第10話 立つ鳥水を濁さず? 引っ掻き回して濁しまくる?
話し合いが終わり、智章がスマホの電源を入れたら、ウッとなる程上司の着歴が並んでいた。鞆に住み続けるかは決心がついていない智章だったが、会社は辞めるつもりだ。
智章は、明日は祖母の服などを片付けようなどと話している母と叔母がいる座敷を出て、台所の椅子に座り込む。
スマホの上に表示されている時計は七時を回っていた。
『こんな時間なら、きっとまだ会社にいるだろ』
昨夜も眠っていない状態で、こんな大事な連絡を入れるのはどうかと思ったりもしたが、それよりも早く会社を辞めたい気持ちの方が勝っていた。
気乗りしないが、辞めるという意思を伝えるのだと、エイヤッと覚悟を決めて着歴をリダイヤルする。
「おっ、やっと連絡してきたな! 明日は出社できるのか?」
挨拶もすっ飛ばすせっかちな上司の声に社内規定では祖父母の忌引きは三日なのに、それすら認めてくれないのかと、智章は苛立つ。高齢とはいえ祖母を亡くした部下に弔いの声もかけないのか! やはり辞めて正解だと内心で罵りながらも、どうも智章は高圧的な人間に弱い。
「済みません。まだ広島に居るのです」
「えっ、まだ東京に帰っていないのか? じゃあ、朝一で新幹線で帰って来るのか? それでも良いから、出社するんだぞ! お前、どれだけ忙しいか、わかっているだろ!」
辞めると言う前に、どんどん畳み込まれるように出社を促される。
「江藤課長……実は家を継ぐことになりまして……」
このまま流されては辞める事ができなくなりそうだと、どれだけ忙しいかマシンガンみたいに話している上司が呼吸する為に、言葉を切った合間に思い切って告げる。
「何だって!」
「一身上の都合で退職させて頂きます」
やっと言えた! とホッとした智章だったが、そうは簡単に退職できそうにない。
「何を寝ぼけた事を言っているのだ。兎も角、明日は出社したまえ!」
自分が会社で上手くやっていけていないのは、関係無いのに耐震偽装の後処理をする部署に飛ばされた事でも明らかなのだから、すんなりと辞めさせてくれるのでは無いかとの智章の思惑は最初から崩れた。
スマホで新幹線の時刻表を調べると、朝一でも会社に着くのは十時を回ってしまう。元々、忌引きなのだから休んでも当然ではあるが、できたらサッサと辞めてしまいたいので週末を挟むのは避けたい智章だった。
「まだ最終には間に合うな……」
鞆から福山駅までタクシーで行けば、ギリギリ新幹線の最終に間に合いそうだ。
『岡山でのぞみに乗り換えれば、どうにか今日中に東京へ行ける。初めから不利な状態で退職だなんて言いづらい』
何とはなく遅刻したという引け目を感じながら、あの江藤課長と退職について話し合いたくないと、基本から弱腰の智章だ。
まだ祖母の遺品整理について、あれこれ話している姉妹がいる座敷に戻り「東京へ帰る」と告げる。
案の定、女二人には猛反対された。
「えっ、忌引きって祖父母の場合は三日が普通じゃないの? そしたら、土日もあるから智くんが住めるように片付けるのを手伝うつもりだったのよ」
「あんたは喪主なのだから、ちゃんと新仏様のお世話をするべきでしょ! それに男手があった方が片付けも捗るから」
こき使うつもりだったのだと溜息が出そうになるが、急がないと新幹線に間に合わなくなる。
「会社を辞めようと連絡したら、兎に角、明日話そうといえことになったんだ。朝一でも遅刻になるから……兎に角、一旦は東京へ行かなきゃいけないんだ。引越しもあるし……」
二人とも酒井の家を荒れ放題にしたくないと考えていたので、引越しという言葉で急に協力的になる。
「それなら急がないといけないわ! あっ、私達も家に帰るから、ついでに送るわ!」
夫の賢治はビールを飲んでいたか、百合は帰りの事を考えて飲んでいなかった。
「えっ、百合は泊まらへんの?」
