第9話 山手
(緑が多いところなのね)
窓の外を眺めながら、あたしは改めてそう思っていた。
豊かな緑が風に揺れている。
ハッキリとした色の緑を見ているだけでも深呼吸をしているような気持ちになれるのは、不思議。すごく気持ちいい。
あたしたちは喫茶店にいた。
古い洋館っぽい外観からは、はじめ、それとは気がつかなかった。広くはないけれど、明治や大正を思わせるアンティークな内装。礼儀正しくオーダーを運んできたメイド服の店員さん。テーブルの上には、高そうなカップ。隣では上品そうなおばさんふたりが、ケーキと紅茶を楽しみながら談笑している。
優雅なお茶の時間。自然と背筋が伸びてしまう、憧れの世界。
港の見える丘公園の中を足早に一周ぐるりと回ってから、あたしたちはそこを出た。
(もっとじっくり見たかったのに!)
そうは思ったけれど、文句は言えない。だけど――
(喉渇いたな……)
公園の中では、ずっと日向を歩いていた。それに中華街で食事をしてからずっと、水を口にしていなかった。これは結構キツイ。あたしは思い切って話しかけた。
「せ、先生、あたし……」
「“私”と仰いなさいと、何度……」
ロッテンは立ち止まり、訝しげな顔で振り返った――けど、その顔はすぐに驚愕に変わった。まん丸瞳の驚いた顔。これも初めて見た。よほどあたしの顔色がやばかったのだと思う。
「か、神崎さん?」
「あた……私、の、喉、乾きました……」
「神崎さん! 大丈夫ですか?」
そうして慌てて入ったのが、その喫茶店だった。
窓を横に、あたしとロッテンは、向かい合って座った。
「お待たせいたしました」
(お待ちしておりました!)
ロッテンの紅茶に遅れて、あたしがオーダーしたものが運ばれてきた。ベリー類がたくさん乗ったフラッペ。メニューを見て、即決したもの。
「うわあ、おいしそう! あ、すみません。お水もう一杯お願いします」
素直に声が出た。隣のおばさんたちにも聞こえたみたいだけど、ニコニコしながらこっちを見ているから構うもんですか。最初に出された水は、もちろんすぐに飲んでしまった。その後に届けられた水も、一気に飲み干した。
(生き返った~……さて、フラッペを……)
一息ついて氷に取りかかろうとした時、対面のロッテンと目が合った。
「あ……い、いただきます」
愛想笑いではあるが、あたしはニッコリと微笑んで見せた。こんな風に自分がロッテンに笑いかけることがあるなんて、今朝まで思いもしなかった。ロッテンは少しだけ驚いた顔をして、そしてすぐに目尻を緩ませた。
「どうぞ、おあがりなさい」
ロッテンってば、すてきな笑顔ができるじゃない!
ひょっとしたら、今のあたしみたいにロッテンに対して物怖じしない生徒っていうのが、初めてなのかもしれない。だから驚いているし、微笑み返してくれる。
さて、フラッペ。シロップと氷、ベリー類をうまい配分でスプーンに載せる。それをこぼさずに口に運ぶのが難しい。でもパクッと口の中に入れると、甘く爽やかな酸味が溶け出した。あまーい。すっぱーい。シアワセ!
「んーっ!」
つい声が出てしまった。
ロッテンの目がますます緩む。それを見て、あたしもうれしくなった。
思いがけなく始まった、ロッテンとの横浜デート。こんなに楽しくなるなんて、誰が思う?
(あたしたち、他の人から見たら、どんな間柄に見えるんだろう?)
ふとそう思った。たとえば、カウンターに控えている店員さんからは、あたしたちの関係がわかるかな?
