第10話 横浜外国人墓地
港の見える丘公園に向かう途中、墓地が見える。
ここは、横浜外国人墓地。
ふだんは非公開であるこの墓地は、三月から十二月までの土日祝日の決められた時間、施設維持のための募金を払って入苑することができる――と、入口に置いてあったリーフレットに書いてあった。
「今日は平日でしたね……」
閉ざされた扉に触れながら、ロッテンはつぶやいた。
(確かに入れないのは残念だけど……)
あたしたちは喫茶店を出て、来た道を戻った。
「息子さんって……先生、ご結婚されてたんですか?」
驚いたまま、ズケズケと聞いてしまった。けれどその答えはまだもらっていない。ロッテンは黙ったまま。
もうあたしたちは手を繋いではいない。ただ黙々と連れ立って歩いているだけになっていた。
まもなく外国人墓地の入り口に着いた。悲しげに並ぶ石を遠巻きに見ながら、ロッテンはようやく口を開いた。
「一八五四年、来日したペリーの艦隊に、運悪く事故死した若い兵士がいました」
突然歴史の授業が始まった。
「は?」
あたしは堂々と苛立った声を出した。もう遠慮なんか無い。けれどそれに構わずに、ロッテンは続けた。
「ペリーは埋葬場所を幕府に求めました。そこで幕府が提供した場所が、ここです」
「はあ」
「ここはその時代から、ずっと変わっていないのかもしれません」
あたしは気がついた。ロッテンは、墓地を見ていない。
「二十五年前もこれと同じ風景でした。私はここで、祐作……息子に同じ説明をしたのです」
「……」
今横にいるのはあたしだけど、ロッテンには、その日、そこに立って自分に微笑む息子さんが見えていたのだと思う。
*
「お母さん、ここはどうして外国の人のお墓ばかりなの?」
そうあの子が聞くから、私は先ほどの説明をしました。ちょうど受け持っていたクラスの遠足もこちらの方でしたので、調べていたのです。仕事の延長。
「ペリーかぁ。学校で習ったよ!」
なのにあの子は、うれしそうに聞いていました。
あの日、私は夫、息子の祐作と三人で、ここを訪れていました。
当時住んでいた街から電車で一本ですが、久しぶりでした。
まず横浜駅で降りて、シーバスに乗って山下公園へ。いつもは私が船に酔うから電車やバスを使っていましたが、この日はあの子の希望でシーバスを使いました。
山下公園で船を下りて、次はマリンタワー。当時は今と違った色の建物でした。私たちはそこにあったバードピアで、大きなオウムを見ました。バードピアとは放し飼いになった鳥たちと触れ合える施設でした。
お昼は中華街の“広州餐庁”。あの子はエビが大好物で、あの店のエビのチリソース煮に大喜び。
それから元町からあの長い坂をのぼって、港の見える丘公園までお散歩。天気のよい日で、とても気持ちがよかったっけ。
そして、外国人墓地。
――これがあの日の、私たち家族の、最後の横浜観光でした。
いつもなら外国人墓地の後、横浜スタジアムで別れ、夫と祐作は野球観戦。私はひと足先に帰宅して、夫のためにビールを、祐作のためにスイカを冷やしておくのです。
だけど、あの日は――
実は、未だに何がきっかけだったのか、わからないでいます。
あの頃の私は教師としてはまだ新米で、それでも初めてクラスを受け持たせてもらえました。
私は教員になって最初の年に、妊娠しました。
今ではふつうのことになってきましたが、当時は“できちゃった婚”は恥ずかしいものとされました。教師として未熟なまま、私は結婚し、出産……しばらく休まざるを得なくなったのです。
だから祐作が三歳の時に仕事に復帰してからは、必死でした。
無計画に妊娠するようなだらしない女だから、子どもを預けられない――そう言われないように、家族よりも、生徒たちの方を優先していました。
あの子が八歳の時でした。
放課後、教え子が部活動で大けがをしました。
病院に付き添おうと準備をしていたら、自宅で祐作の面倒をみているはずの母から連絡がありました。あの子が、交通事故でケガをしたと。
母とあの子とで道を歩いている時に、道路の反対側に私によく似た女性を見つけたそうです。あの子は「お母さん!」と道路に飛び出して――。
私は……これは未だにどうすればいちばんよかったのかがわかりませんが……母と夫に祐作を任せて、教え子のそばにいました。祐作の方は命に別状は無いと聞いたことも理由でしたが……。
こちらが片付いて病院に駆けつけましたが、あの子は足を痛めていました。もう激しい運動などは、一生無理だろうと。
野球が大好きで、リトルリーグでピッチャーをやっていた子でしたから、ひどく傷ついていたと思うのです。
母は私を責めました。何故すぐに駆けつけなかった? そんなにも自分の子どもよりもよその子の方が大事なのか?と。
