第8話 港の見える丘公園

 元町の通りは静かできれい。と、真っ先に思った。

 誰もいないってわけじゃない。活気に満ちた街だった中華街とは打って変わって、元町はスッキリとした瀟洒な街だという感じ。少し歩くだけでここまで変わるのだから、混乱してしまう。両方とも魅力的。

 半ば観光しているあたしと違って、ロッテンは街の景色を楽しむ余裕は無さそうだった。だけど足取りはしっかり。目的地はまだ教えてもらっていない。

 そうかと思えば、ちゃんとあたしが無理なくついてきているかを確かめるために、時々振り返る。そこで目が合うと、そそくさと視線を前に戻す。

(なんかやさしい……?)

 目が合うその一瞬だけ、そう見える。

(肩を震わせて笑うロッテンなんて、初めて見ちゃったよ)

 すぐいつものロッテンに戻ってしまったけれど、確かに笑っていた。目尻だけでなくて、顔全体を皺だらけにして。

 笑った時のほうれい線が、ちょっといいなって思った。すごく安心させてくれるから。これも今日初めて見つけた、ロッテンの魅力のひとつ。

 未だ行く先を知らされないミステリーツアーは、あたしにとって、これまで知り得なかったロッテンの魅力発見の旅にもなっていた。


 元町通りの端までたどり着くと、今度は山の方へ向かって、あたしたちは坂道をのぼり始めた。左手は建物、右手は青々とした木々が茂っている。気持ちいいけれど、かなりの勾配がある。

(これ……結構キツイかも……)

 しかも距離が長い。つらくなってきた。

 あたしでもキツイのだから、ロッテンはもっと大変だろう。見ると、やっぱりロッテンの息はあがっていた。それまで握っていたあたしの手を解放し、代わりに手すりを掴んでいる。

(別のルートで行くことは出来ないのかな?)

 倒れないかと心配になってきた。

 そこへ前方から、子どもたちが元気よく駆け下りてきた。キャアキャアと楽しそう。有名私立小学校の制服を着ていた。

(お子さまたちは元気がいいなあ)

 その頃の自分を少しだけ思い出した。ほんの数年前のことだけど。

 普通の公立小学校に通っていた。少しだけ他の子よりも成績がよくて、だからあのひとは盛り上がって、あたしを今の学校に入れるために必死になった。お父さんは半分あきれていたみたいだけど、それでも応援してくれていたっけ。

 なのに――。

(……もう! 考えないようにしなきゃ!)

 両親のことを思い出す度、嫌な気持ちになる。考えないのが、一番いいのに。

(そう言えば、あの子、今日学校はどうしたんだろう?)

 不意にさっき会った男の子のことを思い出した。今日は平日の真っ昼間なのに、ひとりで歩いていた。

(学校が創立記念日で休みってこともあるのか)

 あの騒ぎの中、周囲にあの子の親と思われる大人はいなかった。実は地元の子で、学校が休みのところを、ひとりで散歩していただけなのかもしれない。

 そこへドスンという音が後ろからした。子どもの「すみません!」というあわてた声が続く。

 振り返ると、さっき横をすれ違って降りて行った子どもたちとオジサンがひとり、何やら話をしていた。どうやら子どもたちがオジサンにぶつかったらしい。謝る子どもたちに、オジサンは恐縮していたように見えた。

 その様子を見ていたら、そのオジサンと目が合った。

 オジサンはTシャツに薄いジャケットを羽織り、ジーンズをはいていた。髪はボサボサで、無精ヒゲ。ひとりだった。

 オジサンはぷいっとすぐに視線を逸らした。

(なんか感じ悪……)

 お父さんと同じ歳くらいのオジサン。平日のこの時間にひとりでうろうろしているなんて。頭の中に“無職”とか“求職中”とかの単語が出てきた。

(そういえば、山下公園でおまわりさんが……)

『実は最近、この辺りで強盗事件が発生しているんですよ。ご婦人や女の子相手に白昼堂々と犯行に及ぶヤツなんで……』

(まさか)

 ゾクリとした。ひょっとしたら……。

「わっ!」

「!」

 ついにあたしはロッテンの背中に顔を突っ込んでしまった。ロッテンは立ち止まって、小休止をとっていたらしい。前のめりになったものの、倒れずに済んだ。よかった。

「すっ、すみません!」

「……い、……いい……のよ。大丈夫……?」

「はい」

 ロッテンの背中からは、古く甘い香りがした。

(不思議な匂い……)

 大事に来ている服や、それをしまっている箪笥の匂い。控えめな化粧、シャンプーの匂い。汗の匂いも混ざっているのかもしれないけれど、そう思っても不思議とイヤじゃない。

(どこが“アンドロイド”なのよ?)

