ヨコハマ・ランデブー
ハットリミキ
第1話 生活指導室
九月も半ばを過ぎた。
「あっちぃ……」
思わず声が漏れた。
着崩した制服に、じっとりと汗がにじむ。髪もべたつく。それでも真夏に比べれば、だいぶ過ごしやすくなってはいた。
この日は快晴で、三階のこの部屋の窓からは、雲ひとつ無い真っ青な空だけが見える。それがまるで青いビニールシートを四角に切り取って壁に貼っただけのように、佳奈には見えた。
(安っぽい)
大きなため息をついた。
四時限目が始まったばかり。教師の甲高い声と、黒板にチョークを走らせる音、音楽室からであろうピアノの音と歌声が、遠くから小さく聞こえてくる。
この学校には、一クラスの人数と一学年の学級数からざっと計算すると、中等部だけで五百人程度の生徒がいる。遠くから聞こえる学校の音は、その気配を感じさせる。
それなのに、この部屋には自分ただひとり。まるで仲間はずれにされているように感じた。孤独には慣れているはずなのに。
じっと座っているだけ。膝から下を浮かせてバタ足をしてみたものの、気晴らしにもならないと思ってすぐにやめた。
薄暗い部屋。
名門女子校と謳われるこの学校は、増改築を繰り返してはいるものの、全体的に建物が古い。特にその部屋は開校当初からある校舎の中にあり、歴史を感じる香りに満ちている。
その伝統ある校舎内で、おしゃれからは少し遠いがやはり伝統のある制服を着て、佳奈は小さくなって座っていた。
初めて入ったその部屋は、八畳間ほどの広さだった。壁際に、天井まで高さがあるキャビネットが一棹。その横には電話が載った小さな事務机と、畳まれている椅子が数脚、壁に立て掛けてあった。そして部屋の中央には、会議用机と折り畳み椅子が二脚、置かれている。二脚の椅子は対面に置いてあり、佳奈はテレビドラマで見た警察の取調室を想像した。
(“アイスバー”のヤツ、遅いな)
三時限目が終わってすぐに、ここに来るようにと呼び出された。
心当たりはある。しかし呼び出しは放課後だと思っていた。
恐怖ですくんだ足をだましながら、なんとかここまでたどり着けた。それなのに部屋は無人で、佳奈は少し拍子抜けをしていたところだった。
(この部屋でいいんだよね?)
別の部屋ではなかったか、不安になってきた。そこへ突然ドアがノックされ、佳奈は驚いて立ち上がった。
「はっ、はいっ!」
遠慮の無い音を出して、ドアが勢いよく開いた。
「急がなければならないのに、こんな時間になって申し訳ありませんでした。前の授業が押してしまっていましたので」
そう言いながら、全身をグレーのスーツで包んだ初老の女教師が入ってきた。それと同時に、部屋の空気が一気に張り詰めた。
教師は立ち上がった佳奈に着席を促し、持っていた書類を事務机の上に丁寧に置いた。佳奈は言われるままに着席したが、緊張がひどくて俯くことしかできない。膝の上においた自分の手を見ると、小さく震えていた。
(べ、別にこわくないもん)
そうは思うのに、心臓が跳ねる。そしていつ雷が落ちてもいいように、身を硬くする。
(……?)
しかし書類を置いた後、教師はしばらく黙って立ったままだった。教師が何をしているのか、どんな表情をしているのか、あまりにこわくて佳奈は顔を上げることができない。
「いいお天気ですね」
不意に声をかけられ、佳奈は体をさらに硬くした。どうやら教師は、窓の外を眺めていたらしい。それから佳奈の周りを、コツコツと靴の音をさせながらゆっくりと歩き出した。
すぐ対面に座って説教を始めないところが、いやらしいように佳奈は思った。まるで肉食動物が、身動き出来ないでいる獲物の周りを、どこから喰いつこうか楽しく迷いながら歩いているイメージ。
「中等部二年三組の鈴木佳奈さん」
足音が止まったと同時に声がかかったが、頷くことすらできない。首筋を流れる汗は、残暑によるものか、冷や汗か。
「最近はお休みが多いようですね」
(アイスバーのヤツ、担任でもないのになんで知ってるの?)
