第3話 横浜駅
JR横浜駅改札。
「さて」
ロッテンは小さくつぶやいた後、周囲をキョロキョロ見回し始めた。その真似をしていたわけではないけれど、あたしもロッテンの背後であたりを見回した。
初めて来た場所。
(なんであたし、横浜にいるの?)
ほんと、わけがわからない。
横浜へは生まれて初めて来た。来る予定なんてまったく無かった。
そして目の前にいるのは、叱られた記憶しかない、こわい先生。
ここに来るまでの道中、頭の中でいろいろ整理してきたけれど、結論を導き出すには条件が無さ過ぎた。
(って数学の問題じゃないけど)
ロッテンと会ってからはあっという間だったようにも思えたし、長い時間だったようにも思う。まだ午前中。学校では一時限目が終わる時間。
池袋駅でJR山手線の内回りに乗り換えた。
平日朝の山手線は、あたしがこれまで経験したことの無いほどの地獄だった。
これまで学校をサボって出かけた時は、ラッシュの時間が過ぎるまで、あたしは池袋駅近くのファストフードやコンビニで時間を潰していた。この時間に行ったところでカリナたちはまだ来ていないから、という理由もある。
それなのにロッテンは、無理やり満員電車に挑んだ。
さっきまで痴漢に遭っていた電車内を“満員電車”と呼ぶのであれば、こちらは“超”の字が二つほど上に付く。身長一五〇センチあるかないかのあたしには、呼吸をするのも一苦労。また痴漢に遭うかもしれないという恐怖もあった。
だけどロッテンが、ずっとあたしを自分に抱き寄せていた。驚いて必死に離れようとしたけれど、人が多過ぎて無理。降りるまでのおよそ三十分間、あたしはずっとロッテンに密着する羽目になっていた。
(意外にやわらかかったな……)
服越しだけど、そう感じた。
ロッテンはもっと硬いと思っていた。痩せているからというのもあるけれど、同じクラスにアニメや漫画が好きなコがいて、ロッテンのことを「アンドロイド」だの「サイボーグ」だのと揶揄しては笑っていたから。あの時は同調して一緒に笑っていたけど、今思うとばかばかしい。けれどそれに影響されていたみたいで、硬いというイメージを持っていた。
ロッテンは見た目が筋張っているのに、フカッとした感触だった。それに石けんとお線香の混ざったような匂いがしていて、それが私を安心させてくれた。
“超超満員電車”も、渋谷を過ぎたあたりでだいぶらくになった。体を密着させる必要はなくなったけれど、ロッテンはずっとあたしの手を握っている。しばらくは手首を掴まれていたけれど、気がついたら仲良しみたいに手を繋いだ状態になっていた。
やがて電車が品川に到着し、ロッテンに引っ張られて降りた。
(ここが目的地? どこに連れて行かれるの?)
何もかもが不安だった。学校の先生だから痛い目には遭わないと思うけれど、でももし実はロッテンがマフィアか何かと繋がっていて、適当な生徒を売り捌いていたら?
もっともそんな行方不明者の話なんかは聞いたことが無いけれど、少し前に読んだ本の内容がそんなストーリーだったのを思い出して、不安が加速した。
(ここで「助けて!」と叫んだら、誰か助けてくれるかな?)
でもそれだと警察に通報されてしまう。
サボりが学校にばれるだけなら、あのひとで話が止まると思う。連絡はあのひとの携帯電話番号だから。あたしに後ろめたいものがあるし、あたしがこの学校の生徒であることを好きなのはあのひとだから。でも警察まで話が行ってしまったら、そうはいかなくなる。
(リコンした後、お父さんに連れて行ってもらえなくなる? そしたらあのひとと暮らすことになる? それはちょっと……)
逃げ出したらどうだろう?