『お姉ちゃんのおばあちゃん?』
あの青いキャップの男の子は、そう言っていた。
(おばあちゃんか……)
でも実際のおばあちゃんは、ふたりとももう少し年齢が上だ。お父さんの方のおばあちゃんは専業主婦で、もうひとりのおばあちゃんは働いていたけれど、昨年からは定年で家にいる。ふたりとも都内に住んでいるから、たったひとりの孫であるあたしに、結構な頻度で連絡をしてくる。
お父さんとあのひとが不仲になってからは、特に。
お父さんの方のおばあちゃんは「遊びに来い」と言う。もうひとりのおばあちゃんは、遠慮がちに「小遣いは足りているか?」「ちゃんと食べているか?」と聞いてくる。決してお父さんの方のおばあちゃんほど強引に「遊びに来い」とは言わない。その違いが今のあのひとたちの力関係を明示していて、何だかイヤ。
(また思い出しちゃった。早く食べないと、溶けちゃう)
忘れて再びフラッペに取りかかることにした。
そこへ、ゴトッという音がした。
「!」
テーブルの上、あたしの目の前にロッテンの手が伸びて、あたしのスマホと、リボンタイ、校章、そして品川駅のコインロッカーの鍵が次々と並べられた。
「え……」
さらにロッテンは自分の財布から一万円札を取り出して、テーブルの上に置いた。
「……?」
あたしはロッテンが何をしたいのかよくわからずに、ただ見つめた。
「今日はありがとう」
座ったままだったけれど、ロッテンはきちんと上体を折りながら、静かに礼を言った。あたしは生徒なのに、こちらが恐縮するほどに丁寧なお辞儀だった。
「え?」
あたしはテーブルの上とロッテンを、何度も交互に見た。スマホは着信やメールがあったことを知らせる表示が出ていた。
「それを食べたら、もうお帰りなさい」
「えっ……」
「これで今日はもう、東京にお帰りなさい」
思いがけない言葉は、あたしの脳内に入り込むまで随分時間がかかった。しばらくポカンと口を開けたままだったあたしは、次に爆発した。
「なんでですか?」
大きな声が出て、店内の注目を浴びた。それをたしなめることはせず、ロッテンはあたしをまっすぐ見たまま続ける。
「電車の中であなたに見つかって……学校に引き返すわけにもいかず、ここまで連れてきてしまったけれど、もうこれ以上付き合わせるわけにはいきません」
「そんな!」
「神崎さん?」
あたしの反応が意外だったらしい。確かにここは喜んで帰る場面だろう。ロッテンにとって、私は不本意に連れ回されていた立場なのだから。
それなのに抗議される。予想外だったみたい。
「そんな、ここまできたのに!」
「いいから、お帰りなさい」
「イヤです」
あたしはロッテンの申し出を、キッパリと拒否した。
「……」
ロッテンは無言のまま、静かに困惑の表情をした。何と言って説得していいのかがわからないようだった。
あたしはまだ知らない。ロッテンが、誰を捜しているのかを。
それを教えてもらえないうちは、帰れない。
あたしたちは黙ったまま、向かい合っていた。
窓から入ってくる陽光に、じわじわとフラッペの氷が溶ける。てっぺんにあった小さな藍色のベリーがひとつ、氷の山から少しだけ転げ落ちた。それをきっかけに話し出したのは、あたしだった。
「船、娘、横浜の帽子」
「!」
船、娘、横浜の帽子。これらのキーワードは、ロッテンの財布の中にあったメモに書かれていたもの。あたしにそれを見られる機会があったことを、ロッテンはすぐに思い出したらしい。
「……あ、あなたには関係のないことです」
「はあ?」
突然突き放すようなロッテンの言い方に、カチンときた。さっきまであたしの手を掴んで離さなかったくせに!
「神崎さん、声が大き……」
「関係ないのに、あた、私をここまで連れ回していたんですか?」
ロッテンはまた黙ってしまった。
あたしはテーブルに置かれた自分のスマホを手に取り、電話をかけるふりをした。
「未成年者略取だって言って、通報することだってできるんですよ?」
これは脅迫。けれど続けた。
とにかく知りたかった。鬼教師とか言われて恐れられている先生が、学校をサボってまでなりふり構わずに、この横浜で誰を捜しているのか――を。
ロッテンは眉間に皺を寄せ、その表情は徐々に苦しそうになっていった。途端にあたしは悪いことをしている気分になる。
(あたしに聞く権利は無いかもしれないけど……)
でも、もう、後には引けない。
そこでふと、窓の外で人影が動くのに気がついた。ちょうどロッテン側からは見えづらいところ。
(あの人……!)
オジサンがひとり立っていた。
すぐに思い出した。元町から港の見える丘公園に向かうきつい坂道で、あたしたちの後を歩いていたあのオジサン。そのひとが道路から店の中を見ていた。
(まさか、つけられてた? や、やっぱり強盗!)
