後編 裏ルール




 私は金縛りという存在に慣れていました。


 あれは、身体や心が疲れているサイン。

 疲れたときに、歯が抜ける夢を見るのと同じこと。

 だからいつものように、知らないフリを決め込みました。

 何かが見えるような気がしても、それはただの気のせい。思い込み。

 私の場合、いつもなら誰か一人が傍にいるような感覚に襲われるのですが、その時は四方八方から黒いモヤがモクモクと立ちこめて……私の部屋を覆いました。


 目を開けても閉じても、暗闇。


 何の音もしません。


 息を潜めてジッとしていたら……耳元でこんな声が聞こえたような気がしました。






***




 翌日の仕事終わり、私は先輩に金縛りのことを報告しました。

 笑われて終わりかと思いましたが、先輩は神妙な顔をして私を検査室の奥へと導きます。


「報告、ありがとう。よく覚えていたわね」

「ええ、まぁ……印象的なルールですし」

「そうね。でも印象には残っても、行動に移してくれるヒトは少ないから。それで、身体はなんともない?」

「身体?」

「心、と言った方がいいかしら。アナタ、今日患者さんとも同僚ともトラブルを起こしていたじゃない」


 私はどちらかというと温厚な方ですが、何故かその日は朝からどうも虫の居所が悪く、いつもなら軽く受け流せるようなことに対してもいちいち突っかかって、他人をイヤな気持ちにさせてしまっていました。


「……すいません、反省しています」

「私に謝っても仕方がないでしょう。それより明日、いつもより三十分早く来てちょうだい」

「早く……ですか」

「本館の噴水前のベンチで、待ってもらっているから」


 先輩は用件だけ伝えて、立ち去ってしまいました。

 誰が私を待っているというのでしょう。

 半信半疑で、次の日の早朝に指定された場所に行くと……そこにはとても小柄なおばあさんが座っていました。

 病院のお掃除をしてくれる、清掃会社の制服を着ています。

 私の身長の半分くらいしかない彼女は、私を一目見るなり言いました。


「お嬢さん、


 皺だらけの手と顔なのに、まるで少女のような若々しい声だったことを覚えています。

 

「そうですね。ここのところ、連勤が続いていますから」

「そうじゃないよ。今日は、ヤツラに何を言われた?」


 実はその日も、金縛りにあっていました。

 前日と同じように黒いモヤに囲まれて……。


「最初に言われたことと、同じです」

「教えてくれ」

「……意味はよくわからないんですけど、……って」

「そうか」


 おばあさんは私を手招きして、ベンチに座るように促しました。


「アレ、なんでしょうね? 幽霊でしょうか」


 私はおばあさんの隣に腰掛けて、問いかけます。


「アレは幽霊なんて、そんなじゃないよ」

「え?」

「病院っていうのは、イヤなところだね。特に夜は。病気の人間が、一番見たくないものはなんだと思う?」

「ええと……なんでしょう、わかりません」


 小首を傾げてそう答えると、おばあさんは盛大にため息をついて言いました。


「自分より、健康な人間さ」

 

 おばあさんはポケットから、クシャクシャになった青色のパッケージに入ったタバコを取りだして口にくわえます。


「火、持ってる?」

「すいません……タバコは吸わないので」

「ホラ」


 手渡されたのは、マッチ箱でした。


「コレで火をつけるんだ」


 マッチで火をおこすなんて、中学生以来でしたがなんとかうまくできました。

 風で火が消えないように、左手で覆いながらそっとおばあさんのタバコに火を移します。


「ヒトは誰でも、無いモノ強請ねだりの達人だよ。妬み嫉み羨望嫉妬……そういう想いの総称がアイツらだ。名前なんてない。個人の人格なんて、全部溶けて混ざった。そしていつだって、大口開けて他人を引きずり込もうとしている。健康な人間に取り憑いては、ああ、あやかりたいと言って……生気を奪う。前向きな気持ちを喰らう。いくら奪ったところで、生き返るはずなんてないのに、それでも止めないんだから……本当に」


 おばあさんはそこで言葉を区切って、タバコから唇を離しました。



 そうして、口の中いっぱいにため込んだ煙を私の顔に吐き出します。


「わっ!?」

「悪いね、これが一番効くからさ」


 タバコの煙のはずなのにタバコの匂いは一切しなくて、何故か微かに磯の香りがしました。


「また、早く先輩に言うんだよ」


 おばあさんはタバコを指で揉み消して、吸い殻をポケットに突っ込みます。

 そして私が何か言うよりも早く、さっさと立ち上がって自分の業務へと戻ってしまいました。


 その後、金縛りにあうことはあっても黒いモヤに悩まされることはありませんでした。

 あの時のおばあさんにお礼がしたいと思って、清掃中のおばあさんにあちこち声をかけたりしましたが、全て人違いでした。

 先輩にも聞いてみましたが、先輩もそのまた上の先輩から言われたことを私に伝えていると言うだけで、詳しいことは分かりませんでした。




***




 これで、私の話は終わりです。

 私には霊感がないので分からないのですが、幽霊って……本当にいるのでしょうか。

 金縛りは生理現象に近いですし、自称霊能者の言うことだって十人十色で、お掃除会社のおばあさんが言った言葉を、全て鵜呑みにして信じているわけではありません。

 Yさんのことだって、単純に仕事が肌に合わなくて辞めてしまっただけかもしれません。

 私のおかしな精神状態だって、金縛りにあうぐらい疲れているが故のことだったのかもしれません。


 でも、同時に思うのです。

 って、と音が同じだなって……。

 憑かれているから、疲れやすいのか。

 疲れているから、憑かれやすいのか。

 卵が先か、鶏が先か……。



 本当の所は、わかりません。


 ただ一つだけ言えることは、組織のルールには素直に従うべきだということです。



 たとえ裏でも、表でも。



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A病院の裏ルール 穂波子行 @honamikoyuki

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