第6話 横浜中華街

 マリンタワーを出て山下公園を挟んだ通りを左に行くと、右手にファストフード店が見えた。

(まさかロッテンとじゃ、ハンバーガーってわけにはいかないよね……)

 予想通りそのまま店を素通りして、あたしたちは二軒のホテルの、間の細い通りに入った。オフィス街っぽい街並み。そこを観光客らしき通行人が複数、あたしたちと同じ方向に歩いている。

 相変わらずロッテンはあたしの手を握っていたけれど、あたしはロッテンの歩く速度に徐々に慣れてきていた。そういえば……

(ロッテンの掴み方って、さほど痛くなかったかも)

 そう思った。

 痴漢の腕をしっかり掴んで話さない握力があるはずなのに、あたしが少しばかり力を入れて振り払えば、簡単にほどけてしまいそうに感じられた。ただそれだとあんまりな気がしてそうしなかっただけで。

(あれ? ここって……)

 街並みがガラリと変わった。と同時に、またドキドキしてきた。

(中華街?)

 色鮮やかな柱があって、よく見るとそれは門。これも、テレビで見たことがあった。

 また突然ロッテンが立ち止まった。街並みに見とれていたから、あたしはあやうくぶつかりそうになってあせった。

「せ、先生?」

「え……ここ、天長門……このビルは新しく建ったのかしら……」

 門の前にそびえ立つ派手な装飾の建物を見上げながら、ロッテンがそう小さくつぶやいた。私に向けてではなくて、ひとりごと。

「そうね、もう二十五年経つのだし……」

(二十五年?)

 あたしがまだ生まれるずっと前のこと。その頃には、この建物はまだ無かったらしい。

(ロッテンは、この辺に来たことがあるの?)

 観光地だから、来たことがあっても別におかしくはない。ただロッテンとこの街はどうにも相容れないように思えて、あたしには不思議だった。

 レストランなのか土産物屋なのかよくわからないけど、そこは楽しそうだった。でもロッテンはあたしの手を容赦なく引っ張り、『天長門』と書かれた門の下をくぐって歩き出した。

(入ってみたかったな)

 街の中も魅力的な世界だった。

 異国の香りに満ちあふれた街。お茶や調味料を売っている店や、天井まで蒸籠を重ねている金物屋。そして占いを商いとしている店。道端には屋台が出ていて、甘栗を売っている。

(もう全部覗いて歩きたい!)

「イカガデスカー」

 イントネーションが日本語ネイティブとは違う。そんな愛想のいいお兄さんが甘栗の試食を薦めてくれたけれど、ロッテンに引っ張られるままに素通りするしかない。焼かれた栗の香ばしい匂いに、食欲が刺激される。

 中華街といえば、やっぱり中華料理。「北京」「四川」「上海」「広東」……キラキラした看板が踊り、魅力的な料理の写真が並んでいる。

(ふわあ……いい香り……)

 油の匂いがする。油を高温で熱して、勢いよくジャーッ!と音を出して何かを炒めている音。またお腹から「キュウウウ」と鳴き声が聞こえてきた。

(もう、腹ペコで死にそう~)

 あまりの空腹に泣き出したくなった時、ロッテンは足を止めた。

(え?)

 そこは一軒の大きな中華レストランの前。『広州餐庁』という金文字の看板が輝いていた。

(高そうだけど……)

 通行人に向けたメニュー表を見てみると、やっぱり高め。ランチメニューが全部千五百円以上。

 横目でチラッと見ると、ロッテンはその店の看板をまっすぐ見つめていた。でもそれはランチメニューを決める表情ではなくて、何かに挑むような横顔。そして小さくつぶやいた。

「こんな建物だったかしら?」

 疑っている。

(広州餐庁っていう名前のお店が目的地?)

「せ、先生?」

 通行人の邪魔になりそうだったから、あたしは恐る恐る声を掛けた。ロッテンはその声で我に返った様子で、あたしに宣言した。

「ここに入ります」

「は?」

 あたしの短い返事が終わらないうちに、また手を引っ張られた。

(マジ?)

 店の中に入ると、料理のいい香りが強くなった。

「いらっしゃいませー」

 チャイナドレスを着た若い女性が、歩み寄ってきた。

「おふたりサマですかー」

「はい」

(チャイナドレス、かわいい!)

 その女性が着ている赤いチャイナドレスに、目を奪われてしまった。あたしも着てみたい。

「こちらへドウゾー」

 胡弓の調べが流れる店内を、彼女に案内された。

(あれ?)