オジサンもあたしに気づかれたとわかったらしい。オジサンは顔を背けて、そそくさとその場を立ち去った。どうやら足が悪いらしく、右足を引きずるようにしていた。
「……神崎さん?」
オジサンが見えなくなるまでひとりでハラハラしていたあたしに、ロッテンが気づいた。
「どうかしましたか?」
「いえ……あの、強盗が……」
「ご、強盗?」
思いもしない単語が出たことで、ロッテンは目を丸くした。
「たぶん、ほらあの、山下公園でおまわりさんが言ってたじゃないですか。女性を狙う強盗が出るって。今、窓の外でへんなオジサンがこっちを見ていたので」
「おじさん?」
「さっきも坂のところで見かけたんですけど、くっらーい感じの目をしていて、ちょっと足が悪いらしくて……」
「!」
激しい音をたてて、いきなりロッテンが立ち上がった。
「せ、先生?」
驚いた。けれどあたしに構わず、ロッテンは出口へと駆けだした。
こんな激しい動きをするロッテン、初めて見た。
何が起きているのかわからない。だけどロッテンのバッグが置きっぱなしになっていて、ここの代金も払っていない。あたしは店の中にそのまま居るしかなかった。
窓から様子を見ると、店を出たロッテンは、前の通りでキョロキョロし始めた。
いつもの冷静なロッテンじゃなかった。表情は悲壮感が漂い、前後左右、ぐるぐる回りながら誰かを捜している。
(さっきのオジサンを探していたの? あのオジサンが探していたひとなの?)
だけどさっきの坂道で、気づかなかった。顔だって見ていてもおかしくないくらい、近くにいたのに。
「わっ!」
突然テーブルの上に置かれたスマホが震えだした。カリナの名前がディスプレイに出ている。
「も、もしも……」
『やっと出た! ちょっとさくら、アンタ何やってんの!』
声、でかい。あたしは思わずスマホを耳から話した。そうだった。彼女が怒っていてもおかしくない。
『朝メール寄越してから、それからずっと音信不通ってどういうこと? 今どこにいるの?』
「ご、ごめん。あ、今ね……」
周囲の視線に気がついた。さすがに迷惑。あたしは店員に簡単に事情を説明してから、スマホを手に店の外に出た。
「ごめん、ほんとーにごめん!」
『“本当にごめん”て何だよ? いつもは嘘のごめんなのかよ!』
(そこにツッコむの?)
カリナはおかしなところにこだわる。
『で、何? 今日って結局学校に行ってるの?』
「違うの。今、横浜にいるの」
『え? なんで?』
「学校の先生と一緒にいるのよ。連れて来られたの」
『……ごめん、何言ってんだかよくわからない』
無理もない。この現状を、当人であるあたしですら、よくわかっていないのだから。
『連れて来られたって、学校の先生に拉致られたってこと?』
「うん。サボろうと思って学校のある駅を素通りしたら、ロッテン……先生も電車に乗っててさ。見つかって、そのまま横浜」
『なんだそりゃ? っていうか、その先生は何しに横浜まで?』
ロッテンがよろよろと戻ってきたのが見えた。
「わかんない。でも、ここまで来たらそれを知りたくて。ごめん、先生戻ってきた」
『先生と一緒なら、大丈夫だよな。うん、わかった。何か困ったことあったら電話しなよ。今あたしたち渋谷にいるから、横浜までなら三十分くらいで行けると思う』
心強い。
「ありがとう。ごめんね。それじゃ」
あたしは電話を切った。最近は距離を感じていたから、カリナが心からあたしを案じてくれていたことがうれしかった。思わずスマホを握り締めるほど。
ロッテンは、あのオジサンを見つけることができなかったらしい。意気消沈した顔で、しょんぼりと店に戻ってきた。
こんなに頼りのない感じのロッテンを見たのも、初めてだった。
この日は誰も知らないロッテンをたくさん見ることができた。それらはうれしい。クラスメイトたちは、誰もこんなロッテンを知らない。あたしだけ。
だけどそこにいるロッテンは“厳しい女教師”ではなくて、単なる“おばあちゃん”にしか見えなかった。何かにひどく疲れ、ハタリと倒れてしまいそうな足取りで、ぼんやり歩く。こんな様子のロッテンを見るのは嫌だった。
「先生」
あたしの横を通り過ぎて店に戻ろうとするロッテンに、思い切って声をかけた。
「あ、あの、先生は今、誰を捜しているんですか?」
ずっと聞きたかったことを、ようやく口にすることができた。
ロッテンは立ち止まり、一度だけまばたきをして、溜めた息を小さく長く吐いた。
その様子を見て、これはあたしが聞いてはいけないことだったとわかった。聞いたところで、あたしが受け止めることができるのかどうかもわからない。
それなのに問いかけてしまった。言った途端に、気が重くなった。
だけど。
「祐作を……」
ロッテンも本当は黙っているつもりだったのだと思う。だけど疲れていた。だから、あっさりと声を漏らした。
「ゆうさく?」
あたしは反射的に、その誰かの名前を繰り返した。
ロッテンは、ゆっくりとあたしを見つめた。泣き出しそうな表情。それもまた、初めて見た顔。見たくなかった顔。
そして絞り出すように、苦しそうにつぶやいた。
「……私の……息子です」
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