを買いに来たのを不審に思われないかと、智章はドキドキしながら伝える。

「マニュキアなら、ここにある色は置いてあります。不透明なのはこれとこれあたりですよ」

 台に置かれたマニュキア見本の中から、店主の助けを借りて、なるべく地味なベージュを選ぶ。どうにか初めのマニュキアを買う任務は完了した。

 店からも斜めに狭い路地を曲がりながら登ってもおばあちゃんの家に帰られるが、何とはなく海を見てから帰りたくなり、港への道を選ぶ。

「わぁ、もう夕暮れだ!」

 まだ日は沈んでいないが、傾いた太陽が瀬戸の海をオレンジ色に染めている。あの時、東京メトロのホームで智章の脳裏に浮かんだのは、この懐かしい煌めく海だった。

 しかし、今はぼんやりと海を眺めてはいられない。

「急がなきゃ!」

 いつもスマホ頼りで、時計を持ち歩かない智章は、港から家までの坂道を一気に駆け上がる。

 子どもの頃は平気だった智章だが、家の前に着くと、ゼィゼィと息切れがした。身体を二つに折って、息を整える。

 この数ヶ月の激務で体力がかなり削られていると苦笑して、頭をあげる。

「えっ?」

 目の前に見知らぬ女子高校生が立っていた。小洒落たジャンパースカートの制服は、福山でも有名な私立のミカエル女子校のものだと、東京暮らしの智章でもわかった。

 確か、従姉妹の真里はその私学に通っていた筈だと記憶が混乱する。

「まさか真里ちゃん……じゃないよね? あのう、うちに何かご用ですか?」

 一瞬、祖父の葬式以来会っていない従姉妹の真里かと勘違いしかけたが、大学生の筈だし、よく見ると顔も違う。でも、見知らぬ女の子なのに、どこかで会ったような気もするのだ。

「ごめんなさい……おばあちゃんが亡くなったのは私のせいなんです」

 女子高生は涙を浮かべ頭をペコリと下げると、智章が「どういうことなの?」と尋ねるのも無視して、坂道を駆け下りた。

「ちょっと待って」

 女子高校生の後を追いかける不審者にならずに済んだのは、ちょうど坂道を汗を拭きながら上がって来た保科賢治と、そろそろ夫が来る頃だし、マニュキアを買いに行った甥が帰って来るだろうと、家の外まで出迎えた叔母のお陰だ。

「あっ、智くん。早くお姉さんに渡して! 賢治さん、ご苦労様です。もう四時だけど、葬儀社の人は未だ来ていないの。納棺までお茶でも呑む?」

 さっさと真っ赤なマニュキアを隠して欲しいのだろう。叔母に背中を押されて、門をくぐりながらも、あの女子高校生の言葉が智章の心でリフレインしていた。

『おばあちゃんが亡くなったことと、あの子とは何か関係があるのだろうか? 近所の子なら、誰かに聞けばわかるだろう』

 母が真っ赤なジェルネイルの上に手慣れた様子でベージュのマネキュアを塗っているのをぼんやりと眺めなていたが、ふと視線があった。

 塗ったマニュキアに息を吹きかけながら「何? にやけた顔をして? 化粧品屋に綺麗な店員さんでもいたの?」などとカマをかけてくる。

 すぐに色気と関連つけるのは、自分がそうだからだろうと智章は呆れ返る。思春期は嫌でたまらなかったが、今はスルーするにかぎるとわかってきた。

「まさか……それより門の前に女子高校生が立っていたんだ。その子が変なことを言ったんだよ。おばあさんが亡くなったの自分のせいだとか……どういう意味だろう?」

 薔子は、ぐずぐずと祖母の死因を考えている息子に呆れる。

「お母さんは倒れて亡くなったのよ。頭は打っていたけど、死因になるような怪我じゃないとお医者さんも言ってたわ。きっと、その女子高校生は倒れているのを見つけたけど、救急車を呼ばなかったのを反省しているんでしょう」

 近頃の子は無責任だからと指先に息を吹きかけている母に、自分を産み捨てて男と暮らしていたのは誰だと言い返したくなる。しかし、そんな事を今更言っても仕方ないのだ。

「ねぇ、俺のお父さんの名前は?」

「あんたもしつこいわねぇ。竹内一慶! お寺の坊さんよ」

「えっ? お寺さんに嫁いだの? おじいちゃんやおばあちゃんも無茶をするなぁ」

 この奔放で横着な母をお寺に嫁がせたのかと、祖父母の良識を疑った。呆れている息子に、少しバツが悪そうに薔子は言い訳する。

「大学で知り合った時は、あんな田舎の住職になるとは知らなかったのよ。坊主に騙されたのよ」

 なるほど! と、祖父母がお寺に嫁がせた訳ではなく、恋愛至上主義の母が一時的に逆上せて結婚した挙句、お寺の奥さんの暮らしに耐えきれず男を作って逃げ出したのだと納得する。

『如何にもしそうな事だけど……俺の父親が夫ならもっと簡単な遣り方もあった筈だ』

 離婚だけならあんなにスキャンダルにならなかっただろう。誰が見ても、母にお寺の奥さんが勤まるとは思えないし、婚家との折り合いが悪くて出戻るぐらいはざらにある。

 気まずい話題から避けるように薔子は座敷へと向かう。座敷から母と保科の叔父の声が賑やかに聞こえ、どうも男の人には魅力的に見えるようだと肩を竦める。

『百合叔母さんが機嫌悪くならなきゃ良いけど……』

 薔子と百合は若い頃から美人姉妹で通っていた。それは祖母の八重から受け継いだ細面の顔と華奢な身体のお陰だが、真面目な百合より、奔放な薔子の方が華やかな雰囲気で男にモテた。

 今では百合は上品な医者の奥様として落ち着いているが、相変わらず男を取っ替え引っ換えして恋愛の現役である薔子は若々しくて、どちらが姉か知らない人だと間違えるだろう。

「お姉さんときたら、お母さんの葬儀だと言うのに……」

 案の定、百合がお茶のお代わりを台所に取りに来て、夫に色目を使う薔子の態度を愚痴る。

「俺も線香番をしなきゃ」

 息子に向かって愚痴られても返事に困る。何となく百合叔母さんが苦手な理由の一つだ。

『何だかなぁ……百合叔母さんって損だよな。真面目にお茶の接待もしているし、もっと評価されても良いと思うんだけど……』

 智章は何処か苦手意識を持ってしまう百合から逃げるように座敷へと向かった。線香番もあるが、医師である賢治に祖母の死因を尋ねたいと思ったのだ。

 あの女子高校生が祖母を殺したとは智章にも思えないが、何か引っかかってもいる。

『元気なおばあちゃんが何故?』

 年も年だから仕方がないと母や叔母は、祖母の死因についてあまり気にしていないようなのが智章には不満だった。

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