第7話 元町
デザートの杏仁豆腐までしっかりお腹に納めたあたしたちは、店を出てからまた歩き始めた。
完全に食べ過ぎ。お腹が重い。ロッテンも時々お腹のあたりを自分でさすっている。ロッテンは痩せているから、あの量がそのウエストに入ったというのが驚き。
それでもあたしの手をしっかりと握りしめ、ツカツカと前に進んでいく。
(どこに行くんだろう?)
まだ教えてもらっていない。
広州餐庁で会計をしている時だった。
「こちらは二号店なのですか!」
入口あたりで待っていたら、ロッテンの少し大きな声が聞こえてきた。ロッテンの大声を聞くのは初めて。生徒を叱る時も、声量を上げるのではなく、その声にただ迫力を込めるだけだから。それがこわいのだけど。
「ハイ。五年前に二号店開店しましテ、本店はここよりも元町寄りで営業しておりマス」
片言の日本語で、それでいて聞き取りやすい声で、レジをしていた男性店員が説明をしていた。
それを聞いた時のロッテンは、見ていて同情したくなるほどの落胆ぶりだった。
(店が違っていたから、探しているひとに会えなかったのかな?)
ガッカリするくらいなら、事前に調べておけばよかったのに。インターネットという便利なものがあるんだから。もしかしてロッテンは、ネットを使えないのかな?
あたしはさっきの推理の続きを始めようとした。
ロッテンは果たしてこの街を知っているのか、知らないのか?
迷うことなく道を進んでいるようにも見える。
実は完全に迷っているのかもしれない。
なんとか捜し出した店が、実は捜していた店ではなかったというのは、なんだかひどく気の毒だった。もっとも今朝までのあたしなら、「ざまあみろ」くらいに思っていたかもしれないけれど、もうロッテンに対してはそんな感情が無くなっていた。
(あたしはあのロッテンに、エビチリを取り分けてもらったんだもんね!)
もうこわくなんかない。
「あっ」
小さく叫んで突然足を止めたから、あたしはまたロッテンの背中にぶつかりそうになった。
「神崎さん」
「は、はい!」
いつもの少し怒ったような表情と言い方で振り返ったロッテンに、あたしは無意識に怯えてしまった。もうこわくないと思った途端に、コレ。でも言われたのは、予想外のことだった。
「あなた、お弁当はどうしました?」
「は……?」
あたしのお弁当が、何?
「は?って……」
(……ああ)
わかった。あたしたちの学校には、給食が無い。だからランチは家からお弁当を持って行くコが多い。持ってきていたとするならば、それを鞄ごと品川駅のコインロッカーに入れてきたことになる。まだ汗ばむ季節のこの九月に。
「……あの、持ってきていません」
恐ろしい想像をする前に、あたしは言った。二学期になってから、お弁当は持ち歩いていない。家庭の事情でお弁当を用意できない生徒のために購買部があるから、特に困ることもない。悪いことでもない。
けれどあたしは暗い気持ちになってしまった。
実は、あたしのためのお弁当は、毎日ちゃんと用意されているから。
朝起きると、両親ともにすでにいない。だけど、キッチンテーブルの上に、あたしの分の朝ごはんとお弁当、そしてお父さんのお弁当が載っている。あのひとの手作り。
元々、中学入学以来、お弁当なんて持って行っていたのは最初のうちだけ。いつもテーブルには五百円玉が置かれていただけなのに、今さら用意されても。
だけどすでに出勤しているはずのお父さんのお弁当が置きっぱなしなのには、深い意味がある。これは、お父さんの“拒否”という意思表明。
(そういう抗議の仕方もあるのね……)
真似るつもりはなかったけれど、やはりお父さん以外の男性と付き合っていたであろう女、お父さんとあたしを裏切った女の手料理だと思うと、気持ち悪く思うようになってしまった。だからあたしも、食べずに、持たずに、家を出るようになった。
朝ごはんとお弁当は、そのまま夜まで放置されて腐ってゆく。
駅のコインロッカーの、あたしの鞄の中ではなくて、ウチのテーブルの上で腐ってゆく。
それを帰宅して見つけたあのひとは片付ける。だけど翌朝には新しい食事とお弁当が用意されている。お父さんもあたしも食べない。その繰り返しが、二学期が始まってから続いていた。
(いい加減諦めればいいのに)
あたしが食材をムダにしていることに慣れてしまう前に、やめて欲しい。
「そうですか」
黙って俯くあたしに、ロッテンはそれ以上何も聞かなかった。そして再びあたしの手を取って歩き出した。
(イヤなことを思い出しちゃったな)
あたしがこうしてロッテンと横浜の街を歩いているこの瞬間にも、ウチのテーブルでふたつのお弁当が腐ってゆく。
やがて橋を渡ろうとして、そこでロッテンは再び足を止めた。今度はぶつかりそうにならなくて済んだ。
(何?)