一人で新仏様のお世話をするのかと、薔子が鼻白む。
「お姉さん、そこの巻線香を使えば朝まで大丈夫だから……明日の昼までにはくるから、じゃあね」
百合は新仏にさっと手を合わせると、夫と甥を急がせて港付近の駐車場へ向かう。
「何時は最終なの?」
「八時半です」
それも新大阪止まりのさくらなので、岡山でのぞみに乗り換えなくてはいけない。
「近頃、福山駅は不便になったなぁ。前はもっと新幹線が多く止まっていた感じがするのだが……」
賢治は東京に行く時は、新広島空港から羽田に行く方が便利だと教えてくれるが、こんな急な場合は新幹線の方が簡単だ。
「夜行バスもあるとか聞いているけど……使ったことがないから……」
医者の奥様は夜行バスなど無縁なのだろうと智章は肩を竦める。智章も学生時代は友達と夜行バスに乗った経験はあるが、スキーバスの事故とか聞くと怖い気もする。
「どうにか間に合いそうだ。百合叔母さん、ありがとう」
鞆からは福山駅の裏側の方が近いのか、止めた車から駅に駆け込む。
福山駅ではさくらに乗った智章だが、岡山で東京行きののぞみに乗り換えて、ホッとして眠ってしまった。
昨夜、お通夜をしたので徹夜した疲れから眠った智章だが、どうにか無事にアパートにたどり着いた。
大学に入学した時からずっと同じアパートに住んでいるが、あまり生活感は無い。このところの激務で、前ほどは掃除をしていないが、物が少ないので片付いている。
新幹線で眠ったお陰で、退職届を書く元気も出た。
「退職願の方が円満退社できるのか……いや、もう辞める事は決めているのだから、退社届だ!」
パソコンで調べて、より正式な手書きで退職届を作成する。江藤課長にいちゃもんをつけられたくなかったのだ。
その後で、引き止められた場合の為に時間外労働やサービス残業などの資料も作っておく。
『今、会社は労働基準局になど駆け込まれたく無いだろう』
今の部署は完全なブラック企業並みの残業とサービス残業を強要していたので、揉めた場合はそれを取引材料に使うつもりだ。
一応の準備を済ませたので、シャワーを浴びてベッドに横になる。寝不足で話し合いたくなかったが、目が冴えて眠れない。
『マンションを買った人達はどうなるのか?』
耐震偽装とは関係ないとはいえ、自分が勤めていた会社の大失態のせいで迷惑を被った人達がいるのだ。特に、何人かはかなり追い詰められているのが、智章にひしひしと伝わっていた。
『谷口様と吉田様はあのままでは……』
被害者は怒りを露わにしていたが、特に谷口譲と吉田美香は精神的にも追い込まれていた。黒い影に飲み込まれそうな印象を二人からは受け、智章は説明しながら、ドッと疲れたものだった。
智章は寝るのを諦めて、新たな資料を作成することにした。
「結局、あまり眠れなかったな……」
通勤電車に揺られながら、智章は欠伸を押し殺す。すんなり退職届を受け取ってくれれば、夜中に作成した資料を使うこともなく、立つ鳥水を濁さずで円満退社できるのだが、あの江藤課長の性格を考えると難しそうだ。
人混みに押し流されるようにメトロの駅に降り、通い慣れた通路からオフィス街へ出る。
近代的なガラスを多用した自社ビルに重たい脚を引きずるように入り、エレベーターを待つ。ドキドキと心臓が煩いほどで、智章は自分の小心ぶりに嫌気がさす。
「おはようございます」
まだパラパラと出勤しているだけのオフィスを見渡して、『ここに来るのも今日限りだ』と感慨を持つが、そうなるかどうかは、これからなのだと気合を入れ直す。
「酒井! ちょっと来い!」
オフィスに居ないから油断していたが、外から江藤課長が顔を出し、小会議室に連れ込まれた。
こうなったら先制攻撃しかないと、智章はスーツのポケットから退職届を差し出して頭を下げる。
「急なことで申し訳ありませんが、福山に帰ることになりました。退職届を受け取って下さい」
