もう一人の旅立ち

 フェイは旅立つ前にとアスカの家へと向かうことにした。アスカの母親は快く迎え入れてはくれたが、アスカの様子は以前と変わらない。


 アスカに腕を引っ張られてアスカの部屋に入る。


 ピンク色のショートヘアはかなりボサボサ。綺麗なはずのエメラルド色の目は、その下にある隈が台無しにしている。でも、前と違うところがあった。


 顔のこけ具合は以前より少しマシになっている。何より、その表情はリュウが会った時に比べて明らかに明るくなっていた。ぎこちない笑顔すら浮かべている。


 リュウがあの猿を倒してから、少しだけアスカは明るくなった。まだ話すことは出来ないが、時間が経てば話せるようになるとフェイは信じている。


「アスカ。私、決めたよ。リュウさんの旅に付いていく。だから……しばらく、会えなくなるんだ」

『いつ旅立つの?』


 フェイの言葉にそう、紙に記して尋ねるアスカ。しきりにパクパクと口を動かすもそこから声は出てこない。まだ筆談でしか会話は出来なかった。


「明日の朝に。妖魔祓いになるかは、リュウさんの話を聞いて考えようと思ってる」

『フェイは強いからね』

「ううん。私だってあの猿には敵わなかった。リュウさんが助けてくれなかったら私も、アスカと同じになってたと思う」


 フェイの言葉に思わず俯くアスカ。アスカの心の傷は癒え始めたばかり。そう簡単に過去を受け入れることは出来ない。


 フェイがアスカのために出来ることはない。問題となった妖魔がいなくなった今、立ち直るかどうかはアスカ次第である。





 フェイはアスカの手を見た。その手はかなり細く、少し力を加えれば折れてしまいそうだ。あまりご飯を食べられなかったのだろう。


 アスカの部屋はかなり散らかっている。衣服は畳まないまま放置されていて。本や小物が床の上に散在していて。まるでアスカの心理状態を反映しているよう。


 だがそんなアスカの部屋のカーテンは開いていた。外からの光が部屋を照らしている。前に来た時は開いていなかった部屋の扉も、今日は開放されている。


「アスカ。外、出られる? まだ、怖い?」


 フェイの言葉にアスカはたじろいだ。エメラルド色の目が扉の外へと向く。昼間の廊下は、明るかった。


 アスカの手がフェイの服の裾を掴む。その手は、身体は、恐怖からか小刻みに震えていた。震えながらも一歩、また一歩、扉に向かって進んでいく。


「アスカ?」

『フェイは前に進む。なら私も、進むよ、前に』


 それはアスカなりの意思表示。怖いけど外へ出たい、前へ進みたい。そんなアスカの気持ちを表していた。


 フェイはアスカの小さな歩幅に合わせてゆっくりとゆっくりと歩く。今いる場所から扉まで、普通なら一分もかからない。だがアスカはそんな距離を五分もかけて進んだ。


 不意にアスカの足が止まる。そこは、扉と廊下の境界線。扉は開いている。見えない壁を設けているのはアスカの心。


 フェイは立ち止まるアスカの隣に並んだ。そしてアスカの手を優しく握る。一足先に、フェイが部屋から出た。アスカの細い身体はそんなフェイに引っ張られる。





 アスカの身体はフェイに向かって倒れるような形で部屋の外に出た。フェイは細いアスカの身体をしっかりと受け止める。


 その物音に気付いたのだろう。アスカの母親が何事かと駆け寄ってきた。目の前で起きている光景に思わず涙を流す。


「おかえり。……おかえり。おかえり、アスカ」


 アスカの母親はフェイとアスカを一緒に抱きしめた。その温もりにアスカは一瞬目を見開いたが、すんなりとそれを受け入れる。


 もうアスカの身体は震えていない。アスカは、必死に口を動かす。だが音にならない息が出るのみ。その口は「ただいま」と動いていた。


「絶対また帰ってくるから。帰ってきたら、会おう」


 フェイの言葉にアスカが頷く。フェイはさらに言葉を続けた。


「手紙、書くから。絶対死なないから。しばらく会えないけど、待っててね」


 そこまでフェイが言った時だった。フェイの肩に生暖かい液体が落ちた。何事かと見ればそれは、アスカの涙であった。


 アスカは声を出さなかった。時折鼻をすする音を立てるくらいで、静かに泣いていた。泣きながらも身体を動かし、紙に文字を書く。


『何時に行くの?』

「九時か十時くらい、かな。どうして?」

『出発するのはどこから?』

「山の方の出口だけど……」

『明日の朝九時に、山の方の出口。渡すものがあるから、待っててほしい』

「わかった」


 フェイはアスカの申し出を聞き入れた。アスカが自分から何かを申し出るのが久々だからだ。翌朝を楽しみに、フェイはアスカの家出ることになった。

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