第4話 山下公園
大桟橋埠頭を越えると、まもなく船旅は終わる。
(もう着いちゃうんだ……)
シーバスは、最終目的地の山下公園の船着き場に近づいた。シーバスとは比べ物にならないくらいの大きな船が停泊しているのと、船着き場の向こうに高いタワーが見えた。
(氷川丸と、マリンタワーだっけ?)
これも、テレビからの知識。
結構な衝撃とともに、シーバスは停まった。船旅の終わりは残念だけど、仕方ない。降りようとあたしは立ち上がった。
「えっ?」
だけどロッテンに腕を掴まれた。さっきまでとは違って、すがるような強い力。少し痛い。
「ちょ、先生……え?」
ロッテンは元々顔色がいい方ではないけれど、病人のようにひどく青白い顔になっていたから、驚いた。し、死んじゃう?
「せ、先生?」
ロッテンは白いハンカチを口元に当て、脂汗をかきながら必死にこらえていた。
(まさか……酔った?)
これも驚いた。船酔いするのに、船を選んだの?
なかなか立ち上がらなかったせいか、係員が走ってやってきた。
「だ、大丈夫です……」
ロッテンは係員にそう言ってけん制していた。そしてフラフラしながら立ち上がって、あたしに支えられながらなんとか船から降りることができた。その間はずっとロッテンに手首を掴まれたまま。その手は氷のように冷たかった。
あたしたちは船着き場から出ることができたものの、ロッテンは回復していない。今にも倒れそう。
(どうしよう。とりあえず休ませなきゃ)
どこに行きたいのかわからないけれど、このままじゃ進めない。
あたしは空いているベンチを捜した。すぐ近くにあったベンチには中年のサラリーマンが寝転がっていて使えない。仕方なく少し先の日陰になっているベンチまで、ロッテンを誘導した。
「先生、大丈夫ですか?」
ロッテンが具合悪そうにしているのを見るのは初めて。ここで倒れられても困る。
「大丈……」
すべてを言い終えることさえ、つらいらしい。
ここで、あることを思いついた。
「あの、あた……私、何か飲み物を買ってきましょうか?」
ロッテンはだるそうに眉間に皺を寄せて、あたしを見上げた。こんな角度のロッテンは初めて見る。いつも見下ろされているから。
いつもならロッテンに見られたらすくみ上がってしまうけれど、この時は別にこわいともイヤとも思わなかった。ただ少し不思議な感じがした。
やがてロッテンは無言で自分の財布を取り出して、あたしに手渡してきた。「任せる」ということなのだと思う。
「すぐ戻ります。ここで待っていてください」
そう言って自動販売機に走った。確か船着き場のチケット売り場の横に、自動販売機があった。
不意に顔がにやけた。
(ロッテンも乗り物酔いするなんて……!)
「ざまあみろ」とまでは思わないまでも痛快だった。あんなに恐ろしいと思っていた先生の弱い一面を見ることができるなんて、想像もしていなかったから。
あたしは自動販売機の前に立って、品物を選び始めた。
(やっぱ炭酸系かな……)
「さくら、大丈夫か?」
「はい、これ飲んで。スッキリするわよ」
幼い頃、あたしはよく乗り物に酔った。たとえ行き先が近場だったとしても、すぐに気持ち悪くなってしまう。
そうなるとお父さんはコンビニや自動販売機の前で車を停めて、あのひとは炭酸ジュースを買ってくる。それを飲むと、回復するのが早かった。
口の中でぱちぱちと弾ける甘い水が、おいしかった。
心配そうにあたしの頭を撫でるあのひと。バックミラーには、やはり心配そうな、やさしいお父さんの顔。
あの日々はもう戻らない――
また暗い気持ちになった。
(いけない。早く戻らなきゃ)
あたしはロッテンから預かった財布を開けようとして、慌てて手から滑り落としてしまった。中身がばらけて落ちた。
「もう……」
しゃがんで足下に転がった小銭を拾い集め、それらを財布に戻そうとした。すると財布の中に、折られたメモ用紙が入っていたのを見つけた。
(コレ、何だろう?)
他人の財布なのだからいけないことだと迷ったけれど、あたしは誘惑に勝てずにそのメモ用紙を取り出してしまった。四つ折りにされた小さなメモは、大学ノートの切れ端。そこに書かれていたのは、三つの単語だけだった。
“船 娘 横浜の帽子”
(帽子……“横浜の帽子”?)
何のことだかわからない。何か観光地で売っている帽子があるのかもしれないけれど、全然気がつかなかった。
“船”は、たった今乗ってきたシーバス? それとも、そこから見える氷川丸?
そして“娘”というのもわからない。
あたしの記憶が確かであれば、ロッテンは独身のはず。先輩の誰かがそう言っていた。古いマンションで寂しいひとり暮らしのオールドミスだって、陰口を叩かれていた。
(娘って……誰の娘だろう?)
ロッテン自身には子どもがいないだろうけれど、兄弟姉妹はいるかもしれない。そのひとたちに子どもが居れば……けれど、それは“姪”であって“娘”じゃない。
(あ。早く戻らなきゃ)
ロッテンがあたしを待っていることを思い出した。
紙片を戻して飲み物を買い、あたしはロッテンのもとへ戻った。先ほどよりは顔色がよくなっていたロッテンは、あたしを見てほんの一瞬だけ顔を緩ませたように見えた。
「先生、これ……」
買ってきた缶ジュースをロッテンに差し出した。
「……戻ってきてくれたのですね……」
「え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。けれど、
(そっか!)