 船酔いはするし、食べるし、笑うし、汗だってかく。

 ロッテンを“アンドロイド”なんて笑っていたコたちは、何もわかっちゃいない。ばかみたい。

(でも、“あたしだけが知っているロッテン”っていうのも、悪くないよね)

 思わずほくそ笑む。

(あっ、さっきのオジサン……)

 振り返ると、オジサンはいなくなっていた。


 平坦な道に出ると、ロッテンは乱れた息を整えながら、それでも先を急いでいた。緑や古い建物の多いところ。舗装された道路には普通に自家用車やバスが走っている。

(なんだ! バスとかタクシーとか使えばよかったのに!)

 思わず声に出が出そうになった。

 でもロッテンが知らないはずは無いと思う。

(なんでわざわざ歩いて来たのかな?)

 そう疑問に思ってみながら、同時にわかった。

 このルートで来たことに意味があるのかもしれない。

 ロッテンが何をしにここを訪れているのかが、まだわからない。だけどこうして息を切らしてまで坂をのぼってくることに、何かしらの意味があるのだと思った。

(そういえば暑いな……)

 まだ残暑が続いていた。真夏ほどじゃないけれど、気温は高いし、日差しはきびしい。日焼けで顔や腕がヒリヒリしてきた。

 そうして数分歩くと、やっと目的地がわかった。

(『港の見える丘公園』!)

 入口にそう記されていたし、その名も知っていた。やはりテレビで見たことがある。

(ここに用事があるのかしら?)

 公園に入ると、すぐ左手に公衆トイレが見えた。ロッテンはそれを見て、立ち止まった。

「神崎さん、おトイレは?」

「あっ……大丈夫です」

中華街のレストランで済ませてきた。

「そう……」

 あたしとトイレを交互に見ているロッテンを見て、気がついた。

「行ってきていいですよ。私はそこのベンチにいますから」

 今さら逃げてもね。そう思いながら言ったから、ちょっと投げやりな言い方になってしまった。学校の中でなら叱られる。けれどロッテンは気にせず、ためらいながらも、

「そ、それじゃ、ここで待っていてください」

 と言って、早足にトイレへ向かって行った。

 あたしはベンチに腰を下ろした。さすがに少し疲れた。

「ロッテンだってトイレ我慢するし、駆け込むし」

 そうつぶやいてひとりで笑った。またロッテンの人間くさいところを見つけた。

 でもスマホを預けたままだから、すぐにヒマになった。


「お姉ちゃん」

「ひゃっ!」


 突然背後から声がかかり、あたしは飛び上がって驚いた。

「えっ、えっ、えっ?」

 慌てて振り向くと、そこにはさっきロッテンが助けた男の子が立っていた。「よう」と片手をあげて。

「あっ!」

「なあ、あのおばあちゃんどこ?」

(おばあちゃん? あ、ああ、ロッテンのことか)

 あたしにとっては先生でも、縁もゆかりもない子どもにはそう呼ばれてもおかしくはない。

「おトイレよ」

 と、ロッテンが入った建物を指さした。

「ふーん」

 あたしが返事をしている間に、彼はひらりとベンチの背もたれを飛び越えて、あたしの横にすとんと座った。身が軽い。

「お姉ちゃん、あのおばあちゃんの何?」

「へ?」

 予想外の質問をされた。

「何って言われても……」

「孫?」

「ち、違うよ、生徒だよ。あの人、学校の先生なの」

 警官の時と違って、事実を答えた。なんとなく。

「へー……」

 男の子はロッテンがいるであろう建物の方を見ていた。何だか楽しんでいるかのように見える。

(ロッテンに何か用なのかな? 改めてお礼を言いたいとか)

 その前に、疑問に思っていたことを聞いてみた。

「ねえ。キミ、小学生でしょ?」

「? そうだけど」

「今日学校は?」

「休み」

「創立記念日か何か?」

 すると彼は面倒臭そうに、

「お姉ちゃんだって。今日学校は?」

 と問い返してきたから、言葉に詰まってしまった。

(生意気な子!)