(逃げたところで、学校でまた、ロッテンとは顔を合わすことになるんだけど……)
歩きながらそんなことを頭の中で計算していたら、突然ロッテンが立ち止まり、あたしに空いている方の手を突き出した。
「お貸しなさい」
「は?」
何のことかわからずにオロオロしていると、持っていた学生鞄をロッテンに奪われた。
怒っているのか、少しばかり乱暴に取られた。鞄を奪われても何のリアクションも取れないほどに、あたしはすっかり怯えてしまっていた。
その時のあたしたちは、ちょうどコインロッカーの前にいた。ロッテンはあたしの鞄をロッカーのひとつに入れた。財布は鞄の中。ポケットの中に入っていたハンカチとスマホ以外の全てが、コインロッカーに入れられてしまった。ロッカーの鍵は、ロッテンの黒い革のハンドバッグの中へ。あたしはそれを、ただ呆然と見ているだけ。
(逃げられない)
あたしのスマホには電子マネーの機能が無いから、これであたしだけではここから帰れない状況となってしまった。
「これも」
「へっ?」
次にロッテンは、あたしのつけていたリボンタイを外した。半袖の白いブラウスにワインレッドのリボンタイをつけ、モスグリーンのタータンチェックのベストと膝丈スカート。これが、あたしたちの学校の夏制服。そのうちのリボンタイと、その後ベストに付けていた校章を外された。
(なんで?)
丁寧に畳んだリボンタイと校章もまた、ロッテンは自分のバッグに入れた。
「あ、あの、先生。あたしは一体どこに……」
「“私”と仰いなさい」
「は、はいっ!」
「さ、急いで」
「は……はい」
ロッテンは再びあたしの手を取って歩き出した。いきなり引っ張るから、最初はつまずきそうになる。ロッテンは一瞬立ち止まって、無表情でそんなあたしを見て、結局転んでいないことを確認してから、また前を向いて歩き出す。
ロッテンの向かった先は東海道本線のホームで、あたしたちはたまたま停まっていた電車に乗った。
ラッシュ時間はとうに過ぎていたのか、さっきの超超満員電車とは打って変わって車内は閑散としていた。進行方向に向かって左側の窓からは、強い日差しが差し込んでくる。顔の皮膚がチリチリと痛い。
席は空いていたけれど、あたしたちはドアの近くに立ったままだった。座りたかったのに、あたしの手を握ったままのロッテンが立っていたから無理だった。
(……あたし、どうなるんだろう?)
方向としては、神奈川県方面というのはわかる。けれどどこに向かっているのか、詳しい行き先の説明は無い。あたしから聞けばいいのかもしれないけれど、この状況で何て言い出せばいいのかわからない。
それに、こわい。
(今日一日付き合えって……学校は?)
確かこの日は、海外の姉妹校からの来賓があると言っていたはず。毎年この時期にあることらしくて、整理整頓や礼儀などがふだん以上に厳しくなる。だから学校をサボっても、なあなあになると思っていたんだけど。
習ったことは無いけれど、ロッテンは英語の先生。毎年その行事の通訳として活躍していると聞く。それなのに学校から遠ざかっているのは、どうして?
(ロッテンは学校に居なくていいの?)
チラリと横目でロッテンを見ると、険しい横顔をしていた。こわい。いつもと同じロッテン。
(あれ?)
蒲田駅を出てしばらくすると、電車は大きな陸橋に差し掛かった。その下には海のような広い河川。
(この川……)
あたしは視力がいい。川岸に、“多摩川”と書かれた看板が立っているのが見えた。
(てことは、この橋を渡ったら神奈川県なんだ)
小学校の社会科の授業で、東京都周辺の地域を学んだ時のことを思い出した。初めて訪れた土地。
「!」
そこでふと視線を感じた。
手をロッテンにとられたまま、あたしはいつの間にか窓に貼りついていた。それをロッテン見つめられていた。
(怒ってる?)
「すっ、すみません!」
「……」
慌てて窓から離れた。ロッテンは何も言わなかった。
その時、ポケットの中のスマホが震えた。
(カリナかな。やばいなぁ……)
カリナはすぐにメールを返さないと、機嫌を悪くする。急いで連絡を取りたかったけれど、ロッテンにスマホを持っていることがバレるのはどうかと思う。窓の外を眺めているロッテンの横顔を盗み見た。あたしのスマホに気づいていないらしい。
(呼び出し音、消しておいてよかったー)
ホッとしていると、車内アナウンスが流れた。
『まもなく、横浜、横浜――』
進行方向に向かって左側に、初めて訪れたのに見覚えのある景色が現れた。半月が縦に刺さっているかのような白い建物が見えるその景色は、テレビで何度か見た街、横浜だった。
「行きますよ」
「はっ、はい」
ロッテンは私を引っ張って歩き出した。その方向を指した矢印の看板には、「横浜駅東口方面」と書いてある。地下道は明るくて、デパートの広告が多かった。
(デパートに用事があるの?)