これを素直に受け取ってくれたら、後は事務的な手続きだけなのだが……と思って、頭を下げ続けたが、やはりそうは問屋がおろさなかった。
「酒井、そんな物は引っ込めろ! 今の部署が大変なのは私も理解しているが、あと一年したら他に異動させてやるから」
先ずは座れ! と命じられた時から長期戦を覚悟する。飴として異動を約束したり、鞭としてマンションの住民への説明を途中で投げ出すのかと脅したり、江藤課長の話は延々と続いた。
「第一、社会人として急に会社を辞めるだなんて非常識だろう! そんな事では生きていけないぞ!」
脅しても賺しても効果がないのに業を煮やした江藤課長が、バンと机を叩いて怒りだした。
「生きていけないから会社を辞めるのです。先週の水曜、私は後もう少しでメトロに飛び込むところでした。祖母がとめに来てくれたので、こうして生きて辞める事ができるのです」
突然、次元の違う話になって江藤課長も戸惑いを隠せない。部下が地下鉄に飛び込んで死んだりしたら困る。
「酒井……そんなに疲れているのなら、有給で休むとか……」
江藤課長としては部下に有給休暇を取らせてやるのは、空から槍が降って来るほどのあり得ない事だと智章は内心でプッと吹き出す。よほどいってしまってる様に思ったようだ。
「これは私のこの半年の勤務状態です。時間外も労務協定違反ですが、サービス残業はここに書いてある通りです。これを表に出せば、かなり騒動になると思いますが、ここで退職届を受け取って頂ければ、私もそんな事はしないと約束します」
いつも大人しい智章だが、一旦こうと思うときつい。江藤課長も今はこれ以上の騒動は御免だし、精神的に可笑しくなった部下のケアなどしたくもない。
渋々、退職届を受け取ってくれたので智章はホッとするが、ここからは水を引っ掻き回して濁さなくてはいけないのだ。
「私が担当していた方の中で、谷口譲様と吉田美香様について少しお話ししておきたいのです。今回の件では、どの方にも大変なご迷惑をお掛けしたのですが、谷口様は特に家庭でも問題を抱えておられます。優先して解決策をご提示しないと、このビルの前で焼身自殺しかねません」
また不気味なことを言い出した部下から江藤課長は身を後ろに逸らす。
「何を言っているんだ!」虚勢をはるが、声が裏返っている。
「話している時に、谷口様の頭の中には我社への怨みしかありませんでした。離婚問題は別の話なのですが、かなり混同して考えておられます。どうやら奥様はブランド志向が高いお方みたいなので、白金や恵比寿などにあるマンションとの交換を申し出れば良いかと……」
後の吉田美香についても同様に江藤課長に脅しを掛け、青ざめた顔色からしても、かなり水は引っ掻き回せたようだと満足して席を立つ。
「お前みたいな者を雇ってくれる会社なんかないぞ!」
江藤課長の罵詈雑言とも今日でおさらばだと思うと、智章も嬉しい。
退職の手続きをしている智章を、同じ部署の人達は遠巻きにしていたが、江藤課長から何か聞いたのか話しかけてくる者もいなかった。
『これが俺の会社での立ち位置だ……つまんないな』
机から私物を取り出し、ついでに溜まった有給休暇届を退職届と同時に出して、智章は三年間勤めた会社を後にした。
「二度と顔を見せるな!」
最後まで江藤課長とは駄目だったなぁと智章は大人気ない態度を思い出し、大きく深呼吸する。
「さて、有給休暇が終わったら、三ヶ月は失業手当も出ない。節約しなきゃな!」
先ずは、引越し代金を節約しようと、大学のサークルの後輩に電話する。移動が多い三月だったら家具とか家電とか貰い手が多かったのにと、不安に感じる。
しかし、地方の古民家を再生する時に泊まり込みが多いので、冷蔵庫やベッドなどは幾つあっても良いと軽トラで引き取りに来てくれた。
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