 整った顔立ちのせいか、余計に生意気に聞こえる。

「あ、あたしは……」

「俺んち、今日は横浜観光なんだ。俺も学校休みだし、父ちゃんもママも仕事休みでさ」

 回答に詰まったあたしには構わず、彼は自分語りを始めた。

「へえ……そうなんだ」

 相づちを打ったものの、他人の家のことにはあまり興味がない。一家で横浜観光なんて、ちょっとステキだけど。

「ディズニーランドとかじゃないんだ?」

 平日に学校や仕事を休むのなら、そっちに行くと思う。

「うん。俺も横浜好きだし、実は今日は父ちゃんの遊びに付き合ってるんだ」

「お父さんも来てるんだ? それじゃさっきはなんでいなかったの?」

 さっきはひとりで絡まれていた。

「アレは、俺がちょっと迷子になっちゃってさ。父ちゃんが助けに入る前に、あのおばあちゃんに助けてもらったんだ」

 周囲を見回したけれど、それっぽい男性はいない。あたしの疑問を察したであろう彼は、

「今、ママとあっちの方に行ってるよ」と、公園の奥の方を指さした。

「そうなんだ……」

 疑問に思っていたことの答えが出てスッキリした。

 それと同時に、彼がお父さんのことを“父ちゃん”と呼んでも、お母さんのことは“ママ”って呼ぶんだ、なんてどうでもいいことをあたしは考えていた。あたしもこのくらいの頃はそうだったから。“お父さん”と“ママ”。いつの間にかママから“お母さん”になって、今では“あのひと”だけど。

 両親と子どもひとり。子どもの性別年齢は違うけど、家族構成はウチと同じ。だけど一家揃っての横浜観光。あたしには叶わなかったこと。

(もー……また思い出しちゃった!)

 興味無かったけど、気分を変えるために彼に問いかけた。

「今日はこの後、どこに行くの?」

 すると彼は、待ってましたとばかりにしゃべり出した。

「えっと……山下公園から横浜に戻るよ」

「え? もう帰るの?」

 日はまだ高い。どこにも寄らずに帰るの?

「うん。本当は夕方から野球を観たかったけど、時間が無いんだって」

「野球?」

「スタジアムがあるんだよ。ベイスターズとタイガースの試合。でも観ていたら間に合わないんだって」

「そうなの。残念だね」

 そういえば横浜には野球場があった。プロ野球には興味が無い。けれど、ひどくガッカリしている彼に合わせた。

「えっと、夕方五時ごろに山下公園を出るシーバスに乗って、横浜に行く。そうでないと、バスに間に合わないんだ」

 彼の口調は、途中から棒読みになった。まるでセリフを思い出しながら話しているように。

(バス?)

 何のバスだろう? 帰りのバス? 遠くから来ている一家なのかしら? 子どもの話は要領を得ない。

「俺、そろそろ行かなきゃ」

「えっ?」

 彼はすくっと立ち上がって、来たときの逆送りみたいに、またベンチの背もたれを飛び越えた。

「ロッ……あ、先生、もう戻ってくるよ?」

「いいんだ。あのね、五時ごろの船に乗らなきゃ、横浜からのバスに間に合わないんだって。五時ごろだよ?」

 何故か念を押された。

「う、うん? 何のバス?」

(見送りして欲しいのかな?)

 それは無理だけど。戸惑いながら頷くあたしを見て、彼は無言でニッと微笑んだ。

「神崎さん!」

 そこへ、ロッテンの声がかかった。ロッテンはトイレの建物からこちらに向かっているところだった。

「じゃあね!」

 男の子はそのまま、ロッテンとは反対方向に行ってしまった。彼の姿はすぐに緑の木々に紛れて見えなくなった。

(早っ!)

 呆然として彼が消えた方向を見ているところに、ロッテンが戻ってきた。

「今の子は……」

「さっきの橋のところで会った男の子です」

「そう」

 ロッテンも男の子が消えた方向を見た。その横顔は、すごくやさしげに見えた。

(ロッテンもこんな顔できるんだ)

 すごく好きな顔。ロッテンって、若い頃は美人だったんじゃないかしら。

 だけどまた捜索の表情になった。

「神崎さん、行きますよ」

(次はどこに行くんだろう?)

 ロッテンは再びあたしの手を握った。暑い日なのに、ロッテンの手のあたたかさは、あたしをホッとさせた。

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