私は答えられなかった。夫はただ黙って俯いているだけ。私を責める母の後ろ、ベッドの上からあの子が私を見つめていたのを、あの目を、今も憶えています。
祐作は足を引き摺ってしまうものの、友だちと遊べるまでに快復しました。
私は仕事をしながらも、なるべく早く帰るようにしていました。ですがやはり母や夫に甘えていたと思います。少しでも遅く帰宅すると母は私を責め、夫はそれを聞きながら黙っているだけ。
私はひどく疲れていました。そんなことが理由になるわけはない。けれど、そうとしか説明ができない……。
家に帰りたくなくなり、また仕事に打ち込むようになっていきました。遅くまで仕事をしている私を労ってくれたのは、同期の男性教師だけ――
私は、過ちを犯してしまいました。
夫はすぐに気づきました。私もまた、隠そうとしていませんでした。
私たちは別れることになりました。
そして最後の家族の団らんを、この横浜で過ごしたのです。
祐作ははしゃいでいました。野球が大好きで、特に横浜大洋ホエールズの大ファンで。前に買ってもらった大洋の帽子をかぶって、足を引き摺りながらも駆け回っていましたっけ。
あの子と別れたのは、ここです。
ここでこの墓地の由来を話している時に、道路から夫が祐作を呼びました。「じゃあね!」と元気に手を振って夫の元に走ったあの子。野球を見て家に帰った時、私がいなかったことをどう思ったでしょう?
私が家でスイカを用意しながら自分たちの帰りを待っていると、信じて疑っていなかった、あの笑顔は。
それから私はひとりで生きてきました。
夫から連絡が入ることはあっても、会いには行けませんでした。
私から連絡を取ることはせず、向こうからの電話を待つだけの日々。
もちろん祐作とも会えません。あの子が電話口に出ることもありませんでした。
ただ夫は、あの子の成長をこまめに教えてくれました。どんな中学校に、どんな高校、大学に通っている。スポーツは出来ないから、マネージャーをやっている。勉強は英語が得意、初めてガールフレンドを家に連れてきた、どこの会社に入った、結婚をした……。
そういったことを語ることで、私に復讐をしていたのかもしれません。でも私は、夫からの報告をありがたく聞きました。
本当はもっと聞きたいことがあったけれど、たとえば、あの子は私のことを恨んでいるのかとか、そういったことを聞きたかったけれど、聞けるわけもなく……。
あの子が結婚した直後くらいに、夫が病気で他界したという知らせが親戚から来て、連絡は途絶えました。
電話が来たのは、先週。祐作本人からでした。
喜びのあまり、息が止まるというのを、初めて体験しました。あの時、ここで話して以来のあの子の声。低く大人っぽくなっていましたが、すぐにわかりました。
けれど――あの子の声からは、嫌悪感が溢れていました。
当たり前ですね、私はあの子を捨てたのですから。
祐作はいろんな感情を封じ込め、何故電話をしたのかを話してくれました。
病床で夫が言ったこと。
『子どもができたら、母さんに会わせてやってくれ。彼女はもう十分罰を受けたはずなんだ』
夫の死後、子どもが生まれたものの、私に会わせるつもりはなかった。電話で祐作はそう言っていました。
そんな折、会社から海外への転勤が命じられたそうです。一家であちらに行き、もう日本に戻らない。そこで思い出した夫の遺言が、あの子を責め始めた……と。
だけどどうしても私を許せない。私と話をするつもりも無いし、わざわざ子どもを見せに行く時間も無い。
それで、祐作一家が横浜観光するのを、通りすがりに見る分には構わない。見たければ、勝手に見に来い……そうあの子は妥協してくれました。
私は祐作の今の顔を知りません。
与えられたヒントは、『船 娘 横浜の帽子』のみ。
船はシーバスのこと。最後の横浜観光の時に乗ったのが、シーバスだったから。だから、それで今日もその時の道順を辿るのだと思いました。
娘は、私にとっては孫のこと。活発な子で、女の子なのに野球が大好きなのだそうです。リトルリーグで男の子たちを差し置いてピッチャーをしているとか。
そしてプロ野球も好きで、横浜のファンなのだそうです。ずっとその球団の帽子をかぶっているほどに。
俺はアンタに会えなくなったって別にいいんだ。孫を見たいのであれば、アンタから見に来い。興味が無ければ来なくたっていい……祐作はそう言っていたので、私は――。
あの子が指定したのは、今日。
本来であれば休めない大事な行事のある日。
ですが、あの子が日本を離れるまでの時間が近づいていく……私は居ても立ってもいられず、気がついたら学校から飛び出していたのです。
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