逃げるチャンスだったことに気がついた。
(で、でも、スマホもロッテンに取られているし、ロッテンの財布を持ち逃げしちゃまずいし、鞄も品川駅のロッカーの中で、鍵はロッテンが持っているし……)
あたしには逃げる気がなくなっていた。
それは、目の前でへばっている先生に興味が沸いてきていたから。
(ロッテンも人の子なのね)
そう思うと、おもしろかった。クラスメイトたちが毛嫌いしている先生。その先生の弱い部分を、今、あたしだけが目の当たりにしている。クラスの……ううん、学校中の誰も知らないと思う。あたしだけが知っているロッテン。
ロッテンの顔色は、みるみるうちに明るくなっていった。
「そろそろ行かなくては……」
ロッテンはそう言って立ち上がったけれど、体がふらついていた。
ここでロッテンに倒れられると困る。救急車を呼ぶことになると、当然あたしたちが何故ここにいるのかを聞かれる。そうなると……
(そういえば、何でここに来たんだろう?)
突然、後ろから自転車のブレーキ音が聞こえた。
「どうしましたか?」
「は?」
若い男性の声。振り返るとそこには、白い自転車にまたがったままの警官がいた。
ロッテンはあせっていた。ここで保護されて、あたしが本当のコトを言ったら、ロッテンはこれでおしまいだから。
(だってこれって、未成年者略取ってヤツだよね?)
警官は、そんなことは少しも疑ってもいないような爽やかな笑顔だったけれど、ロッテンを見て心配そうな表情になった。
「具合、悪そうですね? そちらの……」
「あっ、ああ、あのっ……あ、祖母です!」
咄嗟に出た嘘。「えっ」という驚きの顔で、ロッテンはあたしを見た。
「おばあちゃんですか。大丈夫ですか?」
「え、ええ」
ぎこちなく頷くロッテンを庇うつもりで、あたしは精一杯の笑顔を作って説明した。
「おばあちゃん、ちょっと船酔いしちゃったみたいで」
(あたし、なんでこんな嘘ついてんの?)
すらすらと嘘が出てくる。こんな自分がこわい。
「それじゃ、救急車は呼ばなくても大丈夫ですね?」
すごく親切なおまわりさんに、少しだけ心が痛む。
「はい、ありがとうございます」
「も、申し訳ありません……」
ロッテンも話を合わせてくれていた。警官は安心したのか、にっこりと微笑んだ。
「いえ、それならよかったです。実は最近、この辺りで強盗事件が発生しているんですよ。ご婦人や女の子相手に、白昼堂々と犯行に及ぶヤツなんで、それに関連しているのかと」
完全に善意だったみたい。嘘ついてごめんなさい。
「強盗ですか」
「ええ。中肉中背の中年男性で……あ、それらしき人物がいたら、ぜひ通報のご協力をお願いします」
(中肉中背の中年男性って、世の中そんなおじさんばっかりじゃん)とは思ったものの、話をこじらせたくはない。「はい」と愛想笑いして返しておいた。すると警官も「では」とにこやかに離れて行った。
あたしたちはしばらく警官の背中を見ていたけれど、それが豆粒ほどの大きさになったあたりでようやくホッとした。そしてふとロッテンと目が合った。
(やば……祖母とか言っちゃったよ)
気まずい。
ロッテンがいくつかは知らなかったけれど、現役教師として働いているわけだから、還暦は越えていないはず。あたしのおじいちゃんとおばあちゃんよりは年下だろうけれど、ほぼ同世代だと思う。
それでも失礼だった。
しばらくの沈黙の後、ロッテンが口を開いた。
「二年一組の神崎さくらさん……でしたね」
「は? あ、はい」
(何であたしの名前を、フルネームで知っているの?)
驚いたけれど、ロッテンは全校生徒の名前を知っていると聞いたことがある。だから毎朝の挨拶チェックの時、すぐにクラスとフルネームが出るんだとか。
(少しキモイ……)
ロッテンはもう一口ジュースを飲み、深くため息をついた。
深い、深いため息だった。まるで気持ちの奥を吐き出すかのように。
空気がすごく重い。
「黙っていてくれて、ありがとう」
「えっ?……あ、はい」
私はまた気がついた。警官に助け?を求めることもできたことに。
だけど、あたしは(いくら何でもそこまでは……)という気持ちになっていた。さんざんクラスメイト達と悪口を言っていたのに。
でもさっきの弱った姿を見たら、なんとなく悪いような気がした。
(だからあたしはあのひとを責められないでいるのかも……)
あのひとはお父さんから散々責められているはず。だから、これ以上あたしが何か言うのはどうだろう? かわいそう。
――でも。
(自業自得なのに)
今回のことは、あのひとがすべて悪い。浮気したことが、すべての元凶。汚らわしい。
(あたしの方がかわいそうじゃない)
対立を深める両親に、何も訴えることができないかわいそうなあたし。これからどうなるのか、どうなってしまうのか、さっぱり何もわからない。教えてももらえない。
あたしは一瞬でもあのひとに同情したことを、後悔した。
「神崎さん」
ロッテンがゆっくりと立ち上がり、あたしは我に返った。
「どうもありがとう。それじゃ行きましょう」
「は、はい……」
返事をしたものの、やはりどこに行くのかは聞けないまま。これもどうなってしまうのかわからないけれど、少しだけワクワクする。
ロッテンがあたしの手を取り、そしてあたしたちはまた歩きはじめた。ロッテンの手はすっかりあたたかさを取り戻していた。
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