 その席につくまでの間も、ロッテンは周囲を見回していた。

(ここでも捜しているの?)

 お昼時ではあったけれど、高めのお店ということもあってか、空席が多い。だからすぐに他の客の確認ができたらしく、ロッテンは早々に捜索をあきらめていた。

 目的の顔はいなかったらしい。仏頂面には変わりないけれど、若干気を落としているように見えた。

 あたしたちは、ドアが見えるテーブルについた。

 最初に案内された席ではなくそこがいいと言ったのは、ロッテン。二階の見晴らしのいい窓の側でもなく、奥の見事なドラゴンの壁画があつらえてある部屋でもなく、エアコンのきき具合も微妙な席。

 あたしがメニューを見ることもなく、注文はロッテンがさっさと決めてしまった。メニューを持って行かれてしまえば、もう眺めるものが無い。

(き、気まずいなぁ……)

 あたしたちは向かい合って座っていた。ひと通り店内を見回した後は、テーブルクロスの模様をなぞるように見ているしかなかった。チラリとロッテンの様子を見てみたら、あたしのことよりも入口が気になるようで、そちらばかりを見ていた。

(……誰を捜しているんだろう?)

 ロッテンが、誰かを捜す……誰を? その前に、そもそもロッテンが誰かと関わりがあるというのが、イメージできない。

 もちろん、世の中には誰とも関わらずに生きてゆけるひとなんていないと思う。ロッテンは学校の先生なのだから、生徒や同僚の先生たちとの関わりもある。けれど。

(ロッテンがここまでして捜すひとって……どんな人なんだろう?)

 それほどの人間がロッテンに居るということに、興味が沸いた。ニコリともしないクールなこの先生が、笑顔を見せるただひとりのひと……とか。

(それって……結構ステキかも)

 勝手に想像してニヤニヤしそうになったけれど、ガマンした。だけど想像は止まらない。相手は恋人かもしれない。若いイケメンとか、はたまたロマンスグレーのナイスミドル。

(でも、それって別に捜さなくても、ちゃんと約束すればいいだけよね?)

 そこに思い至る。友だちとか恋人とかそういった関係なら、待ち合わせすればいいわけで。

 ロッテンが捜しているひと。それは、待ち合わせをすることができない相手。

 相手のケータイ番号もわからないらしく、どこかに連絡をする様子もない。

 そして、『船 娘 横浜の帽子』――。

(んん? あれ?)

 そこであたしは気がついた。この日あたしは学校をサボったけど、それはロッテンも同じなんだってことに。

 ロッテンは学校に居なくてよかったわけじゃない。大事な行事がある今日、ロッテンが休暇をとることなんてあり得ない。何故ここにいるのかは、無理に休んだに決まっている。つまりは、サボり。

 それを、生徒のひとりであるあたしに見つかってしまった。

(だから、私がチクらないように拉致ったの?)

 自分が連れ回されている理由がわかった――ような気がした。

「お待たせいたしましター」

 料理が運ばれてきて、そこで考えは中断。目の前にはまず中華風のサラダの皿と、それを取り分けるための皿が置かれた。

「お待たせいたしましター」

(え?)

 最初の料理を取ろうと手を出す前に、すぐ店員が次の料理を持ってきた。置かれたのは、エビのチリソース煮。

「お待たせいたしましター」

「お待たせいたしましター」

 あたしたちのテーブルに、次々と料理が置かれた。甘酢ソースのかかった鶏のからあげ、ジャガイモとピーマンの炒め物、五目チャーハン、玉子スープ……二人前にしては多すぎる!

(す、すごい……)

 ふたりには少し広いと思っていたテーブルは、あっという間に隙間が無くなってしまった。

(これ、ロッテンが頼んだの?)

 ぽかんとして対面のロッテンを見たら、ロッテンもまたぽかんとしていた。そしてあわててメニューを手に取って、自分がしたはずの注文を確認し始めた。

 どうやら注文の仕方を間違えたらしかった。こわい顔をしながら、ロッテンはメニューを閉じて、フーッと深いため息をひとつついた。

「……いただきましょう」

 確かに、もうキャンセルなんかできないと思う。

(食べきれるのかな……?)と思っていたら、ロッテンは「食べられるだけでいいですからね」と言いながら取り分けし始めた。

(あっ、ロッテンに取り分けさせちゃった)

 ばつが悪い。だけど「自分がやります!」と、お皿と取り分けスプーンを奪うこともできず。思わずアワアワしていたら、

「お待ちなさい」

 ピシャリを叱られた。こういう時でも厳しさが揺るがないのは、さすが。あたしはおとなしく、ただ黙ってロッテンがそうしているのを見ているしかなかった。

(母親みたい……)

 ウチが平和だった頃を思い出した。今ではあたしの中では“あのひと”に格下げになってしまったあのひとを、まだ “お母さん”って呼んでいた頃の。

 家族での食卓。あのひとが出来上がったばかりの料理を盛りつけて、それをあたしがテーブルに運ぶ。テーブルで待つお父さんは「えらいな、さくら」と、うれしそうにあたしの頭を撫でる。妙に照れくさかった、幼い頃の思い出。

(私はいつからひとりでご飯を食べるようになったんだっけ?)