担任でないどころか、佳奈は入学以来この教師に教わったことが無い。自分のクラスとフルネームを何も見ずに諳んじられたことが、ひどく気持ち悪かった。
「ほんとに、いいお天気」
教師は彼女の返事を待たぬまま、話を天気に戻した――と思ったら、
「こんなお天気ですから、あなたのどこかへ遊びに行きたいという気持ちもわかります」
本題に入るようだ。
“生活指導室”。この学校の生徒にあるまじき非行が発見された時、生徒はここに連れ込まれる。そして生活指導担当教師から、叱責を受けることになっている。
ふだんは英語を教えているこの女教師がその担当で、生徒たちの間では“アイスバー”と呼ばれている。そのあだ名のことは、本人は知らないはずだ。愛情のこもったあだ名では決してなく、“氷のように冷たいババア”という意味がある。陰口と同じことだった。
背は高い方ではないが常に姿勢がよいため、生徒に威圧感を与える。決して感情的にはならず、しかし無表情で射るようなその視線は、氷の針のように突き刺さる。授業もそうとう厳しいらしいが、礼儀作法に関しては特に厳格だ。
たとえばこの学校では、登下校時に校門に控える教師や風紀委員会の生徒たちに向かって、一度立ち止まってから、 “ごきげんよう”と挨拶をしなければならない。アイスバーはこれにこだわりがあるらしく、その頭を下げる角度にまでダメ出しがある。佳奈も何度かやり直しを命じられた。
「挨拶は非常に大事なものです。自分がその相手をどう思っているかを伝えることができます。決しておろそかにしてはいけません」
――というのは、生徒に注意する時のアイスバーの口癖だ。
ところが。
「まあ、この学校は、少しばかり窮屈ですからね」
(えっ)
と、佳奈は顔を上げた。
「あら、これは内緒ですよ」
アイスバーは小さく微笑みながら言った。
(えええええ?)
アイスバーが“こわい先生”という認識しか無かった佳奈は、少しくらい道がそれても仕方ないという言い回しをする教師に面食らった。その上、笑顔を見せられたものだから、激しく動揺した。
(アイスバーが笑うの、初めて見た……)
教師の眼鏡の奥で、丸い瞳に皺が寄っていた。
だが、その笑顔がすぐにキュッと引き締まった。
「けれど、学生の本分は学業です。正当な理由無く、しかも嘘をついて授業を休んで、繁華街に行くなどという愚行を、教師として見逃すわけにはいきません!」
「はっ、はい!」
反省するつもりは無かったが、アイスバーの迫力に自然と背筋が伸びる。
この日、佳奈は学校をズル休みしようとしていた。
最近はよく学校をサボって、都心の繁華街に出る。そこで知り合った友達と落ち合って、ファストフード店でたむろしたり、街を練り歩いたりする。電話で「生理痛が」と言っておけば、男性である担任などはそれ以上突っ込んで聞いてはこない。
だが、学校の最寄り駅で降りようとしない彼女の腕を掴んだのが、この教師だった。
「どこへ行くのですか?」
佳奈が、制服の一部であるワインレッドのリボンタイを外そうとしている時だった。
正直、ばれてもいいという気持ちはある。学校にばれて停学か退学になったり、親に叱られたりしたって、どうってことは無い。だがアイスバーに叱られるということが、佳奈を絶望的にさせた。
腕を掴まれ、まずは登校させられた。それから授業を受けるように指示をされたが、このままでは済むまい。放課後に呼び出されるものかと思っていたが、四時限目の授業を欠席して生活指導室に来るように言われた。
(なんで? 自分が空いてるからって、生徒の授業休ませてでも叱りつけたいの? 自分勝手なヤツ!)
心で悪態をついたものの、恐怖で胸が苦しい。
同じフロアにある音楽室から合唱が聞こえ始めた。
「フフッ」
意外な声が聞こえてきた。
佳奈が驚いて視線を向けると、またアイスバーが笑顔を見せていた。先ほどよりも確実に笑っている。それが“思い出し笑い”であるということが、この時の佳奈にはわからなかった。
ポカンとした顔で自分を見つめている生徒に、ようやくアイスバーは気がついた。
「あら、ごめんなさいね。ちょっと思い出してしまって」
「な、何をですか?」
アイスバーが“こわい先生”だということを忘れ、佳奈は思わず問いかけた。するとアイスバーは笑顔をそのままに続けた。
「この曲」
「?」
聞こえてきたのは、童謡『赤い靴』。
まもなく開催される校内合唱コンクール。毎年秋になると必ず行われる行事であり、全校生徒がクラス単位で課題曲と自由曲の二曲を歌い、優劣を競い合う。他の学年の課題曲は毎年異なるが、中等部二年生だけは『赤い靴』と決まっている。当然、今年は佳奈も歌う予定だ。何故その歌なのかは、定かになってはいないが。
聞こえてきた演奏は、ピアノの伴奏もたどたどしいが、合唱もソプラノとメゾソプラノ、アルトの各パートがうまく絡んでいないようだった。練習を始めて間もないのだろう。お世辞にもうまいとは言えない合唱に、アイスバーはしばらく聴き入っていた。
(これが……なに?)
