第5話 横浜マリンタワー

 ロッテンの目的地は、すぐそば。

 公園を縦断して向かった先に、タワー状の建造物がそびえ立っていた。

(ここ?)

 あたしはその建物全体を視野におさめようと見上げたけれど、あまりの高さにあやうく後ろに倒れそうになってしまった。

 シンプルで美しい鉄塔、『横浜マリンタワー』。

 その中に入り、ロッテンはあたしから手を放して、受付に向かった。残されたあたしは、内部をキョロキョロと見回した。来たことがないのに、見覚えのある内装。

(そっか。ここもテレビで見たんだよね)

 何のための建物かまではわからなかったものの、中にあるレストランが紹介されていたのは憶えていた。

「えっ……無いんですか?」

 驚くロッテンの声がした。見ると、受付の女性がロッテンに申し訳なさそうに頭を下げている。

「はい、バードピアは二〇〇五年に閉館いたしました」

「……もうそんな前に……」

(バードピア? 何それ?)

 落胆した様子から、ロッテンにとっては重要な場所だったのだろうと想像できた。

 チケットを手に入れたロッテンは、ツカツカと戻ってきた。

「二階からエレベーターに乗ります。急ぎなさい」

「は、はい」

 二階に着くと、係員の女性が展望フロア行きエレベーターを案内していた。ちょうどエレベーターが停まっていた。

 乗ると一瞬は鉄格子の中に入れられたような感じになる。けれど昇っていくと、途端に解放された。エレベーターの壁は透明で、鉄骨の間に周辺の景色が見えるから。

(すごっ……)

 思わず息を呑んだ。すごい勢いで、自分が上昇しているのがわかる。

 エレベーターは、まもなく最上階に着いた。目の前の風景に、あたしのテンションは最高潮になった。

「わあっ……!」

 思わず駆け出し、ガラス窓に貼りついた。その時点でロッテンの手から放れてしまったけれど、無理に繋ぎ直されることはなかった。

 山下公園、シーバスの着いた船着き場が小さく見えた。すぐそばにあった大きな氷川丸も、まるでおもちゃのよう。また遠くに大きな観覧車や高いビル、あの半月形の建物もあった。少し前まであたしたちがその辺りに居たのが、嘘みたい。

「すっごいですね!」

 あたしは興奮して、思わず叫んでロッテンに同意を求めた……けれど、反応が無い。

「あ……あれ?」

 ロッテンは後ろに居なかった。けれどあまり広くはない展望フロアの中、すぐに見つけることができた。

 景色を見ることなく、ロッテンは歩いていた。ただゆったりと景色を楽しむ様子ではなく、キョロキョロと落ち着きがない。展望フロアは平日とあって、あたしたちの他には二、三組ほどしかいなかった。ロッテンはその人達全員の顔を確認し、そして小さくため息をついていた。

(誰かを捜しているの?)

 そう見えた。

(……娘?)

 思い出したのは、ロッテンのメモ。

「神崎さん、行きますよ」

「へ?」

 まだ少ししか見ていない!

 だけどロッテンはお構いなしに、またあたしの手を取って、そばにあった階段を下りた。

 下も展望フロアだった。あたしはまたガラス窓に貼りついた。

 山下公園方面に目を凝らすと、東京の高層ビルが見えた。それから海の方に少し視線をずらすと、手前に倉庫が数多く見えた。

(刑事ドラマの取引シーンとかを撮影しているのって、この辺りかな?)

 さらに方向を変えると、山の風景だった。

(横浜って、海だけじゃないんだ)

 そちらの方にも行ってみたくなった。

(でも今日は……?)

 ロッテンはまた誰かを捜している様子だったけれど、このフロアには他の客がいなかった。早々にあきらめた様子であたしのそばに戻ってきた。

「ひっ!」

 突然、ロッテンは驚きの声をあげて飛び退いた。

「先生?」

 ロッテンは目を見開いて床を見つめたまま、固まっていた。その足元には小窓があった。

「わあ!」

 おそらくそれは強化ガラス。つまりはそこから真下が丸見え。あたしはしゃがんで、その窓を覗いた。

「すっごいですね、ここ!」

 車がミニカーに見えたし、歩行者は豆粒のよう。すごくたのしい。

 あたしはその窓を叩いてみた。

「かっ、神崎さん! おやめなさい!」

(え?)

 いつもの、ぴしゃりとした声ではなかった。弱々しく、明らかに震えている声。

「あの……多分大丈夫かと思いますけど……」

 あたしはそんなにデブでもないし、力も無い。女子中学生が叩いたくらいで割れるようなガラスを、こんなところに使わないと思う。だけどロッテンは表情が恐怖で固まったまま。

(あっ……ひょとして、高いところが苦手とか?)

 そういえば上の階でも、ロッテンは一切外を見ようとはしていなかった。

「すみません……」

 あたしはしおらしく足下の小窓から離れた。でも口では謝ったものの、笑い出したくなるのをこらえるのに必死だった。

(ロッテンってば、高所恐怖症なんだ!)

 まさかの事実。そんなイメージはまったく無かった。

 これもおそらくは、あたし以外は誰ひとりとして知らないこと。校内では恐れられているロッテンが、こんなことを怖がっているなんて。

(へんなの!)

 盛大に笑いたかったけれど、さすがにやめた。高所恐怖症をあたしにばれたことに気づいたのか、ロッテンの顔が赤くなった。

(ロッテン、ちょっとカワイイかも)

 ロッテンは表情を固くして、キッとあたしを睨み付けた。

「そろそろ行きますよ!」

「はーい」

 わざと間延びした返事をしたあたしを、ロッテンは怒った顔で睨んでいたけれど、不思議とこわくはなかった。

 自分でも信じられないほど、ロッテンに対する恐怖心が消えつつあった。入学直後にお辞儀の角度が悪いとひどく叱られて、半泣きになって以来、一年と数ヶ月。ずっとずっとこわかったのに。

 あたしたちはエレベーターに乗って、地上に戻った。やはりロッテンは外を見ることができなくて、ずっと目を瞑っていた。あたしの手を握る力が少しだけ強くなったことが、妙におもしろかった。

「さ、行きますよ」

 そして仕切り直すように、声がキビキビするのも、また楽しい。

「はいっ」

 早足で一階レストランを横切った時、店からおいしそうな香りが漂ってきた。それがキッカケで、お腹が鳴り始めてしまった。

「あ……」

“クウウウウウウ”と、大きな音。ロッテンがそこで足を止めたということは、しっかり聞こえたのだろう。恥ずかしい。

 あたしは朝ごはんを食べないで家を出てきたことを思い出した。いったんおさまったかと思うと、今度は“キュルルルル”という音が続く。いい加減にして。

 照れ笑いをするのにもタイミングがわからない。ロッテンはきょとんとしてあたしを見ていた。呆然としているようにも見えた。ロッテンは自分の腕時計で時間を確認した。

「……そろそろお昼ですね」

「は、はい」

「行きましょう」

(だから、どこに?)

 こわい気持ちはやわらいできたけれど、まだ訊ねる度胸が無い。

 それでもあたしはロッテンの手の熱さを感じながら、おとなしくついていった。

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