 あのひとが勤めに出始めたのは、あたしが小学四年生にあがってから。中学を受験することになり、その資金調達のために、あのひとも辞めていた仕事を再開した。

 定時で帰って来ていた頃はよかった。勤めが続くにつれて、あのひとは仕事が楽しくなっていったらしい。学校から帰るあたしを出迎えることは少なくなり、やがて高学年になってからは完全に無くなった。

 あたしは毎日、誰もいない家に帰宅した。完全なる鍵っ子。お父さんもあのひとも帰りは深夜に及び、夕食はあたしただひとり。冷蔵庫にはシチューやカレーのストックが置いてあって、それをレンジで温めて食べた。それもやがて作り置きではなく、レトルトに変わった。あたしは冷凍ストックしてある白米とそれらのおかずを温めて、テレビを見ながらひとりで食べる。

(テレビ見ながら食べるなって怒られるから、この方がいい)

 箸の持ち方を注意されることもないし、犬食いしても平気。食事中に、学校の成績のことでグチグチ言われることも無いし。

 見るのはたいていバラエティ番組。人気お笑い芸人のおしゃべりに笑いながらの食事。楽しいし、こっちの方が気楽。

 気楽……なんだけどな。

「さ、いただきましょう」

 ロッテンの声で、あたしは我に返った。

「は、はい」

「いただきます」

「い、いただきます」

 ロッテンが丁寧に胸の前で手を合わせてそう言うものだから、あたしも慌ててそれに倣った。「いただきます」なんて言うのは、久しぶり。

 箸を手に取る。

(持ち方を注意されないよね?)

 不安になったものの、注意どころか会話はまったく無かった。ロッテンは黙々と目の前の料理を口に運んでいる。

(気まずいな……)

 ロッテンを見つめ続けるわけにもいかず、あたしはひたすら目の前の料理を見ながら食べるしかなかった。だけど、

(おいしい)

 作り置きでもなく、レトルトでもなく、ファストフードでもない食事も久しぶり。あたしは特にエビが大好き。だからエビのチリソース煮がうれしかった。

「神崎さん、こちらもお食べなさい」

 不意にロッテンが口を開いた。

「あ、はい」

「これも」

「は、はい……」

 適量のおかずが載った小皿を、ロッテンはテキパキとあたしの回りに配置していく。次から次へと来るから、忙しい。

 あたしは気がついた。

 ロッテンも食事をしてはいたけれど、途中からは料理をあたしの取り皿にのせることにほとんどの時間を使っている。エビはほとんどあたしの皿の上。

(……なんかやさしい……?)

 そう思ってロッテンを見ると、目が合った。ドキリとしたけれど、いつもの厳しさはない。私はくすぐったいような気持ちになった。

「何ですか?」

「……いいえ」

 くすぐったい……というよりは、“うれしい”。

(うれしい?)

 ロッテンと一緒にいることでこんな感情が出てくるなんて!

「まだありますから、よく噛んでお食べなさい」

「はい。……あの」

「えっ」

 つい話しかけてしまった。ロッテンは少し驚いたような顔をしていたけれど、あたしも自分で驚いてしまった。でも話しかけたのはあたしだから、続けなければ。

「あの、先生も食べてください……ね……」

 語尾が尻すぼみ。カッコワルイ。

(あたし、何言っているんだろ?)

 あたしの言葉に、ロッテンは目を少し見開いていた。生意気だと怒られる?――でも、すぐにいつもの無表情に戻った。

「そうですね」

 そう言って自分の皿の料理を口に運びはじめたロッテンを見て、あたしは思わず笑顔になってしまった。作り笑顔でなくて、自然に口角が上がった。

 そうしてあたしたちは食事を続けた。けれどしばらくするとロッテンはまた、料理をあたしの皿に多めに取り分けている。

(お節介だなぁ)

 あたしはこの食事中、何度ニヤニヤするのをこらえたか、わからない。

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