見ると橋を渡ったあたりで、子どもが観光客と思しき白人系の外国人ふたりに絡まれていた。
子どもは小学生低学年くらいの、細身の男の子。何かのロゴが入った紺色のキャップをかぶり、半袖シャツに半ズボン。赤いスポーツシューズを履いていた。
大柄……ハッキリ言ってデブの外国人のオッサンふたりは赤ら顔で、どうやら酔っぱらっているらしい。
オッサンのひとりが男の子の細い二の腕を掴んで離さず、ろれつの回らない英語でわめいている。男の子は活きのよい魚みたいに、振り払おうと必死。だけど体格や体力の差が大きくてどうにもならないみたいだった。
(え? どうして誰も助けないの?)
周囲には通りすがりのサラリーマンたちが、その様子を遠巻きに見ていた。英会話に自信が無いとか、腕っ節に自信が無いとかいろいろ事情はあるとは思う。でも情けない。
とにかく警察に……と思った時、突然ロッテンがあたしの手を放し、すっと動いた。
(えっ!)
確かに何もしない、できない大人たちに幻滅していたところだけど、華奢にしか見えない老人一歩手前の女に何ができるの。
「せっ、先生……!」
あたしが呼び終わる前にはすでに、ロッテンは騒ぎの輪に入っていた。そして、男の子の腕を掴んでいたオッサン――自分よりも頭ひとつ分以上も大きい相手に一喝した。
「Don't touch my son!!」
小学生時代から英語を習っていたあたしにとっては、やさしすぎる英会話。ロッテンはあたしたち生徒を叱り飛ばす時と変わらない迫力で、ピシャリとそう言い放った。
叱られたオッサンたちは赤ら顔のまま目を丸くし、パッと男の子の腕を放した。ロッテンの迫力に“思わず”といった様子。その気持ちはわかる。不思議そうに、ロッテンと男の子を見比べている。
突然解放されてバランスを崩しながらも、男の子は転ばなかった。彼の細い二の腕は強く握られていたらしく、オッサンの大きな手形がついていた。
するともうひとりのオッサンがロッテンに抗議を始めた。酔っぱらっているからか、なまりがあるのか、あたしにはあまり聞き取れなかったけれど、自分たちがその男の子から何をされたかを話しているようだった。それを凜とした姿勢のロッテンはきちんと最後まで聞き、それから今度は自分の背後に隠れていた男の子に語りかけた。
「あなたがさっきこの男性にぶつかったと言っています。本当ですか?」
「うん。でも俺謝ったよ?」
「この方々は謝罪を受けてないと言っています。日本は礼節の国ではないのか、幻滅したと」
「ちゃんと言ったよ! わりぃって」
おそらくその時にしたのであろう仕草、拝むように右手を顔の前に持ってきて見せた。(あー、これは雷が落ちるなー)と思ったら、やっぱり落ちた。
「それのどこが謝罪ですか!」
決して大きな声ではないのに、何でこんなに迫力があるんだろう? 周囲にいたひとたち全員がすくみ上がったと思う。ロッテンのお説教にあたしは慣れているはずなのに、やっぱりビクッと体が反応してしまう。
ロッテンは固まった男の子を、それでもやさしく背中を押し、オッサンふたりの前に立たせて言った。
「さ、きちんと『ごめんなさい』とお謝りなさい」
その声は思いの外やさしく、男の子は怯えていいのかホッとしていいのか困惑している様子だった。だけど伝わったのか、自分よりはるかに大きなオッサンふたりを見上げてから、ぺこりと頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。ぶつかって、ごめんなさい」
それまで怒っていたオッサンは呆気にとられてしまい、連れと目を合わせて両手の平を上に向ける「?」というジェスチャーをしていた。
ロッテンは、あたしには聞き取れないほどの早口の英語で何かを話していた。たぶん、男の子がしている謝罪について説明したのだと思う。するとそのオッサンは突然態度が小さくなり、その男の子にぺこりと頭を下げていた。強く掴まれて赤くなった男の子の二の腕をロッテンが指さしていたから、それについて謝罪したのだろう。あたし、もっと英語を勉強した方がいいかも。
最初に見た時からは想像もできないくらいの笑顔で、オッサンたちはそこから立ち去った。いつの間にか周囲のやじ馬も消えていた。
「おばあさん、ありがとう」
男の子がお礼を言う声が聞こえた。
(おばあさん呼ばわり……)
でも男の子から見ると、十分おばあさんだから仕方ない。男の子がしっかりと顔を見ながらお礼を言っていたことの方に満足していたみたいで、ロッテンは無表情に近い薄い笑顔を浮かべていた。
「次からはお気をつけなさい」
「うん!」
男の子はにっこりと微笑み、彼は「じゃあね!」と、元町方面へ走って行った。ロッテンはそれを見送りながら、小さな声でつぶやいた。
「My son……」
そう、その意味をあたしは知りたい。
でもそうつぶやいたロッテンは、眉間に皺を寄せた。自分の言葉に後悔しているみたいだった。
“私の息子に触らないで!”