ロッテンは歩くのが速い。あたしは転ばないように小走りでついていくのに必死。だから次々と生まれる疑問を口に出す余裕も無いし、その勇気も無い。
デパートに入ると、ロッテンは急に立ち止まり、店内の案内板を見ていた。そして何かを見つけて、すぐにまた歩き出した。向かったのは、エスカレーター。
「足下にお気をつけなさい」
ロッテンは、振り返らずにあたしに言った。
JRとの連絡口は地下二階にあって、あたしたちはエスカレーターで地上一階まであがった。
(?)
ロッテンは早足で、周囲をキョロキョロ見ながら移動していた。
(何を捜しているんだろう?)
なんとなくそう思った。キョロキョロしているわりには、道に迷っている感じでは無さそうだったから。
また生まれた疑問を置いてけぼりにして、相変わらずわからないまま連れ回されていると、ロッテンはとある表示板を見てまたエスカレーターへと向かった。その表示板には、『シーバス乗り場 二階より連絡通路あり』と書かれている。
(シーバス? って何?)
初めて聞いた言葉。“乗り場”ってことだから、乗り物なのだろう。バスの停留所でもあるのかしら。そんな考える暇もくれないまま、ロッテンはあたしを引っ張って、二階出入口から建物の外へ出た。そこには明るいガラス張りの連絡通路があった。
(川?)
キラキラと輝く水面が、すぐそば。そして潮の香り。
(……じゃない! 海!)
連絡通路の向こうには、青いロゴマークが掛かっている商業施設があった。ここもテレビで見たことがある。バラエティ番組でタレントがここを紹介していた。そこに用事があるの?
――と、そう思ったら、その建物には入らないで、そのすぐ手前の階段を降りた。
海が近い。
そのせいかな。なんだか楽しくなってきてしまった。
「足下にお気をつけなさい」
ロッテンはさっきと同じことを繰り返しながら、自分が段差によろけていた。
(ロッテンこそ、危なっかしいんだけど)
プッとふき出したくなるのをこらえた。
階段を下まで降りると、先の方に『シーバス』という看板が見えた。そのそばに停まっていたのは、そんなには大きくはない客船だった。
(シーバス……って? バス? ここからバスに乗るの?)
船はあれど、バスなど見えない。
『シーバス』という看板のすぐ横にある入口から、建物に入る。ここに来て、あたしはようやくシーバスが何かを理解した。そのロゴが書かれた、船の写真が展示されていたから。
(ああ、“海のバス”か!)
遠くまで行くというものでは無くて、終点まで数カ所に停まるという、路線バスみたいなものらしい。
連れて来られたそこは待合室。明るい表情の客が多く、平日だというのに賑やかだった。
「ここでお待ちなさい」
あたしを壁際に立たせ、ロッテンはカウンターに向かった。切符売り場と書いてある。
(え、乗るの?)
チケットを買うのならそうだろう。あたしはすぐそばのラックから、パンフレットを一部つまんだ。『みなとみらい』や『赤レンガ倉庫』等、テレビでしか見たことのない観光地の名前が載っている。
(船なんて初めて……)
ワクワクしてきた。家族で海に行くことはあったけれど、お母さ――あのひとが船で酔うからって、乗ったことはなかった。
そもそも横浜自体が初めて。テレビを見ながら「行きたいね」と、お父さんたちと言っていたことがある。いつのことだったかな。半年前だっけ? 小学生の頃だっけ?
お父さんもあのひとも笑っていた、家族団らんの時間――。
ズキンと、胸が痛んだ。
そこへ、またスマホが震え出した。スカートのポケットの中で、ブルブル震えている。
さっきまで頻繁にメールが来ていたみたいだけど、今度は電話。カリナの名前が表示されている。
(どうしよう……)
ロッテンはまだ切符売り場にいるけれど、出ることに躊躇しているうちに電話が切れた。
(メールの返事した方がいいよね)
すごく気になる。何度も連絡を無視してしまっているというのもあるけれど、最近カリナが冷たいと思っていたから余計に。
メールの数が、二学期になった途端に減った。
サボって会いに行くと、「さくら、学校いいのかよ?」と聞いてくる。
なんだかよそよそしい。
何か怒らせたかなとも思ったけれど、カリナは嫌なことがあるとすぐに言ってくるから違うと思う。どんなに親しい友だちに対しても、容赦がない。あたしが何か逆鱗に触れるようなことをしたなら、すぐ怒って指摘してくるはず。
この日はあたしが行くとメールしたのに、未だに現れないわけで……きっと怒るか心配しているのだろう。もしかしたら、これをきっかけに仲間から外されるかもしれない。
(返事出さなきゃ!)