怪訝そうな顔をしていたらしい。佳奈の表情を見て、アイスバーはうれしそうに言った。
「私があなたくらいの歳のころ、学校をサボって遊びに行っていたことがありました。その時のことを思い出していたのです」
「ええっ!」
静かな部屋にそぐわない、大きな驚愕の声。その声にアイスバーも驚いた様子だったが、また表情を緩めた。
「そんなに目をまん丸くして……驚きましたか?」
指摘されて、佳奈は慌てて表情を元の神妙な顔に戻した。これから叱られるはずなのだ。
「ウフフ、信じられないでしょう? 学校や塾に行ったふりをして渋谷や原宿に出て、遊び仲間達と合流して……煙草や飲酒、不純異性交遊こそしませんでしたが、他校の友達とよくファストフード店でたむろしていたのですよ」
唖然とするしかない話の展開。周囲に評判を聞けば、“厳格”“冷徹”という単語しか出てこないこの女教師が、やんちゃな過去を語っているのだから無理もない。
(でもそれと『赤い靴』が、何の関係があるの?)
答えはすぐに出た。
「一番楽しかったのは横浜へ行った時でした」
(横浜?)
確かに『赤い靴』は横浜が舞台だ。
「ここからはちょっと遠いですね。あの時は、拉致されたのです」
「えっ! だ、誰にですか?」
“拉致”とは穏やかではない。また驚きで叫んでしまった。するとアイスバーはたいしたことではないように、しれっと答えた。
「“ロッテン”です」
「は?」
初めて耳にした単語。
「ああ、ごめんなさい。ロッテンはあだ名です。本名は……あら、いやだ。最近は物忘れが多くて困ります」
ただ叱られるだけの予定だった時間が、ずいぶんと感情豊かな空間になってしまった。
「あなたの世代はわからないかもしれませんが、『アルプスの少女ハイジ』というアニメが由来です。ヨハンナ・スピリの小説が原作の……ご存知ですか?」
佳奈は口をぽかんと開けたまま、首を横に振った。
「私が幼い頃に、すでに古いアニメとして衛星放送などで放送されていましたから、無理もありませんね。それに出てくるキャラクターで、ロッテンマイヤーさんという女性がいるのです。お金持ちの家に仕えていて、躾に厳しい人です。その家のお嬢様を立派な貴婦人に育て上げるためだったのでしょう。その人に似た感じだったから、“ロッテン”というあだ名を付けられていました」
まったく知らないアニメゆえに、想像もできない。ただそのキャラクターの気質は、アイスバーといい勝負だろう。
「私の在学中に英語を教えていた方で、生活指導も担当していました。いくつくらいだったか……あのことから数年で定年退職だったと記憶しているので、五十代後半かしら。いつも黒かダークグレーのジャケットとロングスカートに、夏場でも長袖の白い無地のブラウスを着ていました」
佳奈の中で“ロッテン”という女性像がおぼろげながら形作られてきた。ますます目の前の教師とかぶる。
「笑顔なんて生徒に見せたこともなく、いつも表情が変わらなくて、ちょっと不気味でもありました。本家……アニメのキャラクター以上に厳しい方で、彼女を怖がらない生徒はいませんでした」
(それはアイスバーも同じじゃない)
と佳奈は思ったが、さすがに言葉にはしなかった。けれど表情に出ていたのだろう。
「私の方がこわいですか? フフッ。私なんか、ロッテンの足下にも及びませんよ。私も何度叱責されたことか。身だしなみ、生活態度、授業中の姿勢、言葉遣い……特に挨拶の仕方に厳しい方でした。立ち止まらなかったり、お辞儀の角度が悪かったりすると、何度も改めさせられたものです」
(ああ、だからアイスバーは“ごきげんよう”にうるさいんだ)
納得。生徒だった頃に叱られた八つ当たりで、だから……
「不満そうですね」
ギクリ。
「学生当時の私も不満でした。“ごきげんよう”とちゃんと言っているし、頭を下げるのは変わらないのだから、角度なんてどうでもいいではないか、などと。――けれど、それは大きな間違いでした」
その時、この初老の女教師の眼差しは、遙か遠くを見ていた。
「私は、あんなに美しいお辞儀を、あの時まで見たことがありませんでした。あの挨拶が、あれほどまでに悲しく、切なく、人の心を打つなんて」
「……」
何の話が始まるのか、さっぱりわからない。そんな佳奈に構わず、笑顔を湛えた教師は話を続けた。
「あれは、二〇一五年のことです」
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