ロッテンの言葉を思い出す。
おかしいような気がする。どう見てもあの男の子は、ロッテンにとっては孫くらいの年齢。実際あたしのおばあちゃんが、ロッテンの少し年上くらいだし。あの外国人のオッサンたちだって、それを不思議に思ったのだと思う。
それにロッテンは独身。何でそんな単語が彼女の口から飛び出したのか。
(いわゆる“嘘も方便”っていうヤツかな?)
あたしがロッテンのことを祖母だと言ったのと同じで。
さっきの男の子を思い出した。細身だけど少し日に焼けて、元気いっぱい。
(ハンサム君だったなー。赤いスニーカーだったけど)
整った顔をしていた。けれど、靴に引っかかった。
男の子が赤いものを持っていることが、不思議だった。偏見だというのはわかる。暖色系のランドセルを背負っていた男の子がクラスメイトにいた。あたしも赤系のランドセルじゃなかったし。
場所柄か、ふと『赤い靴』という童謡が思い浮かぶ。
(ああ、だからあたしの中では、“赤い靴=女の子”なんだ)
赤い靴 履いてた 女の子
いいじーさんにつーれられーてー
いーっちゃーったー
「え?」
「あっ」
気がつくと、ロッテンが驚いた顔をして、あたしの顔を見ている。
どうやら、あたしは実際に歌っていたらしい。
「ぷっ」
(えっ?)
信じられない音がした。
誰かの口元から空気が漏れた音――誰かって、そこにはあたしとロッテンしか居ない。つまりロッテンがふき出した音。
見るとロッテンは表情を悟られないように口角を手で隠していたけれど、顔が真っ赤。その上プルプルと細かく震えている。
(何、何が起きたの? そんなにあたしが歌い出したのがおかしかった?? それってちょっと失礼だと思うんだけど!)
「せ、先生……?」
あたしはそれでも怖々と声をかけた。それでようやっと落ち着いたらしい。一回咳払いをして、真っ赤な顔や目尻に滲んだ涙はそのままに、平静を装う。
そして困ったような表情で話し出した。
「歌詞の一部が、ちょっと違……」ここでまた“プッ”とか言う。「神崎さん、今、“いいじいさん”っておっしゃらなかった?」
「え……“いいおじいさん”ってコトですよね。違うんですか?」
信じて疑ってなかった。でもロッテンの口元と目元が、また緩む。
「あれは、“異人さん”と歌っているんですよ」
「へ?」
「“異国の人”で、異人さんです」
「えっ……あれ? え!」
ロッテンは緩んだ口元をまた引き締め、小さく頷いてあたしを見て頷いた。
(えっ、えっ、えーっ? すごく恥ずかしい! それに、私今、ロッテンにツッコまれちゃったんだ!)
未だかつて、そんなことになった生徒がいた? 多分いない。
笑われてしまった――でも、そんな中にも何故かウレシイという気持ちがあった。
(なんで私、喜んでるの?)
無表情を装っているロッテンだったけれど、見れば口元がピクピク震えている。あたしはただ顔を真っ赤にして、そこに立ち尽くすことしかできなかった。
信じられない!
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