あたしはあわててカリナからのメールを読もうとした。
「これは、預かります」
「へ?」
突然、背後から、ひょいとスマホを取り上げられてしまった。困る!
「せっ、先生……」
「お持ちなさい」
「でもスマホ……えっ」
ロッテンはスマホの代わりに、チケットを一枚寄越した。チケットの表面に「横浜駅東口~山下公園」と書いてあるのが目に入った。
(山下公園!)
「まもなく船が出ます。急ぎなさい」
「は? はい」
建物から出ると、そばに停まっていた船に客が乗り込み始めていた。『シーバス』とある看板の下が乗り場。あたしたちも続いて乗り込んで、座席の並んでいる内部へと入っていった。
船内は八割方埋まっていた。待合室に居た客がほとんど。どこかの観光ツアーみたいで、旗を持ったツアーコンダクターっぽい女性が、人数を数えていた。
ロッテンはしばらく船内をキョロキョロ見回して、それからひとつ小さくため息をついてから、空いていた右側座席の一番前の席に向かった。あたしは窓際に座るように促され、ロッテンはそのすぐ隣に腰を下ろした。これであたしは逃げられない。もっとも海の上では逃げようがないけれど。
まもなく船が汽笛を鳴らし、動き出した。
(うわっ……すっごい揺れる!)
生まれて初めての船旅。興奮しているのが自分でもわかった。子どもみたいで気恥ずかしいけれど、高ぶる気持ちを抑えられない。
思っていた以上にエンジン音は大きかったけれど、慣れれば気にならなかったし、揺れながら見る景色は抜群だった。
やがて船は細い水路を抜け出て、横浜湾に出た。
船窓から見える水面に、海鳥が何羽もプカプカ浮いている。カワイイ。
左手に見える工業地帯。風力発電のプロペラ。右手には、電車からも見えた半月形の建物。遠くにはたくさんの船が浮かんでいる。
(あれ、ベイブリッジだ!)
太陽光を受けて輝く、白い大きな橋。それも何度もテレビで見たもの。お父さんたちと寛ぎながら、一緒に見た風景――。
(……やなこと思い出した)
はしゃぐ気持ちも、あのふたりのことを思い出したら一気に冷めてしまった。
「間に合うかしら」
(えっ?)
ふいに、小さなつぶやきが隣から聞こえた。
ロッテンの方を見ると、無言で腕時計を眺めているだけだった。船窓の風景どころか、周囲すら見ていない。
(今のロッテン?……だよね?)
確かにロッテンの声だった。エンジン音のせいで、背後の乗客の声は聞こえてこない。目が合う前に、あたしは視線を窓の外に戻した。
(急いでいるの?)
あせりが滲み出ているようなつぶやきだった。
でも船上だから、急ぎたくても急げるわけがない。あきらめて、船のスピードに任せるだけ。それがもどかしいのかも。
赤いレンガの建物が見えると、他の客がきゃあきゃあと騒ぎ出し、それぞれが持っていたカメラのシャッターを押していた。あれもテレビで見て知っている。『赤レンガ倉庫』。
(あそこにも行きたいって、お父さんたちは言っていたな)
テレビに映る建物を指さしながら、あのひとははしゃいでいたっけ。
(いつから家族旅行ってしてないんだっけ?)
確か中学受験を意識した頃から。
そしておそらくはもう、三人で出かけることはないだろう。
お父さんたちは、離婚を視野に入れて話し合っているのだと思う。もっとも何も話してもらえないから、わからないけれど。
チクチクと胸が痛み始めた。
あたしは頭を横に数回振った。そして呪文を唱える。
(あたしはこんなことで傷つくような子どもじゃない)
そうすると痛みが消える。
あたしは夏休みが始まった日から、いつもそうしてきた。子どもじゃないから、甘えない。あたしひとりの力で立つ。
気がつくと船の中はみんな笑顔。それなのにあたしとロッテンだけが無表情で、ただ静かに船に揺られていた。
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